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伝言ゲームにみる言語4Kシステム

伝言ゲームにみる言語4Kシステム

まず1K仮名。
仮名とかいて「けみょう」と読む。少しおどろおどろしい声にしてみると何か掴めるかもしれない。言葉で話された内容も大切だが、加えてどのように音として発せられたかも大変大切な事であるということは、少し思いを馳せてみれば理解出来ると思う。このように文字になった言葉はそこが欠落してしまうのかもしれない。そう思うと歌として歌ったり、朗読したりと実際に声に出して会話や対話をすることはとても大事なことなんだろうなあと改めて気づかされる。

さて、「けみょう(仮名)」などと、なんとも馴染みのない読み方をすることで、少し考えてみる隙間ができるかもしれない。馴染みのないものには色々と創造力が働く。これも言葉のもつ力かもしれない。それは「仮」についた「名」(名詞)にすぎない。という気づきを与えてくれる。リンゴも机も、会話も、対話も、あなたの名前も、私の名前もすべて「なんらかのもの」に仮についた名にすぎないということを教えてくれる。

例えば「リンゴ」という「何か」を考えてみよう。リンゴには色々な種類がある。色も違ったり味も違ったりする多様な「なにものか」なのだが、言葉の便利なところは「リンゴ」という名を付けて共通言語化することで、スムーズな会話、今風にいうと「生産性の高い会話」がなりたち「リンゴ」といっただけで「ああリンゴね」と差し障りなく言葉「だけ」が流れていくのである。ここで忘れてはならないのが「言葉」は流れてゆくが、往々にして「意味」は流れてゆかないのである。色や味や人の好みなど様々なものが切り捨てられて、言葉のみが流れてゆく。

次に2K仮立。
「けりゅう」と読む。これも少し重く声に出して頂きたい。とても軽い話では済まない事態を引き起こしているからである。わたしたちは「リンゴ」と聞いて色々なものや過去に経験したことを思い出す。それはその人特有のものもあるだろう。仮に付けられた「名」を聞いて、そこから直ちに「仮」にイメージを「立」てしまうのである。名詞が共通言語であっても個々の内々において理解しイメージを思い描いたに過ぎないのである。もはやリンゴはリンゴの本質から離れゆきそこに自分の思い描いたにすぎない「模像」を実存するものと誤認してしまうことになる。

そして3K戯論。
さらにその状態で会話や議論をしているのを「戯論」(けろんと読む)という。龍樹は「戯論寂滅」というた。そんなものは忘れてしまえということだろうか。戯れの論だというのである。個々人が思い描いたにすぎない「仮立」(けりゅう)を元に論じたり論戦したりする。そこにあるものは一体なんなのだろうか。

最後の4K仮説。
さて、そのまま何か結論めいたものやゴールが見えたとする。それは「仮説」(けせつ)となる。思い描いたにすぎない「仮」の「説」であろうか。そこにただ在る「何ものか」に仮に名を付け、そこから立ち上がった「思い描いたにすぎない」個々内々にあるイメージで理解し合えていると誤認し、論じ現出したものは「仮説」(けせつ)でしかないということになる。

ここで伝言ゲームを考えてみよう。

お題は「リンゴ」。リンゴという仮名(けみょう)は使えない。だからチームは「リンゴ」という仮名から、仮立したものを口にするしかない。そこでは「リンゴ」に対して個々人が思い描いたものが言語化され伝えられていく。変換された言葉が変換されてゆく。その言葉達は実に多様であり、その人その人の今までの歴史からなんらか紡ぎ出されるのかもしれない。また中にはトンチンカンな言をいって、ゲームの場を楽しませてくれることもあるだろう。しかし当の本人にとっては「そうとしか言えなかった」のかもしれない。

話は脱線するが、私たちが生きていく中で、「なんでこの人はこんな風にしかいえないのだろうか」とか「なんで攻撃してくるのだろう」と思うことはよくある。あるだろう。あるかもしれない。断定はできないが、そういう場面で、「このひとはそうとしか言えなかったのかもしれない」し、「そうすることしか出来なかった」のかもしれない。そしてそうすることしかできない背景(歴史)があるのかもしれない、ともし思えることができたなら、会話は続けられるかもしれない。

話を伝言ゲームに戻すと、トンチンカンなことも含めて、様々な言葉に変換されて伝えられてゆき、最後の人が「リンゴ」と言えば、伝わったということで全員万歳!違った言葉をいうと伝わらなかったということで負けになる。ゲームとしては盛り上がり、他のチームか次のお題へと移る。ゲームなので、

でもここに隠れているものがある。

勝とうが負けようが「リンゴ」という仮名が明らかになった瞬間に、チームメンバーの仮立、ゲーム中の戯論、そして回答としての仮説との答え合わせを経て、再び「リンゴ」という仮名が君臨し、個々内々の思い描いたものは統一され、統制されまるでなかったもの、なくても済まされるものにされてゆく。まあゲームなのでよいようなものだが、普段の会話でも同じようなことを起こしているとしたら、そういう言葉の使い方をしている以上「リンゴ」は言葉によって固定化し膠着し動ける隙間がなくなり新たなものが生まれにくくなるだろう。

その陰に隠れて、共通言語や共同幻想をもとに個々人は社会システムから排除されていくのである。

だからといって言葉に対してある種の虚無感を持つことはない。私たちの先祖代々はこうして言葉の4Kシステムを使いこなしこの世を創りあげてきたし、それを包越し引き続きまた新たな世界を作りあげることもできるのだ。

ただ今の世があまりよくないものだとしたら、この言葉の4Kシステムに無自覚なまま、思い描いたものを実在するものと誤認していたことも、生きづらい世の中にしてしまった一因であるようにも思う。このことを社会システムは巧妙に隠蔽し無自覚へと向かわせる。

言葉を用いてつねに誤認・誤解しながら生きていることを自覚していれば大丈夫なようにも思う。

け(仮)
真、実などに対する語。実体のないことを指し、あるいは虚、権、方便などの意にも用いる。例えば、実体がなくて仮に名だけが与えられている存在を仮名有(けみょうう)という。

新版 仏教学事典 法蔵館

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