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44年後の光

0歳、この世に生まれる、いつから始まったのか母親と同居する叔母からの虐待。4歳、叔父からの性的虐待。5歳、兄からの暴力、近所の子からの虐め、いつも一人でいた。6歳、小学生になる。大人の男の人がこわくて学校に行くことが吐き気がするほど嫌だった。学校から帰ってくると世界に絶望して一人で泣いていた。周りは敵だらけ、この世は既に残酷だった。
母親がわたしをきれいに着飾らせるのも手伝って目立って変な子だった。目立つのに喋らない、同調できない、大人の味方も子供の味方もいなかった。
いつも一人だった。
8歳、3年生になる、わたしの人生が本格的に狂い始める、頭のおかしい担任、頭のおかしい担任がかわいがる子達に虐められる。邪魔だとおまえなんかと態度で言葉で毎日毎日丁寧に示される。律儀なほど。その律儀さがバカ馬鹿しく憂鬱だった。世界が淀み始める。
わたしを虐めない他の子達の推薦で学級委員長になる。それがおもしろくない頭のおかしい担任と頭のおかしい担任がかわいがる子達に「おまえに学級委員長の資格はない」とリコールなるものをされる。わたしを推薦した子達は担任が振るう声に反抗しない、あっという間にわたしは学級委員長になんかなる資格がないダメな奴になる。居場所なんかなかった。廊下を歩くにも自分なんかが歩いていい気がせず端を歩いた。やがてそれでは気が済まず壁に沿って壁に体を擦り付けながら歩いた。歩くときの不自由さが自傷の代わりだった。
死にたいと言語化はできなかったけれど、ここではない何処かへ行きたい、居場所はどこにあるんだろうと考えていた。
周りからとことん必要とされていないのはよくわかっていた。
母親が一度でも「あなたが大好き」と言って抱きしめてくれていたならわたしの人生は違ったかもしれない。生きていていいって思えること、何か一つ欲しかった。


居場所がない子どもは必死に居場所を探す。空を見上げてはここではないどこかを思っていた。童話の世界に居場所を求めて毎日毎日与えられた本を繰り返し読んでは没頭していた。母は毎日わたしを殴る、それは異常な執着と支配欲からだった。賢い子に育てたかった母は漫画は禁止したけれど本だけは買い与えてくれた。母も読書が好きだったので家のあちこちに本があった。精神が安定しているときは色々な本を読み漁ったけれど、つらいときに寄り添ってくれる本は決まっていた。表紙が破けてなくなって本体が真っ二つになるまで何百回も読んだ。それは王様が大きな大きな目玉焼きを大きな大きなフライパンで焼く物語。卵をフライパンに割り入れて目玉焼きが焼けるまでのところが好きで何度も何度も読んだ。変わり者らしき王様が一人で暮らす小さなお城の王様の部屋の隅に住み着いて毎日物語の通りにしか繰り広げられない王様の暮らしを盗み見していた。物語を壊してしまうから登場人物にならないように気をつけていた。もっとも「邪魔」なわたしが登場人物になるなどあり得ないので心配はなかったけれど。


5年生、6年生、虐めは加速する。寄ってたかって悪口を書いた手紙を手渡しで渡された。目を見ないで手紙を渡す同級生の女の子たち、わたしを嫌いなのにわたしのために手紙を書く変な子たち。かわいい便箋にしたためられたわたしを隅から隅までつつく悪口。開いて読むと途端に吐き気がして世界が歪んだ。そこで必ず記憶が飛ぶ。手紙を渡された音楽室、手紙を渡す子たちの無表情なのか喜んでいるのかわからない被害者面した気持ち悪い表情、着ている服、幼い膝小僧、その下の靴下の色使い、そこまでしか覚えていない。

ほとんどのことを覚えていない。修学旅行もあったはずなのに、運動会も学芸会もあったはずなのに学校行事のことを何一つ覚えていない。

覚えているのは図工の時間に絵だけは描き続けたこと、夢中で描いたその絵の色使い、絵の具を混ぜる自分の手、水彩だから毎回画用紙がふにゃふにゃになったこと、乾いた画用紙のガサガサ、一生懸命描いた絵が自分の机から何故か消えたこと


そして中学生になればもっと虐めはひどくなり、居場所はもっとなくなるだろうと下校時1人で歩きながら憂いでいたこと。
大きくなる体が女染みてくることがたまらなく嫌だった。自分の何も愛せず肯定できなかった。今ならそんな子どもがどんな10代を過ごし、どんな道を辿るのかわかる。
その頃のわたしを理解する大人はいなく、わたしの生きにくさに気づく大人もまたいなかった。暗い顔をしていつも下を向いて歩いていたのに誰も異変に気づかなかった。誰もわたしに関心なんかなかった。


