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置きベンのある風景

色々あって六十余年なんとか折り合いをつけながら生きてきた。
歩くときは人と会わないように気をつけ、人と目を合わして話す事を避け、コミュニケーションから距離をとった。コロナ禍では私のような人は多少生きやすかったのではなかろうかとも思う。

それでも昭和平成と生きてこられたのは奇跡だったのかもしれない。今でもそれは変わらず10人を超えるような会合や宴会では借りてきた猫。壁に向いて一人ビールを飲んでいたいのが本音だ。

そんな男が、ふとしたきっかけで置きベンなるものに出会い、うっかりと置きベンから地域の人とコミュニケーションを取ることになるとは、振り返ってみれば思ってもみなかった。それだけ置きベンには何か人間に対する可能性を孕んでいるのかもしれない。

置きベンを通した、あいてらす、きっかけとハタラキの実践。

生まれて色々とあったのは、これの為だったのか。いずれにせよ、李白がやまをみるとき、山もまた李白をみているように、置きベンから町をひとを風景として眺めるとき、町やひともまた置きベンやわたしを風景として認識しているということは、なんとも心地よいものなのである。

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