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山形県 羽黒山(5) 番外編

え? 終わったんじゃなかったの? と思われる方もいらっしゃるかと思います。前回の(4)で「完結編」と銘打っていたので……。

私の旅行記は、「写真が軸のストーリー仕立て」にしていくことをモットーとしております。最終的にはそれがよい意味でその場所のPRとなればよいよ考えているのですが、5〜6分で一つの記事を読み終えるくらいの分量がブログとしては最適だと考えておりますので、どうしても掲載できない画像がでてきてしまうのです。

そういうわけで今回は、本編(1)〜(4)に掲載できなかった画像をお届けすることにいたしました。本編中で何度か言及させていただいたように、やむを得ない事情で旧式のスマホ(iPhoneSE第1世代です。古い・・・胸ポケットに収まるサイズなので、長らくこちらを愛用させていただいています)での撮影となりましたので、全体的に画質は低いのですが、せっかく撮った写真ですので、本日はこの場をお借りしてお届けしたいと思います。今日は雨で外へネタを探しに出かけられないし……。

隋神門周辺

隋神門前の庭園です。正式には「出羽の里 門前之宮庭園」

最初は、鳥居をくぐった直後にある庭園の様子です。正面に見えるのは社務所です。社務所の脇には自動販売機などもあり、参道を歩き続けて疲れたと感じた際に、一服できるようになっています(たばこは吸えません)。

物の由来、ことわざの語源などの話題が好きな私としては、本来こういうもののご紹介をしていきたいと考えているのですが、残念ながら写真映えがしないので本編ではカットとなりました

こちらは出羽三山神社全体の由緒を示した看板です。クリックして最大に拡大していただければ読めるようになっています(ぶれていません)。これによると月山神社は月読命(つきよみのみこと)、出羽神社は伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りして……という内容のことが書かれております。詳しい沿革を知りたい方は以下のリンクをクリックしてみてくださいね。

須賀の滝周辺

須賀の滝を正面から撮影。いいアングルだったのですが、残念ながら画像全体が傾いてしまったので本編ではボツとしました。滝の手前、向かって右が祓川神社、左が岩戸分神社。
昔は須賀の滝周辺で参拝者は禊ぎ(みそぎ)を行った、とのことですが、その際にこの灯籠の後ろにある桜の木にしめ縄をかけたみたいです。それを示してこの木は「注連掛け桜(しめかけざくら)」と。なお禊ぎとは、推測ですがいわゆる「滝行」ではないかと思います。
実寸大に拡大していただけると「須賀滝 並 祓川」と読めるはずです。このあたりは体力に余裕があり、撮った写真にもブレがありませんでした
祓川を渡って須賀の滝に近づける石橋。

私は滝が大好きなので、このあたりでだいぶ写真を撮りました。だいたいここまではずっと下り坂だったので、まだ全然疲れていない、ということもあったのですが……本当は手前にある小社群もひとつひとつ写真には収めていましたが、それはあまり見栄えがしないので、残念ですがこの場でもカットさせていただきました。神々のお方々、ごめんなさい。

爺杉・五重の塔

こちらは今回撮った写真をすべて本編でお届けしたのですが、残念ながら雨の中の撮影でしたので、満足できる画像ではありませんでした。

実を言うと、羽黒山には7〜8年程前に一度訪れたことがあるのです。その際はまだ高校生だった息子が野球をしていたため、その遠征の様子を見に行ったついでに……という事情でしたので、五重の塔までを見て、石段は登ることなく帰りました(その際は知識がなく、石段を登った上に施設があることも知りませんでした)。昔の物ですが、その当時の写真があるので今回ご紹介したいと思います。

当時訪れたのは、よい天気の日中3時頃。石段や杉並木にも、また違った味わいがあります
爺杉を撮影している最中にひょっこり妻が画像内に入ってきてしまいました。何をしてくれてんだ君は
五重の塔は日の光を受けて光り輝いていました
見れば見るほど神々しい姿です
斜め下からのアングルもいいですねえ。少し上が切れたのが残念
だから君は・・・どうしてそうひょっこり後ろ姿で現れるんだ

