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ちゅら海のそば-ボーリング・フォー・コロンバイン-

音がないのは宇宙のようで、ちゃんと空気があるかどうかを繰り返し確認してみたくなる。
プレアデス星団を見たのは久方ぶりで、こぼれそうな星屑を腕いっぱいに抱きしめたくなる。

海と空が、ブルーから乳灰色へ連続的につながる。
テラスの柱と廂の直線に切り取られた、まるみのあるニュアンスが島の時間を讃えている。

何をするためでもなく、ただ少し遠くに来たのだが、同じ国とは思えない。
国境線は本質でないのだから、たぶん違う国なのだろう。

映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」の中で知ったが、カナダ人は家に鍵をかけないらしい。
隣人を信頼しているからだと言っていたが本当だろうか。

一人暮らしが長ければ、無意識に鍵をかける習慣が身につく。
時々、マンションのエレベーターを降りたあたりで、「さっき鍵かけたっけ?」と思いあたり、気になって自分の部屋まで戻ってみたりするのだが、必ず鍵はかかっている。
鍵をかける動作をした記憶がなくても、条件反射で体は動いているのだ。

でも、実家に住んでいた頃は鍵なんてもっていなかった。
今でこそ夜に家族みんなで出かけるときは鍵をかけるが、昔は昼間なら誰も家にいなくてさえ、私が学校から帰って玄関に鍵がかかっていたことなんか一度もなかった。
「おばあちゃあん」と大声で呼んでも誰も応えず、「なんや、誰もおらへんのか」と気にもせず冷蔵庫のアイスクリームを探す。
物騒だなんて感覚はなく、うちの家の鍵がどこにあるのか、たぶん家族の誰も知らなかったんじゃないか、なんて気がする。

それでも10年近く前、実家に泥棒が入ったことがあり、それからは結構用心するようになった。

一人暮らしを始め、初めて自分の鍵をもったときの、少しくすぐったくて急に大人になったような感覚。
この鍵で、自分だけの秘密を持ち、自分だけの空間を所有する。
それは嬉しいことだった。

一方で、自分だけの秘めごとは孤独の始まりでもある。
頻繁に頭をよぎるのだが、私のような一人暮らしの人間は、どこでどんなふうに倒れても、平気で数日間発見されなかったりするのではないかと。
確かに、会社勤めをしているし、友人もいる。
だから、いずれ誰かがおかしいなと思い、もしかしたら心配してうちを訪ねてくれるかもしれない。うちにいなければ捜索願を出してくれるかもしれない。

あるいは、秘めごとを秘めごとにしたいのに、それを誰も知ってくれないことにダダをこねたくなったりする。
私の人生や未来や感情や考えを、誰も正しく知ってくれないとしたら、それに理不尽な苛立ちや焦りを感じたりする。
全部知られたくない。でも、知ってほしい。

孤独を愛しながら、孤独を恐れる。
滑稽なほど人間は利己的だ。

事実、今日、私がどこにいるかを知っている人は実際にはほとんどいない。
そしてまた、この旅の地で、私がどこの何者なのかを知る人は皆無なのだ。

一人旅をする人は、その感覚がむしろ好きなのだろうか。

この宿には部屋が5つきり。
オフシーズンの宿泊客は毎日4人から5人。
海に臨むテラスで全員が朝晩の食事をともにする。

何泊するのか、昨日はどこに泊まり、明日はどこに行くのか。
景色の美しさだとか、明日の海の天気だとか、南十字星の位置について。
宿泊客どうしの会話は、たいていその範囲内でおさまる。

個人を特定するような情報はたずねない。
どこから来たかくらいは訊かれることがあるが、何歳なのか、どんな仕事をしているか、恋人はいるか、まして将来の夢は何かなんて、当たり前だが話すわけがない。
名前さえも交わさぬことが多い。
だから、「夫婦連れの旦那さん」とか、「デニムのブルゾンを着ていた彼女」とか、そういう記号性で人を憶える。

行きずりの人に興味自体がないのかもしれないし、プライバシーに立ち入ってはいけないと思うのかもしれない。
私などは、あえて具体的な情報を訊かず、その人の動きや話し方から「この人はこんな職業なのかな?」とか「こんな学生時代を過ごしたんじゃないか?」なんてことに想像を巡らせるのが好きだったりするが、そんな趣味の人もあまりいないと思う。

ただ純粋に、その場限りの旅心地を味わう。
そこにしかなく、その瞬間にしかない、風と湿度と温度を肌でとらえるのだ。
そのひとときを共有するものとして隣人がいるが、それ以上でも以下でもない。
おそらくそのとき胸によぎるものは、物理的な距離の近さとは無関係な、もっと別なところにある。
そばにいなくても、そばにいたい人のことを想う。
そんなものだ。

旅における孤独は不思議だと思う。
日常生活における孤独とは何か違う。

一人暮らしの部屋に鍵をかけて、見られたくないことを隠すのとは少し違う。
見られたくないのに、本当は知ってほしいという、根源的な矛盾。
立ち入られたくないのに、忘れられたくはないという、切ないわがまま。
そういう誰もが抱える望みを、どこかいっさいがっさい無意味なものにするのが、旅における孤独。

私のことを誰も知らないが、誰も知らなくていい。
暗黙のルールの上に、心の鍵を開けておく。

隣人の旅心を信頼しているからかもしれないし、守るほどのものがないのかもしれない。
ともかく自由になる気がする。

いつも自由なはずなのに、それとはまた違った、限りなく楽チンな自由。
誰かから守っていく自由ではなく、守らなくていい自由。

自由というより、解放?

たとえば、アメリカは自由の国だと言うが、銃によってそれを守ることに躍起になる。
「自分の自由を守るために、他人の自由を奪うための武器を持つ自由」という、外から見れば奇妙に捻じ曲がった主張がまかり通る。

想像しても苦しいばかりのような気がする。
置き換えれば、日常生活の中で、私たちが抱える他者への警戒心だったり、誤解への恐怖だったりは、自分を守るためなのに同時に自分を苦しめてしまうように思うのだ。

そんな自分を解放して本当に自由になるというのは、たぶんこんな感覚なんじゃないかと、潮風を受けながら思う。
そこまで自由になったとき、余計なものの差し引きなく胸に浮かぶ人のこと、心に湧く感情のこと、あるがままに大切なものを改めて知る。

ちゅら海のそば、心の鍵を解く。

ボーリング・フォー・コロンバイン Balling for Colombain(2003年・米)
監督:マイケル・ムーア
出演:マイケル・ムーア他

■2006/1/23投稿の記事
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