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「言う行為」のある空間・「置きベン」考

分断した社会を取りまとめるために重要になるのは集合態である。分断した社会を修復するには人や物、場所などに部分的に分断されたもの同志に関心が向かうことである。

ということは周りに人や物がなければ関心が起こりにくい。

周りに人や物が複数あれば、つまり集合態が豊になれば、お互いに関心を向けることも増え、そのなかで自身にとって大切なものを選択できるようになるかもしれない。集合態の重要性のひとつはこの複数性にあるといえる。

そこで「歩き回る自由」「循環する自由」という考え方を大切にし、地域内外を歩き回ることができることで、人や物に出合う機会が確保される。

また地域に既にあるグループはしばしばそのメンバーで同一化(画一化)してしまい、相互で依存し合って敷居が高くなってしまうと、出会いの機会を失ってしまうことになりかねない。

では、出会いの機会を失ってしまうことの何がいけないのか。それは孤立することで「そこにいながらにしてどこにもいない」ことに関わっている。「歩き回る自由」と「出会い」という概念は地域という「空間」についての考え方と連動する。

つまり自分が存在する空間を再獲得することが癒やしであり、関係性の修復となるからである。それが自分にとって居心地のいい場所であればなおよいだろう。

しかし、そういった場所を見つけるためには空間もまた画一化してはいけない。そのために空間の異質性とそこを移行していく動きが大切だと考えられるのである。

住居の外の散歩道やたばこ屋など(置きベンも)含めて様々な場所を、どこか一カ所にとどまるよりもそれらを循環するほうがよいとされる。

まちに座りうっかり話をする

また、その空間論においてもっとも重要な論点がある。それは「言う行為」のある空間、「言うことの空間」という概念である。「そこにいながらにしてどこにもいない」という苦。その状態を脱するためには、空間のなかに現れなければならない。空間に自身を出現させる実践が必要と考える。その空間への再出現を可能にするものが「言う行為」である。

言う行為とは言われた内容でも、何かを描写的に話すことでも、おしゃべりすることでもなく、自分自身を表明することだとされる。そして自分の気持ちを表していれば言葉によるものでなくてもよい。他者の前に自分を現すことでもある。

この分断された社会を治療するために「言う行為」が出来る空間を作るには、「歩き回る自由」「出会いの機会」、そして異質性を保証するための集合態の存在が必要となる。

このことは社会制度をどう構成するかという次元に関わる作業である。

(この文章の原文はメンタルヘルスの理解のために/ミネルバ書房刊の一部分を借用し医療から地域社会に向けて大幅に改変させたオマージュです)


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