小畑あきら

みんなでおこなう会話を通した平和な活動家。「純粋意識での聞こえ」を醸す、「三角の対話」…

小畑あきら

みんなでおこなう会話を通した平和な活動家。「純粋意識での聞こえ」を醸す、「三角の対話」を一人でも多くの方に広め、様々な声が広がり、全ての声が聴かれ尊重され、人とヒトのあいだが開かれて、誰もが心豊かに暮らせる公共する世界を創ろうとしています。facebook.com/wobata

最近の記事

「言う行為」のある空間・「置きベン」考

分断した社会を取りまとめるために重要になるのは集合態である。分断した社会を修復するには人や物、場所などに部分的に分断されたもの同志に関心が向かうことである。 ということは周りに人や物がなければ関心が起こりにくい。 周りに人や物が複数あれば、つまり集合態が豊になれば、お互いに関心を向けることも増え、そのなかで自身にとって大切なものを選択できるようになるかもしれない。集合態の重要性のひとつはこの複数性にあるといえる。 そこで「歩き回る自由」「循環する自由」という考え方を大切

    • 秋田の人と「まちに座る」20240702

      秋田の人と「まちに座る」20240702 梅雨の滴が残る早朝。かど掃きは金バサミで主だったゴミを拾い集めるだけにして、岡本太郎の言葉を書きかえていると、新聞を小脇に挟んだご高齢の女性が向かいのホテルから出てきてこちらをみている。 相氣的挨拶(自然と挨拶をしてしまえる術)で認識のし合いだけして志事をつづけていると、二車線の車道をわたって近づいてこられた。 「なになさっているのですか?」 「置きベン(地域にベンチを増やすプロジェクト)」の活動をしていると、よくこう聞かれる

      • 相氣的挨拶

        相氣的挨拶とは何か。 例えば「挨拶をしましょう!」というと、「する」「させる」という二分されたものを感じます。近代のスポーツで言えば、自分と相手が分かれていて、相手の自由を奪う為に如何に技をかけて投げるかみたいな。 古武道の相氣って、ちょっと違う感じを受けていて、一体となって気付いたときには投げられていた感。 こちらの「おこり」が察知されてしまうと相手は身構えますが、すっと入って「こんにちわ」って言えば、見知らぬ人でも大抵のひとが「頭をさげて」「こんにちは」と返して「しま

        • 非売三性説

          これからのビジネスの基盤を非売三原則と瑜伽行唯識学派の観点から捉え直してみました。乞うご期待。

        「言う行為」のある空間・「置きベン」考

          矢原文学とロゴスとレンマ

          「矢原文学は」とか、「矢原さんの文章は」という声を聞くときがある。 なかなか一筋縄ではいかないという意味を含んでいるのか。 私は会読会で「嘯く」という漢字が読めなかった。否、見たことがなかったのだ。 たとえ過去に見ていてたとしても阿頼耶には沈着していなかったのだ。 見たことがない、阿頼耶に存在しないということは当然読むことができないし、そこに意味を見出すこともできない。そこにあるのだけれども無いに等しい。そして参加者の方に読みを教えて貰う事で、その読み(音)から見えてい

          矢原文学とロゴスとレンマ

          人生・仕事の結果=稲盛和夫×対話実践×縁聴論

          【経営にオープンダイアローグの可能性あり】 経営の神様と呼ばれる稲盛和夫さんが、組織内外の全ての関係性に於いて、垂直・水平方向の主格合一をどのように成し得たのか。このあまり語られていない対話実践の痕跡をカメラマン小畑が社内の声をヒアリングし写真撮影をする中で「これからのビジネスの可能性」を体験するプログラムです。 「ビジネスシーンでの『オープンダイアローグ』の可能性が開かれゆくプログラム」の提供をひっそりと開始致します。 プログラム内容 ◎始業〜午前中 社内の様々な方

          人生・仕事の結果=稲盛和夫×対話実践×縁聴論

          京のコシカケ「置きベン」

          対話之町京都ヲ目指ス上京は京都市上京区の「京都御苑」の西側200mあたりに活動拠点があります。京都御苑の直ぐそばで展開していますベンチ置くだけプロジェクト「置きベン」を京都ブランドに!! 2024年3月13日『歴史探偵 誕生!「古都」京都』というNHKの番組が放送されました。 番組の中で、京都大学人文科学研究所 高木 博志教授 が、坂本龍馬の仲介で西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎が会談したとされる、慶応2年1866年の掌中雲上抜錦(しょうちゅううんじょうばっきん)という京都御

          京のコシカケ「置きベン」

          ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンと「唯識」

          「口に出して初めて考えていることに気づく」 小谷信千代著「唯識説の深層心理と言葉」(摂大乗論に基づいて)の朗読を聞き話す会は、氏の難解な文章にもかかわらず、参加者の皆さんと共に難解なまま読了までたどり着けそうな予感です。 「唯識(ゆいしき)」というと、どうしても「阿頼耶識(あらやしき)」とか「末那識(まなしき)」とか「八識説」などと「識」について解説する本が多くあるなかで「意識」と「意言(いごん)」、「唯識」「唯言」というふうに「識」だけではなく「言」すなわち言語化、言説

          ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンと「唯識」

          縁聴のすすめ・結婚するあなたへ

          むかし、ブライダル写真撮影の仕事をしていました。 その際に、打ち合わせという名の営業をしていたのですが、売るとか売りつけるというのが超絶不得手で、売るというよりはお二人のなれそめを聞いたり、カメラマンとしての体験談をお話ししたりしていました。 写真やアルバムのサンプルを見せるのですが、サンプルといっても見ず知らずの他人が映っているわけですから、通常の物品販売とは趣が違います。違和感を持つ人もいるし、感じない人もいる。写真の上手さで売る人もいれば買う人もいる。しかし売る私自身

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          「呼ばれたい名前を確認する」

          対話ミーティングでは始まる前に「呼ばれたい名前を確認する」と精神科医の森川すいめいさんは書いている。(ナラティブとケア15号p05/遠見書房2024) こちらが呼びたい名前ではなく、相手が「呼ばれたい名前」。 今放送されている100分で名著のローティを観ていて「名前」について考えてみた。 例えば、極端な例として誰かを呼び捨てにしたとする。 「あきらさん」、ではなく「あきら」と。 この場合大きく二つの事が考えられる。おそらく敵対的な呼び方ともう一つは親近感がある呼び方

          「呼ばれたい名前を確認する」

          人や人の話を「ジャッジしない」

          唯識説 四種尋思・四種如実遍智 人や人の話を「ジャッジしない」というけれども, その「ジャッジしない」としている認識自体が, 既に「自分がジャッジ(特徴づけ)した」 本質に似た「同分の影像(イメージ)」で, 認識対象そのものでは無い, 有りの儘を観ているわけでは無いという気づき. 唯識説の深層心理とことば/小谷信千代著/法蔵館2023

          人や人の話を「ジャッジしない」

          再考・ファシリテーション

          精神科医の森川すいめいさんは、「ナラティブとケア第15号/遠見書房2024刊」の序章でこの本全体の構成を「対話ミーティング」と見たて、このように著されている。 「クロージングは、対話ミーティングでは本人たちの声で終わるというものです。ファシリテーターの声で終わらない、今日話されたことを要約したり解釈したりしない、可能性を閉じるようなことにならないように、これがオープンダイアローグだというようには書かず、あれもこれもそれもあるんだなと可能性を開いたままにする。」 このように

          再考・ファシリテーション

          縁聴論=稲盛和夫+オープンダイアローグ

          「稲盛さんは自分ではわかっておられるのだけれども、どうももうひとつ本当のところは稲盛さん自身も言葉になさっていないのです。」(溝口雄三1993) 私の使命は稲盛和夫さんが創業期より心がけてこられたであろう、あまり知られていない語られていない「対話ミーティング」を新たに「縁聴論」と名付けひも解き(文章にし)、経営の現場に届けること、なによりも体験して頂くこと、深く識って頂いて自社で実践を通して血肉化して社風、文化にしてもらうこと。 (可能性は開かれスタッフが辞めない

          縁聴論=稲盛和夫+オープンダイアローグ

          自死と孤立

          日本はあれからどんな社会を選んだのだろうか。 ============================= 「人間は傷つき易い。今後この日本の社会はこの人間の傷つき易さをどう受け容れていくんだろうか。傷ついた人が心の癒やすことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていく厳しい社会を選ぶのか。」 ドラマ「心の傷を癒すということ」の「見えない命綱」の回の28分頃からの校長先生のシーンが今でも心に遺って思い出されます。 昼のシーン:精神科医の安先生が避難所の校長先

          置きベンのある風景

          色々あって六十余年なんとか折り合いをつけながら生きてきた。 歩くときは人と会わないように気をつけ、人と目を合わして話す事を避け、コミュニケーションから距離をとった。コロナ禍では私のような人は多少生きやすかったのではなかろうかとも思う。 それでも昭和平成と生きてこられたのは奇跡だったのかもしれない。今でもそれは変わらず10人を超えるような会合や宴会では借りてきた猫。壁に向いて一人ビールを飲んでいたいのが本音だ。 そんな男が、ふとしたきっかけで置きベンなるものに出会い、うっか

          置きベンのある風景

          リフレクティング・プロセス考

          三角の対話の両面 教室から出させない。 加えて見えないバリアか何かが想定され教室には居ないことにされる。 そして居ないことになっている人の誹謗中傷をその人の前で皆でする。 ここだけの話。という感じで陰口をいう。 言われている方にとっては透明人間扱いされる「場」と「囲い」だ。聞かない自由は奪われ、縁(へり)で自分の陰口を聞かされる。 声を上げたとしても居ないことになっているので、聞かれることはなく届かず無視される。 無視をすることが遊びとなる。 こうして囲われた

          リフレクティング・プロセス考