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秋田の人と「まちに座る」20240702

秋田の人と「まちに座る」20240702

梅雨の滴が残る早朝。かど掃きは金バサミで主だったゴミを拾い集めるだけにして、岡本太郎の言葉を書きかえていると、新聞を小脇に挟んだご高齢の女性が向かいのホテルから出てきてこちらをみている。

相氣的挨拶(自然と挨拶をしてしまえる術)で認識のし合いだけして志事をつづけていると、二車線の車道をわたって近づいてこられた。

「なになさっているのですか?」

「置きベン(地域にベンチを増やすプロジェクト)」の活動をしていると、よくこう聞かれるのだ。すぐには答えずにいつもは「ご旅行ですか?」「お近くですか?」と聞くように心がけている。

京のコシカケ「置きベン」のチラシ

今日の方は秋田からのご旅行だそうだ。京都へはご主人と旅行に来られたことがあり、暑く川床などは混んでいて料理も遅かった思い出を話してくれた。その語り口からご主人はもう亡くなられていると勝手に想像したが聞くのはやめた。

今回は50年ほど前に青年の舟で世界を巡った時の「残骸」との旅行だと笑っていわれた。

その残骸は3名。萩と大阪と秋田。コロナ後やっと顔を合わせられることになって旅行に来たが、ホテルの部屋が皆との一室で起こすのが申し訳なく、そっと出てきてロビーで新聞でも読もうと思ったが、雨が止んでいたので散歩にと外へ出てこられたのだった。

「で、なに屋さんなんですか?」と聞かれたので「ベンチ作ってます」と答えると「ああこれベンチですか」となる。

昔は寄り合い、婦人会、敬老会、老人会、子供会など、人が寄って話す機会があったけれど最近はなくなってしまったということをお伝えする。するとそれがきっかけとなり、秋田のお話をしてくださいました。

秋田からは年間2000人の人が県外へ出て行くそうで人がいない。寄り合いや地域の会はする人もなく話す事もなくなってきた。お友達の大阪や萩の方も今は独居で地域との繋がりがないと言っていると話してくれた。

「地域との繋がりがない」

なんという言葉だ。どこもかしこもそうなってきているのか。

言葉は便利なもの。でも困ったものでなんでも分かったような気分にもしてくれる。

地域っていったい何か。それでそれとの繋がりがないとはいったいどういうことか。

一例として「イタリアの精神医療の人類学・プシコナウティカ」の著者松嶋健は、著書の最終章を「いきているものたちのための場所」とし、「地域とは何か」を書いている。

その「場所」とのつながりがないとはどういうことか。もはや生きてはいけない、生きづらいということか。「生き心地の良い町」とはなんなのか。

また、ヤン・ゲールというデンマークの建築家は「私たちが街をつくり、街が私たちをつくる。」「出会いの場所としての街。」と著書「人間の街・公共空間のデザイン」に書いている。

つながりがないということは大変なことなのだが、今は知らない人とは挨拶もしないのがデフォルト(初期設定)化し、顔見知りでも挨拶することが難しいときもある。また、そういうものが「煩わしい」と感じる人もいるだろう。だからいまや簡単につながりを強いるわけにもいかない。

初めは立ち話だったが、ほどなく雨が降ってきた。

女性は「雨が降ってきた」と残念そうな声の出し方をしたので、「すいません引き留めて」と言った。散歩に行きたかったのに雨が降ってきてしまって申し訳なく思った。

「濡れますよ」と声をかけると、普段は歩道ギリギリにまで出している「置きベン」が軒下に入れてあって自然と座られた。そして私の話を受けてまた秋田の話を続けられた。散歩より話を選ばれたのか。

秋田の人とまちに座る

そうして雨の中二人軒下の「置きベン」に座って話していると、いつも通られる方やご近所の方がゴミを出しにでてこられたりする。お互い日頃から認識のし合いができているので、秋田の方と話しつつも遮ること無く、相氣的挨拶がいつもとおりできる。ここで無視してしまうと日頃の関係性になんらかの変容をきたす。

秋田の人は話しつつも、私につられてこの地域の方と挨拶を交わされる。この風景をまた街が、行き交う人がみている。こうして分断されている人のつながりが少しづつ少しづつ認識を通して修復されていく。

最後に「この雨は散歩に行くなってことだったのね。」と言われた。「色々とお話を聞かせて頂けてよかったです。」と「置きベン」のチラシと「ナラティブとケア」の寄稿部分の抜き刷りをお友達の分も渡した。

いつも最後にこうお伝えしようと心がけている。

「ベンチ活動をしているとこうしてお話を聞くことができました。ベンチがなかったら何も起きなかったでしょうね。」と、

「ほんまやね」「ありがとう」といって「まだ寝てるやろうし、起きたら朝からこんなことあったと話しておくわ」と言って雨の車道を渡ってホテルへ戻って行かれました。

小さなきっかけですが、なんらかのハタラキは起こるかもしれないし、「何も起こらない」ということが起こるかもしれない。それは問わなくても、置きベンを通して人とひとが出会ったことは確かなのである。

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