やはり晴れた日の方が、よい画像をお送りできたようです。私の中では雨の中の杉林も素敵な画像が届けられるのではないかと踏んでいたのですが、実際は晴れている方がいいですね。

上の写真で妻が読んでいた説明書きの看板です。

この説明によると、創建したのは平将門、またはその娘である如蔵尼(にょぞうに)、一度焼失(だと思われます)したのち再建したのが奥州藤原氏の当主である秀衡、と日本史におけるレジェンドの名が並びます。ただ、この時代は頼朝以降の戦国時代や江戸時代などと違い、まだ知られていないことも多そうで、ミステリアスです。そそります。

頂上近辺

一の坂・二の坂・三の坂で撮った画像は、だいたい本編に収録させていただきました(実際には画像のストックはあるのですが、改めてここに紹介するべき画像はありませんでした)ので、少し飛んで頂上周りの画像をお届けしたいと思います。

齋館側から見た三神合祭殿の後ろ姿。修繕中であることがわかります。このあたりで体力の限界を迎えていたので、ピントが合っていません
本編(1)のヘッダに使わせていただいた画像のオリジナルです。AI生成の女性の姿が邪魔だと感じられた方はこちらでお楽しみください
頂上広場内は2段構造になっており、階段を登ると朝のラジオ体操ができそうなスペースが保たれています

頂上付近はバッテリー残量1%の中、大急ぎでの撮影だったため、あまりストックがありませんでした。広場からほんの少し降ると、開山者である蜂子皇子(はちのこのみこ)のお墓があったようですし、北白川房子様句碑や虚子親子三代句碑(高浜虚子かな?)などがまだあったようで、それを画像に収めることができなかったことは残念です。
また、鏡池の実際の画像がないことも返す返す残念でした。

帰り道

さて、参拝を終えて帰途についたわけですが、その際秋田県にかほ市にある「道の駅象潟(きさかた) ねむの丘」のレストランで昼食をとりました。象潟は松尾芭蕉 奥の細道の北限であり(芭蕉はここまで北上したのち、帰途についたという意味です)、九十九島(くじゅうくしま、と読みます)という特徴的な地形が見られるところです。

以下は、公式サイトから拝借した画像です。

田園風景の中にぽつぽつと島のように見える隆起が見られます。九十九島とされていますが、実際には103個あるそうです。

奥に見えるのは鳥海山です。公式サイトの説明によると九十九島は紀元前466年ころに形成されたとあります。当時ここは一面の海であり、九十九島は文字通り島だったわけですが、1804年に大地震があり、この地全体が2mほど隆起した、とのことです。そういうわけで現在の九十九島は陸に浮かぶ島となっています。
ただしここを訪れた松尾芭蕉は1644年生まれ1694年没の人なので(50歳でお亡くなりになったのですね。その体力・脚力を本編中で賞賛したのですが、意外に短命であった事実……相当無理をしたに違いありません)、彼がここを訪れた当時、九十九島は海に浮かぶ島々であったことがわかります。

その時代には伊達藩(宮城県)の松島に並ぶほどの景勝地であったとされ、芭蕉も自らのウキウキした気分をその著作である「おくのほそ道」内に記しているそうです。いわく、『美しい景色を数限りなく見て来て、いよいよ象潟に赴く今、期待に心が気負い立つ』と。

「象潟や雨に西施がねぶの花」

実際に九十九島を目にした芭蕉は、その情景を俳句にして、このように詠みました。読み解きますと、象潟で雨に濡れる合歓(ねむ)の花は、まるで眠りについた西施のようである・・・と。西施とは、わかる人はわかると思いますが、中国歴代四大美女のひとりで春秋時代、呉越両国が争った際に生きた女性です。私の得意分野の一つなのですが、説明しようとすると長くなりますので、詳しくは以下のリンクをご参照ください。

