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これも過去blogからの転載。どれも10年以上前に書いたもので、前後半2本と関連するもの2本の合計4記事を一本にまとめてます。長いです。

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人生に無駄なし(前半)

以前、とある人に、

「普通の人は、もっと安い賃金(時給)で働いているんだよ。
 あなたが一回二時間でもらうお金は、私の二日分の日給なんだからね」

と言われたことがある。

さらに、それだけ稼ぐのにどれだけ大変か・・・
なーんて、ことも言われたりなんかして。

確かに私の仕事で得る収入を(セッション料金から)時給で換算したとき、一般的な時給相場よりは確かに高かったりするから、楽して稼いでいるように見えるのでしょうね<特殊かつ専門的な技能職ではあるんですが

でも、技術を得たり、スキルを磨くために投資した分もあるし、ポテンシャルやレベルを維持するためにしている努力とか、色々とかかる自己管理費・必要経費は決して安くないんですけれどね。表面的な部分のみ問題視している人に、そのあたりを詳しく説明しても致し方なし。

※邪気吸うこともあるし、霊障など被らないようにあれこれ水面下でしていることもあるわけで、そのようなリスクは馬鹿に出来ないわけです<生霊飛ばされたり、寿命削るような危険な目に遭う事は多々だし、依頼によっては翌日から動けず一週間寝込むことになったりもする。セッションの時間枠やフォロー業務だけでなくて、宿題みたいな事後処理の必要性があるケースも多いしね。

その人は、私の仕事のことを、例えばレイキのアチューンメントを受けたりさえすれば、簡単に開業出来る仕事だと思っていたらしい。

うん。受講することも開業も、誰にでも出来る。

受講してサイトを立ち上げたある人曰く、「全然依頼が来ない」と、ボヤかれていた。

そりゃそうだ。お商売なんて、そんなに簡単なものでは無い。サイトを創って公開するだけで集客が見込めるなら、何処の誰もがいともたやすく自営業を成功させているだろう。

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で、何が不愉快だったかと言うと、

対して苦労もせずに、楽して儲けているように思われていたことと言うよりも、たった時給900円、1000円のお金を稼ぐことの労働の重みを…それだけの小額のお金のために必死こいて働いている人の気持ちが、あなたには解らないでしょう?

・・・みたいに言われたこと。

しかし、まったくなんで人って、大してその相手を知りもしないのに、勝手に先入観だけで決め付けるのか。

お金持ち出身の、お気楽に生きている苦労知らずのお嬢さん?(いやさオバさんです)とでも思われてるのだとしたら、嬉しいと思うべきなのかも知れないけど。

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私は幼稚園児の時分から中学卒業まで、実家でずっと家事(掃除・洗濯・買い物・炊事その他)をしていた。高校に入学してからは、ようやくお役御免に。なぜって、学費と定期代を稼ぐため、アルバイトをしなくてはいけなくなったから。(といっても、完全に家事から解放されたわけでは無かったが) 母親が居なかったわけではない。両親揃ってる4人家族。(姉がいたが、姉はそのようなことをしなくてもいい人だった)

入学前の春休みから、もう。せっせと・・・

初めて働いたのは、ラーメン屋。時給500円。皿洗いという話だったけれども、カウンター越しに接客・レジ・給仕など、その他野菜の下ごしらえや餃子を焼くなどの調理補助もあって、とにかく大忙しだった。油汚れが酷いから、熱いお湯に洗剤の原液を入れて、接客などと併用してだから、手袋使う暇もなく、手の皮がよく剥けた。

次に働いたのは、駅ビルのとんかつ屋。時給430円。ここは姉のピンチヒッターでほんの少しの期間だけのヘルプ。イジワルな人たちが多い職場だったなぁ。

結構大きな中華料理屋では、宴会のシーズンが稼ぎどきだった。時給は480円だったと思うけど、高級中華の店だったから、お客が食べ残した高級食材を抓めることがラッキーだったかな。北京ダックとか、ツバメの巣とかとか。ウェイトレスの仕事は配膳だけではなくて、掃除とか皿洗いとか、お燗をつけたりとか、まあ、何でもやるわけですよ。サービス業ってそういうもんね。

