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天使の才能 (3)天使のキッチン

(3)天使のキッチン

 カフェテリアで話した次の日曜日、しとしとと降る雨の中、ボクは最寄り駅から2駅都心側に戻って、マイさんのバイト先の洋食屋さんへ向かった。ランチのシフトが2時に終わって賄いを食べるというので、その時間に合わせて2時10分前にお店に入った。
「いらっしゃいませ~」と言って迎えてくれた彼女は、スレンダーな体にオレンジ色のエプロンを纏い、頭には薄クリーム色のバンダナを巻いていた。
 入口側に4人掛けのテーブルが6つと、奥にカウンター席が6席分のこじんまりしたお店。60代半ばくらいだろうか、年配のご夫婦が経営している。バイトスタッフはマイさんがひとり。
 2つのテーブルにお客さんがいる。2人組は食事を終えてコーヒーを飲んでいる。3人組はお食事半ばくらい。
「マイちゃん、もう上がっていいわよ」と同じくエプロンにバンダナの奥さんが言う。
「ありがとうございます。それじゃあ、こちらに」
 マイさんはカウンター席の奥にボクを案内して、お水を二つトレーに載せて持ってきた。一番奥に陣取ったボクの隣の席に腰かけると、一息「ふうぅ」と言いながらバンダナを外す。
「マイちゃんはサラダセット?」とカウンターの向かいのキッチンから、シェフ姿のご主人が言う。
「はい。タイさんもよろしければサラダセット、どうですか。サラダとライスの大盛り無料ですし」
「じゃあ。そうしよう」
「マスター。こちらもサラダセット。サラダとライス大盛りで」
「あいよ」

 フライを揚げる油の香りがただよってくる。食欲をそそる心地よい香り。
 ハンバーグを成形する音と、フライパンに置かれたハンバーグのジュっという音。フライの揚がるパチパチという音。サラダの野菜やフライを切る包丁の音。ジャーの蓋が開く音...キッチンに奏でられる物音を耳にするのは、正月に帰省したとき以来だろうか。
 流れてくる湿り気を含んだ暖気に、マイさんのウエリントンの眼鏡がうっすらと曇る。外したバンダナの端でさっと拭き取る。
 ほどなく、フライとハンバーグとサラダがきれいに盛られたお皿が、カウンター越しにご主人の手でボクたちの前に置かれる。サラダ大盛りのボクの分は一回り大きなお皿。奥さんがライスとスープをトレーに載せて運んでくる。ボクの分のライスの高さは、彼女の分の2倍くらい。
「いただきます」
 マイさんとボクのユニゾンで食事が始まる。
 最初にあっさりとしたコンソメスープを一口啜り、一つめのフライにとりかかる。衣がサクサクして適度な弾力感のあるチキンフライ。美味しい! 新鮮な野菜のサラダは、これだけでもお腹が一杯になりそうなボリューム感。ドレッシングも絶品。お次はデミグラスソースのかかったハンバーグ。こんがりと焼けた小判型にナイフを入れると、澄んだ肉汁が滲み出す。外はカリっと中は柔らかく、肉自体の甘みをソースが引き立てている。ここで大盛りのライスにとりかかる。そして二つめのフライ。これもサクサクの衣の中にあっさりとした食感の白身魚...。
 料理に夢中になっていると、隣のマイさんが声をかけてきた。
「いかがですか? タイさん」
 口にしていたものを飲み込むと、ボクは答えた。
「『天使のキッチン』だけに『天にも昇る心地』かな」

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 食事を終えると、ホットコーヒーを奥さんが運んできた。マイさんの分は賄い、ボクの分はサービスだという。
「それにしてもねえ、マイちゃんが、ボーイフレンド連れてきてくれるなんて」と奥さんが、キッチンの丸椅子に腰かけたご主人に話す。ご主人は読んでいたスポーツ紙から顔を上げると、無言で微笑む。
「あ、そんなんじゃなくて。先輩というか、勉強のことでいろいろとご相談に乗ってくださる方なんです」とマイさん。
「ご挨拶が遅くなりました。マイさんの学科の修士1年の円城寺 太といいます」
「あらそう。まあ、どうぞごゆっくり」とニコニコしながら奥さんは言うと、入口横のレジの前に行って腰かける。