お読みいただけましたでしょうか。ひとことで申し上げますと、自らが生まれた越国のために、呉国へ献上された悲哀の美女です。
芭蕉は、九十九島の情景を、その西施のようだと詠んだのです。これはやはり象潟の情景を見た彼が、その美しさの中に悲哀を感じた、ということでしょう。彼はその情景を「うらむが如し」とあらわしています。

芭蕉はこうも記す。「象潟は松島に似ていて、また違う。松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地の趣は(悲しい境遇の)美女が憂いに閉ざされているようだ」(意訳)と。

福島民友新聞 みんゆうNet 2020年2月24日記事より

「表の松島、裏の象潟」といったところでしょうか。残念ながら地震によって隆起してしまったため、現在ではその情景も目にすることができません。「裏」などと称してしまって申し訳ないのですが、当時の情景が今も残されていたとしたら、私個人としては悲哀に満ちた象潟の方を好んだかもしれません。

ちなみに、合歓(ねむ)の花とは、こんな花です。

WEBサイト「季節の花300」から引用

すっかり解説が長くなってしまい、申し訳ございません。改めて申し上げますと、ここ象潟の道の駅にあるレストラン内で、初めて私はこの句にまつわる話を知ったのです。
レストランの壁には以下の掲示がなされておりました。

ちょうど座った席の真向かいにこの説明書きがありました。非常にラッキーです

この句が縁で、象潟町(現在はにかほ市)は平成2年から西施の故郷である中国浙江省諸曁(しょき)市と友好交流を深めています、とあります。

芭蕉やりますね

未来の国際交流にまで影響を及ぼすとは……。そんな考えにふけり、レストラン外にある西施の彫刻を写真に収めました。

彫刻自体には歴史的価値はないのでしょうが、記念碑として優れた作品です。

なお余談ですが、西施には胸患いの持病があったらしく、彼女が胸を押さえて眉間にしわを寄せる姿が、どうにも艶めかしくて美しい、と当時の人々の間でも評判だったそうです。そこで巷のあまり美しくない(はっきり言って醜い)女性が男たちの気を引こうと彼女の真似をして顔にしわを寄せたところ、もともと醜い姿がもっと醜くなり、人々はみな恐ろしくなって逃げた、という逸話があります。こちらは「顰に倣う(ひそみにならう)」という故事成語となりました。何ごとも本質を理解せずに人の真似をすることはよくない、というたとえです。

最後に

羽黒山以外の部分が最後には多くなってしまいました。ですが、これが私にとって旅の最後を締めくくるエピソードであることは間違いありません。雑な文面となった気がしますが、お楽しみ頂けたとしたら幸いです。

余談ではありますが(いくら余談があるのだ、という話)、このコーナーの本編のひとつ、「山形県 羽黒山(3)」が以下にある特集記事のかなり前の方にピックアップされております。

(5月16日追記:更新されて他の人たちの新しい記事が掲載され、消えちゃいました・・・悲)

公式の方には、いくつか私の記事を採り上げて頂き、感謝しております。フォロワーの方がまだ少なく、なかなか「スキ」ボタンを押して頂けないのが現状ですが、毎日中身の濃い記事をあげているつもりなので、皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
中には毎日どこかで拾ってきたような画像を1枚添えて、「おはようございます」・・・これだけの記事もありますが、毎日のことだからそれはそれとしてアリなのでしょう・・・

あまりこのことについて言及することは控えます。
以下に羽黒山シリーズのリンクを貼りましたので、今回この記事が最初という方はぜひご覧になってみてください。個人的には(1)と(4)がお勧めですが、できれば通して読んで頂ければ幸いです。

また、こちらも人気記事です。

このほか小説も書いておりますので、ぜひプロフィール欄からご確認ください。

それではここまでお読みくださいまして、ありがとうございます。
また違うテーマの記事も模索したいと思いますので、よろしくお願いいたします。

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