「教師として生きる」というのは、やっぱり幸せなことなんじゃないだろうか。
最近筋トレをしながら友達と話したことがある。
それは「幸せとは何か?」という話だ。
人は一体どういう時に幸せを感じるのだろう。
ぼくらが幸せになるためには、一体何を達成すればよいのだろう。
生徒を幸せにするには、一体何を達成すればよいのだろう。
こんな話ができる友達がいることは貴重である。
それはさておき、そのときのぼくらの結論はこうだ。
「理想」が「現実」になる「瞬間」に、人は幸せを感じる。
例を挙げよう。想像しやすいのは、「美味しいご飯を食べるとき」だ。
見るからに美味しそうなカレーが目の前にあるとする。
「あぁ、美味そうだなぁ」と、カレーに対する「食べたい!」思いが大きくなる。
そして、スプーンを手に取り、そのカレーを口に含む。
期待を裏切らない美味しさに、幸福感がこみ上げる。
誰もが経験したことがあるだろう。ダメ押しをするならば、「暖かい布団で眠りにつくとき」だ。
夜、仕事で疲れて帰宅し、夕食を済ませる。お風呂に入り、疲れ切った体はどこへ向かうか。布団である。
「早く暖かい布団で寝たいなぁ」そんな理想を、ついに現実にできるのだ。
布団に入って思う、幸せだなあ。
それぞれ理想の姿(カレーを食べる、布団で眠る)が現実となる瞬間に、幸せを感じるというのは、あながち否定できないのではないだろうか。
ところで、今日、今、この瞬間、ぼくはぼくたち自身が定義した「幸せ」には当てはまりそうにない幸せを、沸々と感じているのだ。
確かに、教諭(正規採用)を目指し勉強し、それが叶った瞬間(理想が現実になった)は嬉しかった。3年間持ち上がった3年生を卒業させられたことも嬉しかった。
でも今感じているのは、そういう類のものではない。
ふと、なんとなく、「教師やってて良かったぁ」と思ったのだ。
自分の理想の教育が達成された訳でもない。授業でこれだ!という大成功を収めたわけでもない(そもそも休校中で授業がない)。
なぜだろう?自分なりに思うところを挙げてみる。
まず、「自分は歯車ではない」という実感が最近特に強い。これからの教育の在り方というものを自分の課題として捉えており、それに対して学んでいることがとても楽しい。それも一人でなく、想いを共有できている人がいる。
次に、「卒業生の訪問」が良い方向へのフィードバックになっている。とは言っても今日たまたま来ただけだが(笑)でもそれが良かった。
来年度大学2年生になろうとしている教え子(授業は持ったことないが)が来てくれ、近況報告してくれた。
何かやってあげられたという意識はないが、「つながりを持とう」としてくれていることが有難い。
自己肯定感はあまり高くないので、ポジティブなフィードバックとして受け取っておく。
別にこうなることを「理想」としていたつもりはなく、漠然と感じた今回の幸せ。
「今めっちゃ幸せ!」ではなく、「じわ~っとくる幸せ」
教師は多忙だ、ブラックだと言われて久しいが、他の職種にはない魅力が確かにある。
今度幸せの定義をする際には、この「じわ~っとくる幸せ」についても考慮しないといけないな。
ではこれを活力に、明日も頑張ろう。
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