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旅の思い出

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旅の記録のつめあわせ
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富士山と愚問-もののけ姫-

「なぜ山に登るのか」と問われ、登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるからだ」と答えたことは有名に過ぎる。 なるほどとも思うが、少々エキセントリックだとも思う。 富士山に登ろうと思うと言ったとき、それに対して「なぜ」と訊く人はいなかった。 「一度登らぬバカ、二度登るバカ」というように、富士山に登ることについて、改めて説明はいらない。 大方の日本人が「富士山に登ろうと思う」とき、その理由はただ一つ、「富士山が日本一の山で、私は日本人だから」だと、それで十分事足りる。 「富

空に吸はれし-一握の砂-

少し遠出をした日のことを振り返るとき、真っ先によぎるのは、必ずといって、帰り道で渋滞する車の窓から見る光景だ。 陽の落ちた山の影が黒く浮き上がる宵口の高速道路に、気だるく灯る赤いテールランプの長い列。 カーラジオから洋楽。 行きがけよりも沈黙の長い車内。 一日遊んだアクティビティの記憶は幾枚もの静止画の連続として残り、祭りの後のような帰り道の記憶は軽い疲労感とともに動画と音として残る、という感覚。 楽しかった記憶。 楽しかったと反芻している記憶。 「yukoちゃんが、

沢と煙-激流-

柄にもなくアウトドアづいた勢いに乗り、誘われるがまま、「ラフティング&カヤック合宿」なるものに参加した。 埼玉県の長瀞という土地まで赴く。 数ヶ月前、TOKIOの「鉄腕DASH」で長瀞の渓流下りにチャレンジする企画が放送されていて、「ながとろ」という地名だけは覚えていた。 まったくの素人であるTOKIOメンバーが一般の客を乗せて船頭をやれるくらいなので、大して難しいこともないだろうと高をくくる。 私が体験するのは、屋根付きの小舟に乗った渓流下りではなく、ゴムボートによる「ラ

物語が生まれる街-スパイダー・マン-

摩天楼は山であり谷だ。 切り立った崖の連なり、影の落ちる峡谷。 谷底から見上げれば、尖った山が天空を削るほどにそびえ立つ。 尾根に立って見下ろせば、狭く深く暗い裂け目に膝が笑う。 そのマンハッタン峡谷を自由自在、蜘蛛の糸にぶら下がり、ターザンみたく駆け巡る。 大きなスイングでビルからビルへ。 しなやかな跳躍、目を奪う速度。 スパイダーマンが大都会に躍動する姿は感動に等しい。 縦方向の直線に比べ、マンハッタンの道は不釣合いなほど狭く感じる。 80階を超えるほどの高層ビルが

公園の住人-シャーロットのおくりもの-

10月の3連休、ある晴れた日。浜離宮公園を散歩する。 以前、汐留の高層ビルの中から、毎日のようにこの公園を眺めていた。 広々として海に臨み、緑が生い茂り、静かな池と刈り込まれた植木が見える。 「離宮」という言葉の響きは、なぜか「竜宮城」を思い起こさせる。 あそこをのんびり散策したら、どんな気分なのだろうと思いながら見ていたのだ。 逆に公園から、私がいつもこちらを眺めていたはずのビルの21階付近を見上げると、その窓は小さすぎて、中に人がいると思うととても不思議な感じがした。

最高のおもいつき-ニューヨーク・ストーリー-

「今年もロックフェラーセンターのスケートリンクがオープン」 あるブログの記事を読んで、私は反射的に思ったのだ。 「そうだ、ニューヨークでアイススケートをしよう」 並び立つ星条旗が風にひるがえる摩天楼の狭間、周囲より1階分くりぬいたように窪んだスペースに、小さなスケートリンクがある。 そのリンクを中心に据えてロックフェラーセンターは立ちはだかっていると言ってもいい。 そこは観光地でもあるしオフィスビルでもあり、ショッピングセンターでもあって、多くの人がビジネスミーティングの

The one where the Indians-ライ麦畑でつかまえて-

ニューヨークでは、「それ何日間で?」と訊かれるほど多くの予定をこなした。 これは私の旅のスタイルとはちょっと違うのだけれど、なにせ短い日程で、当初思っていたよりずっと多くのやりたいことが見つかったので、結果的に相当詰め込み型の強行スケジュールとなってしまったのだ。 世界最高峰のコレクションが収められた数々のMuseumはニューヨーク観光の目玉の一つだが、ただ、Museumめぐりには時間がかかることが難点だ。 広い館内を観てまわるだけで数時間必要だし、入館するまでの長い行列も