13歳、5年後には水商売をし、風俗で働き、6年後には安定剤と眠剤がないと正気を保てなくなる、8年後には初めての自殺未遂をして、9年後には重度の摂食障害、一日100錠の下剤乱用、その末栄養失調になり不正脈が出て閉鎖病棟に入院する。
その子に足りなかったのは愛情と肯定だった。それだけだった。誰もその子の人生が狂うのを止められなかった。
愛情と肯定を求めて、44歳になるまで彷徨った。

虐待と虐めがどれだけ人格に思考に行動に人生そのものに影響を及ぼすのか。わたしの人生は虐待と虐めに耐えて生きるうえに成り立っていたからよくわかる。虐げられているメンタルをベースに人格が形成されてゆく。まともな人格が育つわけがない、自己肯定などできるわけがない。全てにおいて、寝るにも食べるにも、生きるうえでの全ての小さな、大きな決断、全てが自虐的意識のうえで行われる。全ての人が敵であり、他者の言動、行動、全てが落とし穴だった。優しさは容易く依存を生み、それが嫌になれば姿を消すように逃げるしかない、他人とはいられない。搾取されるだけ。信じたら裏切られるだけ。他人がわたしに優しいわけがない。他人からわたしなんかが何かをもらえるはずがない。

わたしに近づいてくる同性はいずれわたしを妬む、嫌う、陥れる。わたしに近づいてくる異性はわたしの心身を搾取する。何か捧げないと彼等はわたしをそばにはおかない。わたしが生きていることを認めない。わたしは終始人の顔色を機嫌を伺い一喜一憂していた。そんな自分がたまらなく嫌で、人に振り回されず生きられる人がとても羨ましかった。比べては自分が劣っていると思った。でもそれは人の機嫌がわたしの生き死にを左右してきたのだから当然だった。よく自分がないと言われたことも吐き気がするほど傷ついたけれど、自分をなくすこと、それもわたしのささやかな生きる知恵だった。

母の機嫌がよくなければ寝るまで殴られ生きた心地がしない。叔母の機嫌が悪ければした覚えのないことを母に吹き込まれたり、机の中やスカートの中まで干渉される。叔父の機嫌次第で体をさわられる時間が長引く。担任の機嫌が悪ければ、女の子たちの機嫌が悪ければ、誰かの機嫌が悪ければ、わたしは痛い目に遭う。こんなことが生きるベースだったわたしは当然病んでゆく。

18歳から次々と、鬱、パニック障害、不眠、摂食障害を発症する。いっときは躁鬱と診断され入退院を繰り返した。狂ったわたしにたくさんの薬が処方された。矛盾しているけれど、生きるためならどんな薬も飲んだ。生きていて苦しいなら、薬で頭をぼーっとさせたらいい。落ち着かないなら安定剤を飲んだらいい。眠れないなら眠れるまで薬を飲んだらいい。たくさんの薬を飲んで死にたいしかない地獄の毎日を生き抜いた。

いつの間にかわたしの人生は精神疾患との闘いになった。なにが原因なのか、なにがわたしを苦しめるのか、日常そのものをわざとつらいものにして自虐的に生きていたのでなにが原因かよくわからなくなっていた。自分が悪い、弱い、自分が怠け者だから、自分はゴミだから、生きる資格がないからと本気で思っていた。自傷のために44歳まで体を売り続けた。社会には居場所がなく、風俗で真面目に働き続けた。

救いようがない人生に思えるけれど、ふとしたきっかけで44歳で大量の薬をやめ、精神疾患の日々から、虐げられた日々のトラウマから立ち直ることになる。理由はたった一人のひとに肯定されたこと。生まれてから何人に虐げられてきたか知れない、体を売り始めてから何人の男の人に虐げられたか知れない。わたしの体を跨いでいったのは何千人か知れない。誰もわたしを救わなかった。何もわたしを救わなかった。それなのに、たったひとりの人との出会いからわたしは生まれ変わることになる。

44歳になるまで3回は心停止した。自殺未遂を何十回とした。5回は目覚めたら集中治療室にいた。眠剤を飲んで入水自殺を試みたが捜索隊に発見され低体温症で搬送された。それでもその先に光があったこと、死にたかった過去のわたしは知らない。人生は生き続けてみないとわからない。









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