「タイさんはどうしてM大の修士に来られたんですか?」
 H大3年のときに参加した図書館情報学会のシンポジウムで、神野教授に質問をした。懇親会で教授に声をかけられ、メアドを交換して何度かメールでやりとりした後、M大大学院への入学を勧められた。母子家庭で、学部卒業後は公務員を目指していたので辞退したけれど、「是非」と言われた。経済的に大学院は無理で、まして私学の授業料はとても無理、と答えたら「受かったら授業料と部屋代相当の、給付型の奨学金を必ず用意する」とまで言ってくださった。
 4年の春に国立国会図書館の採用試験を受けて、二次試験で不合格になったので、M大大学院の図書館情報学専攻に出願。9月に受験して合格した。教授は約束通り、修士2年間の給付型の奨学金を用意してくださった。
「どうしてだか、ボクのことを気に入られたみたい。他大学の学部生の分際で、図書館学の重鎮に議論を仕掛ける度胸というか、図太さを買われただけかもしれないけど。キミはどうだったのかな」
「わたしは『情報メディア基礎』の最初の授業で質問に行ったら、研究室に連れてっていただいて、本を貸してくださったんです。事情をよく知っている友達に、『神野教授に初っ端から質問なんて勇気あるね』って言われました」

「お父様がどうなされたか、お聞きしてもいいですか?」と声を落としてマイさん。
 父親は、ボクが中学生のときに1年間の闘病の末に亡くなった。発見されたときはすでにかなり進行した癌で、最期は本当にあっけなかった。
 それ以来、生命保険金の取り崩しと母親のパート収入で、母子二人生活している状況。受験のときは「下宿なら国公立、学部4年まで」という約束で、H大の学費と部屋代、教科書代を出してもらい、残りの生活費は機構の奨学金とアルバイトで賄っていた。修士になって、教授の奨学金と母親が引き続き幾ばくかの仕送りしてくれるおかげで、少し余裕ができて機構の奨学金はやめたけれど、相変わらずバイトは必須。
 どうしてだろう。彼女には、あまり人に話さないことも、自然と話せてしまう。中学以来女子と話をするのが苦手だったボクには、信じられないくらい。
「わたしも父子家庭ですけれど、経済的には恵まれています。ここのバイトだって半ば楽しみですから」
 お母様は? 離婚して、小学5年のときに東京に出て行ってずっと会っていない。彼女が本好きの子になったのも、両親の不仲と離婚の影響で、家で一人で過ごすことが多くなったからという。
「ここのバイトは、両親のいる家庭の疑似体験ができているみたいで、楽しいです」

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「それにしても、本当にいいお店だね。料理は美味しいし、雰囲気もいいし」
 ボクは改めて店内を見渡して言う。
「栄養補給に来られたらいかがですか?」
「そうだね。来たいのはやまやまだけれど、お値段が学食のカレーの3倍から4倍なのがつらい。そうそう頻繁には...」
「だったら...例えば、こういうのはどうですか?」
 高校のバンドでキーボードだった子が、ドラムスだった子の大学生のお兄様に、受験勉強を教えてもらっていたとのこと。場所はバイト先のハンバーガーショップで、授業料の代わりに毎回バーガーセットをご馳走していたという。
「わたしは予備校に通わせてもらったので必要はなかったんですけど、ヨッシーがタエコのお兄さまのカテキョー受けてるのが、羨ましかったんです」
「ということは...ボクに授業を?」
「週一回、日曜日のランチとディナーの間の休憩時間を利用して、カテキョーをやっていただきたいんです」
「けれど、経験ないし、そもそも人に教えるような柄じゃない。それに、何を教えてあげればいいのか...」
「いつもお話ししてくださる感じでいいんです。いえ、それがいいんです。わたしの理系アレルギーを和らげていただけるものであれば、内容はおまかせします」と、ボクを見上げるような視線で彼女が言う。
「それで、授業料代わりにご馳走してくれるということ?」
「はい。お好きなメニューを」と、ニコニコしながらマイさん。

 ではそうするとして、何を教えてあげるのがいいんだろう。いずれ授業で扱うテーマはそちらにまかせればいい。離散数学?  もっとベーシックな情報数学かな? シャノンの情報理論あたりで深みにはまると、図書館情報学からは離れてしまう?
「ところでキミは、高校の情報の科目はどちらを選択したの?」
「『社会と情報』です」
「そうか。情報テクノロジ系はほとんどやったことがないんだね?」
「はい。パソコン使っても、まさにブラックボックスなんです」
 じゃあ、まずは「基本情報処理技術者」のテキストを使って勉強しますか。学部2年のときに受験しているから、内容はまだ覚えている。センター試験で数Ⅱ・Bまでやってるなら、数学の基礎知識は大丈夫。期末試験までにはテクノロジ系は一通り終わると思う。
「わかりました。よろしくお願いします」
「いや、こちらこそご厚意に甘えます。テキスト買ってきて、来週ここで渡すね」
「なんか、とても楽しみです」
 エプロン姿の天使が、ニッコリと笑った。

<続く>

★リンク先はこちら

作品紹介→https://note.com/wk2013/n/n53a5f5585e6b

(2)→https://note.com/wk2013/n/nf19c83824ac4

(4)→https://note.com/wk2013/n/n3bb28276b4ec

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