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『友達』というカテゴリー

子どもの頃
「友達100人できるかな」
みたいな歌があった

たしかその歌は
「100人友達をつくって富士山の上でおにぎりを食べたい」
みたいなことも言ってた気がする

この歌のせいなのか、学校の教育のせいなのかわからないが、


『友達は多い方がいい』


と刷り込まれていたのは僕だけではないはずだ。




子どもの頃『友達100人キャンペーン』実施中だった僕、タカシ君は、

クラス全員に年賀状を出し、
毎日全員に挨拶して、
誕生日会があれば顔を出し、
バレンタインにチョコを貰えば
ホワイトデーにクッキーでお返しをした。
クラスではなるべく明るく振る舞い、
たしか児童会会長だった気がする。

でも気づけば

「先生に媚びを売っている」
「手作りクッキーなんてオカマじゃねえのか」
「歩き方が変だ」

など陰口を叩かれ始めることになる。


いま考えてみれば、

・ゲーム持ってない(欲しいと思わなかった)
・アニメみてない(ポケモンも知らなかった)
・球技は苦手(なぜ人にボールを投げなければならないのか謎だ)
・好きなものはミュージカル(図工でファントムマスクを制作し、不気味がられる)


という


「お前、それでも高尾山の麓八王子の子どもかぁ!?」


と誰かに言われそうな(言われねえか)ほど
子ども離れしたタカシ君に気の合う友達がたくさん出来るはずもなく、
当然、同級生たちは「少しヘンなタカシ君」から距離を置いた。


『友達100人キャンペーン』に疲れただけでなく、
友達が少ない事に人間としての自信もどんどんなくなっていったタカシ君は、
中学ではついに前の席の奴としか話さない
『友達キャンペーン省エネモード』となった。


でもその頃、気づいてしまったのである。


『1人って、なんて楽なんだろう』


36枚も年賀状を書かなくてもいいし、
無理してニコニコしなくてもいい。
休み時間も誰に話しかけられることもなく
好きな本を読んでいればいい。


『疲れるくらいなら無理して人脈広げなくていい』



10数年経った今もこの精神は変わっていない。


そして「友達」という言葉に敏感になった。




そもそも、「友達」ってなんだ?




血が繋がっていたら「家族」
好き同士は「恋人」
嫌い同士は「敵」
教えてもらったら「先生」
後から入ってきたら「後輩」
同じクラスの「同級生」


カテゴリーは数あれど、「友達」ほどボヤッとしたカテゴライズはないと思う。



年齢も性別も関係なく「友達」と言い切る事は出来る。
「友達」に理由はない。
「友達」は言った瞬間に貼り付ける事ができるカテゴリーなのだ。


初めて会った人でも
近所の野良猫でも
部屋のぬいぐるみさえも「友達」になりうるのだ。

言われた側は
「相手が自分に好感を持ってくれている」
という特典を感じる事になるが
(野良猫やぬいぐるみが感じるかどうかはわからないが)

『友達』と宣言された瞬間に
目上でも目下でもなく、
『相手と同等の場所』に座らされてしまうという、残酷さもある。



僕にはそれが少し怖い。



たまに初対面で「親友」とか言い出す人いるけど
高い壺でも売り付けられるのではないかと
警戒してしまう。
そしてそーゆー人は身の回りに「親友」シールをばらまき、結局誰のことも信用していなかったりする。




僕はそんな寂しい人になりたくない。
だからそう簡単に『友達認定』したくない。
本当に大好きな人だけ、『友達』と呼びたい。
自分の心に正直でいる為に。



『100人の友達』より、『大好きなたった1人の友達』とおにぎりを食べたい。

仮に100人友達がいたとしても
同じ場所に集めたりは絶対しない。
「大好きな1人」と話してる間、「大好きな99人」を待たせるなんてまっぴらだ。





そう思って生きてきた結果、
27歳のタカシ君には4人の友達がいる。

ただし、相手が僕をどうカテゴライズしているのかはわからない。


僕が『友達』のカテゴライズに入れている人間は
世界で、この4人だけだ。




ここまで読んで、


「この人、なんてめんどくさい人なんだろう」

「4人しか『友達』と認めてないなんて、なんて冷たい人だろう」



と思った人、誤解しないで下さい。




僕は、
『友達に匹敵する、最高のカテゴリー』を使って、自分に正直に生きているのです。



それは『仲間』というカテゴリー。



僕は「俳優」という職業上、
現場毎に職場のメンバーがガラッと変わる。
そしてほぼ、「初めまして」のメンバー。

俳優さん、スタッフさん、関係者の方々、
本当に沢山の人と知り合う。

中には共演した事がきっかけで仲良くなって
「友達」になった人もいる。

大好きな「先輩」も、かわいい「後輩」だっている。

でも中には、
「この人とは気が合わなかったな」
「この現場終わったらもう会う事も無いかもな」
という人だって存在する。
人間なんだから当たり前だ。


僕は素直だからそんな人達の事を『友達』とは呼べない。
相手だってきっと迷惑だろう。


でも『知り合い』より距離が近い。



だからそんな人達もまとめて、
同じカンパニーを経験した『仲間』としてカテゴライズする事にしている。


無理して『友達』にしなくてもいいと思う。


気が合わなくても、もう一生会わなくても、
あの時、あの瞬間を一緒に過ごした『仲間』という事実は消えない。


それなら、『仲間』は永遠だ。


仲が悪くなれば消えてしまう『友達』よりも
ある意味で『深い絆』かもしれない。


『中学校の同級生』『同じ部活だったあの子』『昔のバイト先の同僚』『研修所の同期』
『俳優を辞めてしまって連絡の取れないアイツ』
全員、当時の人生を共に過ごした『仲間』なのだ。





だから僕は胸を張って言える。



『友達』は4人しかいないけど、
『仲間』は1000人います。もしかしたらもっと沢山!!!!

いつか『1000人の仲間』となら、富士山の上でおにぎり食べみたいかも。




「じゃあ、その4人は?どうして友達なの?」




はい、ありがとうございます。



『友達』って、現在進行形のカタチなんじゃないかなって最近思うのです。



『好きであり続けられる人』


もし、学校を辞めても、俳優を辞めても、結婚しても離婚しても、いろんな肩書きが全部なくなっても、




思い立った時に



「やっほー。今大丈夫?」



って電話できたら、




それが、『友達』。




こういうの、どうでしょう?

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