近くにある裁判所や県警や消防署とか教育委員会とか県庁職員とか、かなりのおエライさんたちが宴会するとこだったけど、堅い職業の人ほど、助平で分別が無いってこの仕事で知った。チャイナドレスのスリットから手を入れられてスカート切られたりとか。こちとらも平然とそれを受け入れるわけもなく、笑いながらさりげなく頭殴ったり突き飛ばして逃げるけど(相手ヨッパだから)、気分はサイテー。腰に手を回して来たり、胸や尻を触られるのは日常茶飯事よ。セクハラ三昧で酷いのなんの。いやさ、セクハラ通り越してチカンという犯罪だよね。でも、それやってるのは法曹界の人間や警察官だったりする。今の世なら問題になるけど、それが昭和クオリティと言うもの。

ノーメイクだし、ほとんどが高校生や大学生のバイトで未成年だって、解ってるはずだけどね。ブルーカラーのおっさんたちの方が、そのあたりまだ紳士だったよ。先輩なんか空いている個室に連れ込まれそうになった人いたもん。単なる飲食店でそっち系の水商売じゃないっちゅーに。

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○ンタッキーでもバイトをした。募集では時給500円だったのに、蓋をあけたら450円で、でも、高校生って、そこであきらめちゃう。
けれど、店長のバイトに対するえこひいきとイジワルがあまりにも酷くて、ぶちキレて一か月で辞めてしまった。どんなイジメかっていうと、勤務中に水を呑むなとか、火傷をしても手当てをすることを赦してもらえないとか。水に関してはあまりにも耐えられず、トイレの水を呑んでいる子もいた。
たぶん、その店長の個人的な歪みだったのだろう。本社にクレーム入れれば良かったんだろうが、高校生ってそういうのあんまし智恵も頭もないからね。そこを見据えて、高校生ばかり雇っていたと思われ。

生協でのレジの時給は400円だった。最低労働賃金より20円ほど低かったが。(当時の話で今はそんなことは無いと思う)

大手パン工場のバイトは日給が4800円だったかな。それでも美味しいバイトだった。朝の8時から夕方5時まで、一日中立ちっぱなし。お昼代を節約するために無料のパンばかり食べて。あとは水ね。

ケーキ屋でも販売のバイトしたけど、繊細なケーキを扱うには私は無骨すぎたようだ。そこは一週間しかもたなかったww 

移動でのパン販売もやった。これは日給4200円。社員の人と組むんだけど、良い人だったし、楽しいバイトではあった。でも残念なことに短期だった。

配達所のお中元のアルバイトもした。伝票整理とか荷物の仕分けとか。真夏だったので、体力なくて、何度か倒れたかなあ。時給は480円だったかと。

デ○ーズのバイトは高校生の仲間がたくさんいて楽しかった。時給は450円くらいだけど、昇給もあって。卒業まで働いたトコだし、卒業してからも遊びに行ったなあ。マネージャーがセクハラ野郎(必ず身体を触ってくる)で困った奴だったが、途中で左遷されたり。

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上記以外にも焼肉屋とかその他モロモロ。なんか高校生のときから、バイト先をよく変えていたような気がする。転職グセはこのときに付いてしまったのかも知れないっっっ。

時給に関しては、当時のものだから、まあ安い。でも今の時給に換算しても安いほうだったろう。それでも高校生の働けるところって少ないから、仕方なかったんだよね。

学校の帰りと土日祝はバイト三昧で、それだけ聞くと苦学生って感じもするけど、困ったことに勉強は全然してなくて、学校には寝に行ってて、バイトで知り合った仲間なんかと仕事帰りに飲み歩き、ディスコ行ったり、遊んだりもしてたから、ハイ。

でもまー 当時は若いってだけでチヤホヤされるから、だいたい奢ってもらえるので、お金は使わないで済んだけど。あ゛ー 今考えると、未成年のクセに・・・ですな。

アルバイトは、専門学校時代の一年間でもたくさんやったかなあ。ティッシュやチラシ配りとか、アンケート調査とか、選挙の電話の仕事とかとか。
ウエイトレス販売とか、デパートやスーパーの試食販売もやったなあ。皿洗い、掃除はもちろん、キャンペーンガールやらナンやら。住宅展示場での案内係とか子守りとかもした。高校のときの友達に誘われて、いいバイトがあると聞けば、ホイホイと。騙されたーってバイトもあった。かなりヤバイぢゃん!ってので、逃げ出したバイトも。

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会社勤めを辞めた後、フリーター期間を三年間やったのだけれど、バブルの頃だったから、仕事はもーたくさんあって。その時にもありとあらゆるバイトをさせてもらった。中には、こんな仕事もあるんだーっていうオドロキの仕事とかも。