コスモポリタン-ニューヨーク東8番街の奇跡-

つまりニューヨークは、移民の街だ。 歴史的な成り立ちをしてもそうだし、現在においても、マンハッタンの住民の6割は移民一世だと言うのだから、その事実は増殖を続けていると言っていい。 よく言われることだが、タクシーに乗るとそれを如実に体験できる。 決して、英語を母国語とするドライバーに出逢わないのだ。 十中八九、彼らの英語は私に負けず劣らずの片言で、運転の間中はイヤホンマイクの携帯電話で耳慣れない「どこか他の国」の言葉をしゃべりっぱなしと決まっている。 映画「ナイト・オン・プ

アメリカ!-海の上のピアニスト-

毎日同じだった。 誰かが目を上げ彼女を見る。 理解できないことだ。 船には1000人を超える乗客が乗ってた。 金持ちの旅行者、移民たち、得体の知れぬ連中、おれたち。 それなのにいつもたった1人だけが、最初に『彼女』を見る。 何かを食ってたりデッキを歩いてたり、ズボンのベルトを締めてひょいと海のかなたに目をやった一瞬『彼女」を見るのだ。 彼はその場に立ち尽くす。 高鳴る胸の鼓動。 そして誓ってもいいが皆同じことをする。 皆のいる甲板に向き直って、声の限りに叫ぶ『アメリカ

休日の出来事ー釣りバカ日誌ー

私たちは、東海道線を西へ、小一時間向かった。 列車のシートに背をもたせ、他愛ないおしゃべりを続けていても、不思議だけれど海原の風景が目に飛び込んだ一瞬に会話が止む。 その光景は、いっぺんで人を黙らせる。 窓は開いていないのに、潮風が吹いてくるような錯覚もする。 説得力のある、開放感。 その日の天気も好かった。 熱海駅から先、伊豆半島に差し掛かると、列車は各駅停車になる。 二駅乗って、網代という無人駅に降り立つと、改札の外には、想像以上に小さな漁村の様相が広がっていた。

誰もいない朝ーオープン・ユア・アイズー

早朝の空気というのは不思議だ。 それを朝もやと呼ぶのだろうか、煙たさにも似た独特の眩しさに包まれていて、なぜだか耳が遠くなったような感覚がする。 自分と、自分が今いる場所との間にはなじみきらない薄い膜があって、まるで異次元に放り込まれたみたいなのだ。 胎内で夢を見ているみたい。 早起きをした朝も、夜を明かした朝も、そうして一日の予感がくすぐられる。 ジムへ向かうため、地下鉄の出口を松屋の目の前で出て、銀座の街角を早朝に歩く。 休日や夜の溢れかえる雑踏がきれいなまでに消え

惚れた腫れたの島暮らし-ナビィの恋-

島の気分をどんなものかと言い例えるならば、この映画を見てみるといい。 どこからともなく音楽が聴こえ、なんにもかもを大して意味のないのことだと笑い飛ばす陽気でゆるやかな踊りを踊る。 「惚れた腫れた」がこの世の重要なことの9割9分を占めると、大きな声で堂々と言い切って拍手喝采を浴びるような、そういう空気。 あくまで私個人の感覚においてだが、モーニング娘。の歌なんかを聴くと、その「惚れた腫れた」至上主義の能天気さに、半ば呆れ、半ば癒されるのだけれど、島暮らしというのはなんだかそう

ダーウィンへの質問-植物のひみつ-

どんな小学校の図書館にもあっただろう「学研まんが ひみつシリーズ」。 その中の「植物のひみつ」という本は、私が好んで繰り返し読んだ漫画のひとつだ。 いたずら好きな男の子と博士がいて、ある日、博士がどんなものでも小さくしてしまう薬を発明する。 男の子はその薬でハエが怪虫に見えるほど小さくなり、博士が作ったミニミニサイズの飛行機に乗って植物の世界を探検するのだ。 熱川ワニ園なんかで見たことがあるが人間も座れる巨大なハスの葉を滑走路にしたり、ウツボカズラのお風呂に入ってヒヤリとす

狼が横切るとき-コラテラル-

雨そのものは音もなく降るが、ブルゾンのナイロンにぶつかればパラパラとやわらかく鳴る。 今朝も北風が強く、頬と耳をひんやりと湿らせる。 葉書を出そうと最寄のポストまで歩く。 集荷は一日に一回きり。 日曜は午後の一度だけ。 銀色の弁をぐいと押し、朱色の箱に葉書を一枚そろりと入れる。 コトリと音を立て落ちる。 この箱の中には今、これきりの一枚。 郵便やさんは毎日、どんな気持ちでこの箱を開けるのだろう。 数日に一度ほどしか開ける意味がなさそうなこの箱を。 今日は開ける意味があ