格闘技の多様性:障害者の参加がもたらす新たな可能性と価値観
障害者と格闘技。
僕は、幼少期から身体障害があることで悔しい思いをしてきた。
僕は、身体障害があることで学校の授業(じゅぎょう)の体育で運動が全然できなくて辛い思いをして学校の生徒からも弱いことをバカにされてきた。
僕は、強くなりたいと思って、祈(いの)り続けた。
失敗や挫折(ざせつ)を繰り返し(くりかえし)ながら20才のときにフルコンタクト空手を始めることが
できて24才からキックボクシングを始めて25からムエタイも始めて27才のときに自分が本当に強くなったと確信できた。
僕は、自分に身体障害と精神障害があるからこそ、護身用(ごしんよう)のために格闘技のトレーニングをして強くなる必要があると思っていた。
だけど、本当に大事なのは、障害者が弱くても辛い思いをしなくてもいい寛容(かんよう)な社会なのかもしれない。
そもそも、障害があって弱いから格闘技のトレーニングをして強くならないといけないというのは、障害者にたいして厳しすぎる。
僕は、自分に格闘技の才能があって、周囲の助けがあったから格闘技のレベルがプロ格闘技選手レベルまで強くなれた。
だからこそ言えるのは、障害者は、無理して格闘技のトレーニングをして強くなる必要は、ないということだ。
もちろん、弱いよりも強いほうがいい。
ただ、障害者が弱くても、運動ができなくてもいいよ、いいよという周囲の優しさがあってもいいと思う。
僕は、格闘技を始めて強くなっていく過程で周囲から高い評価をされてきた。
今のところ、誰も僕の格闘技の実力を否定(ひてい)しない。
けれど、一般的に障害者が格闘技のトレーニングをしないから、格闘技でプロ格闘技選手レベルまで強くなれないから価値(かち)があるではなくて
障害者が弱くても、運動ができなくても、いじめられない、否定されない社会にこそ価値があるのかもしれない。
相手を理解する、受け入れる、人間は、それぞれ違うんだ。
運動が得意な人も運動が苦手な人も格闘技が強い人も格闘技が弱い人もいる。
人間の価値は、能力が高い、能力が低いだけでは、決められないのかもしれない。
もしかしたら、人間の多様性(たようせい)を理解することが格闘技の発展(はってん)につながるのかもしれない。
最後に。
僕の記事が障害者と格闘技と価値観について興味がある人、格闘技に興味がある人、何かに挑戦したい人の参考になれば嬉しいです。最後まで読んでくれてありがとうございました。
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