ただ、風俗とかはやらなかった。適性も無いし、そういう行為がやっぱ好きで無いから。

水商売は、一日だけカウンターレディやって、「あー向いてないな」と辞めて。それと、ショーパブのクローク係をちょっとだけ。その時に、お水のおねーさんたちのプロ意識に圧倒されたかな。はい。勉強させて頂きました。彼女たちは美も磨くし、新聞も読んで話題も勉強するし、踊りも一生懸命稽古するし、女のお客さんにもきめ細やかに親切だし。お水の花道すごいぞ、みたいな・・・裏表のカオの切り替えがね、マジすご。尊敬する。

水商売&風俗専門の金貸しの集金人もしたことがある。良い意味でも悪い意味でも人生のウラを見る仕事だ。幸いヤーさんではない、まっとうなとこだったけど・・・(水商売って、普通のとこではお金借りれないから、そういう専門の金貸しがいるのデス) 闇金とも違うし、ナニワ金融道ではないけれど、それに近い、人生の悲哀を見る機会であった。
人生の中で、あれほど水商売や風俗の店に毎日通った日々は無い。行くのは昼間だから、店の人にはほとんど会わなかったが。(カギを預かってるので、決まった場所においてあるお金を集金し、それを確認してノートに徴収した金額と印鑑をば)

ホテルや旅館でも働いたし、製本とか警備員とか…若かったから出来たんだよなあ、と思う。今はもう二度と出来ないつか、やりたくない仕事もある。

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旅館の中居さんは、お膳を十膳ほど積み上げて、運ぶんですよ、信じられんが。最初は五段くらいから初めて、徐々に。それで階段上がるんだもんねー いつ転ぶかヒヤヒヤしました。そこは東京に来た修学旅行生たちが泊まるんで、布団敷きとか片付けとかハンパなくしんどい。問題のある高校とか泊まった日には地獄でしたし。

(名古屋の某中学なんか、朝布団片付けに行ったら、蹴り入れてくるし、男子の部屋から女子がゴロゴロ出てくるわけですよ。まるで乱交パーティ。DQNと同じ部屋になってしまった、おとなしめ地味系男子たちは同じ部屋の片隅でそれを聞いてなくてはいけなくて、辛かったろうな。その他備品壊されたり、あれやこれやで警察呼ぶ騒ぎにまでなったし。先生たちは始終謝りっぱなし。校内暴力世代の私でもビックリした。まあ、そんなんで多少免疫はあったけどさ)

そんなこんなで仕事も大変だったけれど、中居さんたちが滅茶苦茶個性的で、すごかった。ヤクザの旦那さんから逃げてて、宿から一歩も出ない人とか、牢名主みたいなジャイアンおばチャンとか(16時からのテレビは水戸黄門と言う謎ルールがあって、自分がたまたま出かけてて戻った時に別の番組付いてたりすると激怒する)、明らかに小指ない板さんとか。脚が壊疽を起こしているけど、病院に行かない、みんなとはお風呂には入らない人とか。なんか土曜ワイド劇場みたいな、そんなドラマみたいな職場だったなあ。

求人情報誌の営業アシスタントの仕事は、当時としては日給良かったけれど、とにかくキツイ仕事だった。飛び込み営業に取材、原稿執筆に入稿、配本に集金。掲載誌を常に持ち歩くので、肩に食い込んで痛かった。
人事の人にはたくさん会ったけれども、言えてるのはみんな嘘つきばかりだということ。受付の女の子を見ると、人事が判るし、その会社の本質と社員教育が見える。求人情報を掲載したけど、応募がないじゃないかと怒鳴られ、お金を投げつけられ、罵られたりとかもあった。
掲載してもいいよ、話を聞いてあげてもいいよ、と言いつつ、何時間も茶の一つも出されずに愚痴聞かされたあげく、しっしと追い払われて、結局退屈しのぎに利用されたことも。この仕事をしていた時、ふと自殺に向ってしまうサラリーマンの気持ちってこんなんかなあ…なんて思ったりもした。

まあ。そんな風にイヤな思いをさせられた企業の商品はまず利用しないし、買わないよね。消費者として絶対に忘れない<ゴディバの人事部長は最悪だ。国税局の調査(企業の義務)で架電したけど、罵倒してくるし、協力しないし。だから、ゴディバのチョコなんて糞だと思ってる。

