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ほのぼの生きる  108_20230503

田舎の葬式

葬式って面倒臭い、と思っていた。
お坊さんのお経も長いし、足がしびれるし、親戚づきあいも面倒だし。

私が若い頃、職場の人の身内に不幸があると「芳名帳」というのが回覧でまわってきて、住所と名前と金額を書いて、封筒にお金を入れて、香典をしていた。
(私がギリギリの年齢のような気がする。私より年下の人は想像もつかない世界かもしれないな)
同じ課の人、親しい人で3000円、普段付き合いはないけれど知っている人なら1000円。
それ(その慣習)はいつの頃からか自然に消滅した。

結婚式や出産の祝儀は5000円以上なのに、香典は3000円が相場。
若い時に親に聞いたら「祝い事にはいくらお金を出してもいいけれど、不幸ごとにお金を出すのは失礼だ」というようなことを教わった気がする。

私の中ではそれが常識のようになっていた。

それにしても通夜とか葬儀とか、あまりいいものじゃない。だからできるだけ参列したくない、と思っていた。
礼儀(マナー)もよく分からないし、宗派によっても作法が違うだろうし。

私はずっと地元で育ったから、ほとんど同じ文化圏にいたので、その辺は心得ていたように思う。

でも嫁いできてからは勝手が違った。
高齢者が多い地域ということもあるし、親戚が異常に多い、近所付き合いも濃密ということもあり、年間どれだけ葬式があるんだというくらい、回数を「こなさなければならない」
私は嫁っこなので、私が出る幕などほとんどないのだが。
香典袋を用意するのは私の役目(奉書担当)だ。

香典が3000円なんてとんでもない。
香典、供物料、花料、初七日法事。四十九日法要、とにかく出費が多い。
身近な人が亡くなれば亡くなるほど、福沢諭吉がどんどん出ていく。

夫にここの地域の葬儀は異常ではないか。
なんで亡くなる人にそんなにお金を出すんだ。
と聞いてみたことがある。

香典は亡くなった人に出すものではない、遺された家族を助けるために出すものだ。
葬式も遺された家族が寂しくならないように、みんなで励ましに行くものだ。
結婚式よりも葬式の方が大事なんだよ。

所変われば、変わるものだ。

最初はこの地域の常識に慣れず、やっぱりおかしいとふてくされていたものだが、10年も経てばだんだんと慣れてきた。郷に入りては・・・である。
そして、だんだんとこの地域の人たちの温かさに触れ、理解してきた。

先日、義母の姉が亡くなった。
ゴールデンウィークの始まりとともに、無職(家で一人)から田舎の嫁っこになった私は、いろんな人と関わりながらここ数日を過ごしている。

自分の結婚式以来会っていなかった親戚もいる。
それでもその輪の中に入れば私たちは親族だ。
「親族」独特のつながりがそこにはある。
なんなんだ・・・この妙な連帯感は。

亡くなった義叔母を囲んで、親族が笑って話をしている。
昔の思い出話、近況報告。
10年以上も会っていないし、人生で出会ったのがたとえ2回目であったとしても「親族」として普通に話をしている自分がいる。

「おばちゃん、今までありがとう」と素直な気持ちになる。
涙も出る。

あーあ、これが人間。これが生きること。これがいつか私も死ぬということ。
これが家族。私は一人じゃない。

おばちゃん、みんなに会わせてくれて、ありがとう。

葬式ってこんな温かい行事だったか。

これは私が年をとったからなのか。

コロナをきっかけに、葬式は家族葬が増え、どんどん省略され、新しい弔いの形も増えてきている。
それは故人の遺志によるものが強いとは思うが。
自分の死にざまより、自分が遺していく家族が世の中で孤立しないように、たくさんの人に囲まれ、愛され、なんとか元気に金に困らず生きていけるように。
そんな粋な計らいが昔の人にはあったんじゃなからろうか、と思う今日この頃であった。

昔は「自分の葬式」は自分がどれだけ人に親しまれ、愛されていたか、それを証明してくれるもののように考えていたこともあったが、それは若さゆえの考え(要するに人から評価されたいという強い気持ちの表れか?)。
今は「自分が遺していく大事な家族がいるのであれば」その人たちが自分がいなくても寂しくないように・・・と思うようになった。
妹よ、弟よ、私の大事なうぉんばっとくんを頼むよ。親族の皆さん、ご近所の皆さん、なにとぞ我が家を支えてください。

あの人、いつ亡くなったの?
葬式ないんだって。
もう終わったみたいだよ。

まぁ賛否両論あるだろうが、「散り際美しく」それがどういうものなのか、もう少し自分の美学(流儀)を考えてみたい。

やっぱ年だな

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