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お金のため、日銭を稼ぐため、生きていくために、とにかく、出来る仕事は何でも・・・って感じだった。選んでられなかったもの。働かないと食べていけないから。雇ってくれるんなら、もうどこでも・・・って話で。

持病持ちだからよく倒れたりして、それで続けられなくなった仕事も多かったけど、働かないわけには生活出来ないから、寝てもいられないわけですよ。たった少しのお金のために、五千円、一万円を稼ぐために、身を粉にして働くって、この頃に身に染みて経験した。

頭も悪いし、高校さえもちゃんと出てないから学歴も無いし、専門出ての就職先が特殊な仕事だったから転職には不利で。事務の仕事の経験とかなかったから、肉体労働しか、それしか出来ることが無いと思ってたわけで。

辛いことも勿論、たくさんあったよね。

今と違って、セクハラとかパワハラとかの言葉はまだ無い時代。セクハラなんてあって当たり前で、泣き寝入りも当たり前で。女ってだけで馬鹿にされたり、怒鳴られたりも当然で。それがおかしいとされてる時代では無かったので。

あと、イジワルなお局とか、デパートなんかだと女の世界というヤツで、なんじゃこりゃっていう理不尽な階級制度?や待遇もあった。

ホテルで配膳の仕事をしていた時は、「士農工商犬猫配膳、お前たちは犬畜生以下なんだよ」って、いう社員もいたし。軽井沢のリゾートホテルにシーズンでいたときなんか、制服半袖なのに、イジワルな指示出されて、雪の中、灰皿集めさせられたり、掃除させられたり…足引っ掛けて転ばされたりとか、クチ聞かないとかの集団イジメにもあった。
なんか、都会(関東)から来た人間は気に入らないという理由で。それでも段々と打ち解け、受け入れてくれた人もいたし、最後の最後にはイジワルな人が帰りを惜しんでもくれたかな。

泣いたり笑ったり、しんどい思いをしたり、身体を壊したり、理不尽なことにぶちきれたり、悔し涙に枕を濡らしたり・・・屈辱的なこともいっぱいいっぱいあった。死にたくなるくらい、しんどいときもあった。仕事に行きたくないなあ・・・って、逃げ出したくなるときも。

でも、月日が流れた今となっては・・・懐かしい思い出。

様々な業種色々な仕事をして、たくさんの人に会って、その業界に入らないと、そこで働かないと見えなかったり判らないことも知ることが出来て、それはそれで私の財産なのだと思う。

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人生に無駄なし(後半)

アルバイトだけでも、一日だけのものから長期のものまで、あまりにもたくさんしてきてしまったので、数え切れないし、覚えていないものもあったりする。

サクラのバイトとか焼き鳥の串打ちや、ケータリングの調理補助、アパレルのピンキング作業、調査業務やコンサートスタッフ、某アニメショップの店員、遺跡の発掘、接骨院のスタッフ、歯科助手とかもやったかなあ。

その間、交通事故にあったり、病気で寝込んだり、なんだかんだ人生も流れ流れてあれやこれや。

占い師の仕事もね。最初の占い館は時給500円だったの。渋谷で。交通費こそ月に5000円だけ出たけれど。でも、普通は売上げの50%だから、時給が保証されているだけマシなんだけどね。業界的には。でも、どんだけ稼いでも時給500円。某テレビで昼間のレギュラー持ってた先輩でさえ650円。

キツイなーと思ってた頃、専属にならないかとスカウトしてもらって、
「日給1万でどうでっか?交通費も2万まで出しましょ」と・・・
某占い家に移ったわけだけど、この給料はもー破格だった。

先輩が紹介してくれたお陰で、花やしきとか後楽園の占いコーナーとかで仕事にありつくも、違和感ありありだったので、結局断ることに。ああいうところは売上げの50%(交通費必要経費込)なので、一日の売上げが1万なら自分の取り分は5000円て計算。売上げが良かったので引き止めてくれたけど、ゲームセンターや遊具の大音響の中で仕事するのはきつかった。まあ、贅沢だったと思う。辞めるなんて。みんな、場所を欲しがって、順番待っているというのに。

当時占いの仕事は、私にとって不本意というか、やりたい仕事ではなかったので・・・他に出来ることがないから仕方なくやってる感ありありで。

機会さえあれば、辞めて他の仕事に!って、いつも考えてたし。

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電話占い会社に在籍して電話鑑定の仕事は続けてたし、個人鑑定とかイベント何かもしてたことはしてたわけだけど、そんなんで、ダラダラやりながらも、転職活動をしたり、他のバイトをしたりとか、またまた流転の日々。

先輩の友達で、雑誌にバンバン連載持ってる占い師さんを紹介してもらい、
アシスタントとして原稿書きを手伝ったりもした。このときに、占いの原稿の書き方を教わったんだよね。その人は良い人で、ご馳走してくれたり、すごく良くしてくれたもの。
でも、人を雇ってはいられない状況になってしまった。けれど、辞めた後も色々と親身になって下さって、自分にはちょっと…という仕事を回してくれたりとか、優しい人で、本当にE先生には感謝している。ご恩返しはあまり出来なかったけど。

その直後に未経験でもOKの事務のバイトを見つけたり。これは時給1000円だったかなあ。普通のバイトでは初めての4桁時給
高校生時代からずっと、アルバイトはサービスとかが主流だったので、
事務とか、そうした頭を使う仕事は自分には無理だと思っていたのだけど、
なんか採用されてしまって、我ながらビックリ。とても小さな業界新聞社さんで、社員も少なくてアットホームなとこ。仕事は電話の取次ぎと入金消しこみとか、ホント簡単なファイリング。ここでの事務の経験が無かったなら、その後に派遣の仕事なんか絶対に就けなかったろう。

次にしたのは、クレジット会社での督促コールの仕事。時給は1300円だった。けれど、シフト制で月に12日位しか入れなくて。ヒステリーで仲の悪い女性社員三人のギクシャクした空気の中、仕事は決して楽しいものではなかったけれど、20代から50代の幅広いパート仲間は楽しい人たちばかりで、一年も続けちゃったし、その後でちょっとだけ出戻ったりもした。今はその会社は合併されちゃって無いんだよなあ。

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事務のアルバイトの経験があったので、クレジット会社でのパート仲間いわく、「だったら、派遣のほうが時給いいし、オススメだよ。登録したら?」
とのきっかけで、ダメもとで登録したらば、(高校は卒業してないので学歴詐称です。社員の経験はいちおうあったけど。どっちもサービスですもんね)
とりあえずパソコンが使えたりしたので、データ入力の仕事を紹介してもらえちゃったりして。

そこでアクセス覚えてデータベースへの入力をし、それがまたデータ入力経験ということになって、次が紹介してもらえて、それで少しずつ経験が積まれていったのであった。

高校だってマトモに行ってない私が、大手の名前ある会社に仕事で行かせて頂いて、お仕事もらって、社員である上司に生意気な口聞いてたり…ねぇ(爆)

お給料を頂きながら仕事を覚えて、その覚えた仕事が経験となって…そういうのが面白くて、楽しかったかなあ。新しいことを覚えるのはとても刺激的で、自分に出来ることが増えていくというのは、新鮮で、本当に面白かったのね。

派遣の仕事を始めたとき、私はすでに30歳を過ぎていたけれど。それまではブルーカラー的な仕事が多くて、ほとんどが男尊女卑で、社員もアルバイトもぞんざいに扱う、労働基準法違反なとこばかりだったけれど、ホワイトカラーな会社って、いいなあ…って思った。待遇良くて。ちゃんと人として扱ってくれるっていうのが驚きで。

もちろん、すべてが紳士的ではなく、酷い会社もあったけれども。同族とか、縁故関係で固められているとことか、一日で、「ここダメです!」なんて、ガマンできない職場ももちある。

それでも、かつて私が仕事してきた業界よりはマシに思えた。
サラリーマン、OLいいなあってしみじみ。

しかし、転職グセって恐ろしく、困ったことに派遣に関しても長期でも1年が最長で、大人になったから忍耐もと思いきや、大人になったからこそ我慢出来ないことも増え…短期が向いているなあ…と短期専門の派遣になってしまった。ダメだここ…と思うところはワガママにも断ってしまったり。

やれやれ・・・くまったもんだ。

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そういうわけで、私の職務経歴書はエライことになっている。

履歴書には書ききれるはずもなく、逆に正直に今までの経歴を書いてしまうと、どこからも敬遠される人材というわけで書類だけで落ちてしまう。

正社員なんて絶対になれない経歴だし、アルバイトやパートでさえも難しい。派遣でさえも、ここまで短期が多いと、ねぇー…な、わけで、たくさん省略して、まとめて書いているけれど。

とてもお恥ずかしいことに、一つの会社に長く留まっていたこともないし、一つのことに腰をすえて、ずっとそればかりをやってきたわけでは無い。業界も職種もまちまちで、ピンからキリまでエトセトラetc....

この年齢にして、何かを極めたということもないから、人生の落伍者とも言えるし、社会人としては失格だろうと思う。

学生時代の頃から続けてきたと言うか、続いていることと言えば、占いとか他人へのカウンセリングとか、どうしてもそっちになり、辞めるー!辞めたい!とウダウダ言いつつ、抵抗したり反逆しながらも、結局いつもそこに戻ってしまうし。その位か。

けれども私としては、今までトライしてきた社員やアルバイトも派遣の仕事も、その仕事を経験したことに対する後悔は無く…むしろ一箇所のところに居たらば、覗いたり伺い知ることの出来なかった世界ばかりで、出会うことが出来なかった人もいるし、貴重な体験をしたと心から思っていたりする。

転職経験が豊富なのは、はっきりいって褒められたことでは無いし、忍耐がないの一言で片付けられてもしまうんだけど。

向いてないこともたくさんやってしまって、その方面の人には迷惑かけたけど、トライしなければ向いてないと気付けなかったし、やってみて意外と向いてたとか、上手くこなせたとか、意外な自分の才能を発揮できて、可能性を試せたわけだし。

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サービス業で接客の仕事を経験したことは、初対面の人と会っても物怖じしない自分を鍛えられたし、接遇の経験があるから、今の仕事も難なく出来ているんだと思う。

アルバイトを教育する立場に立った経験も、教室で教えていることにも役に立ってるし。ワードや一太郎なんかのワープロソフトを使えるようになっていたからこそ、セミナーやスクール用のテキストも作れるわけだし、DTP補助の仕事をかじったことが画像処理するのに役立ったし。エクセルやパワポ、各種データベースにしたってそうね。

派遣で企画広報部の部長アシスタントをしたときに、自社サイトのページをHTMLで作ったり、管理したり、様々なソフトを扱えるようになったことは、自分のサイトを創ったり、立ち上げるときとても役に立ったし・・・

製薬会社に勤務できたから、健康情報とか、治験のこととか、GCPとか、薬事法とか、そういうこと多少でも理解できるようになったし、セッションでヒーリングの仕事を説明するとき、そしてエネルギーのことを図解して説明するときとか、この頃に得た知識は滅茶苦茶、役に立ってるんだよね。

ホテルや宴会上でサービスの仕事をしたから、テーブルマナーやセッティングのことも多少かじったし。デ○ーズでバイトして、パフェとかたくさん仕事で作ったから、パフェとかの飾りつけ、イマも出来るわけですよ(笑)

これまでにやってきた一つひとつの仕事はてんでバラバラで、関係(関連)性が無いっていうか、私のこれまでの経歴を見た人は、「何がしたいんだか解らない」と、忍耐の無い、何事も中途半端にしている怠け人のように言うし、そう見られちゃうし、実際、私は人生の堕ちこぼれなのは間違いないけれどもww 

それでも、私は色んなことにチャレンジ出来て楽しかった。色んな場所で良い人にも意地悪な人にも、ヘンな人にも様々な人に会って、色んな仕事をして、様々な業界やら世界を覗いて知って、本当に面白かった。身に付かなかったこともたくさんあるけれど、自分のモノになったスキルもたくさんあって、それが出来るようになっていく過程も楽しめたし、出来るようになっていく自分が嬉しかった

今もこれからも、使う機会の無い技術(スキル)かも知れないけれど。

こんな経歴、誰も評価してくれないし、今の時代、日本では不利以外の何物でもなく、銀行からも融資してもらえない、信用もしてもらえない経歴だけど・・・www

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でもまー 他人の話を聞いて、セラピーをすることには大いに役立ってるのかな。知ってることが多いと、背景を想像したり、置かれた立場を理解したり、色んなことをイメージしたり、情報引っ張ってくるのに楽だしね。

良識あるエリートさんや面接官には嫌われる、胡散臭い職業の、これまたいい加減な経歴の私ですが、それでも、その経験を積んだことに後悔は無いし、経験を生かすも殺すも私次第というやつで、使える道はちゃんとこうして目の前にあるんだしね・・・って、つくづく。

そんなわけで私は、人生に無駄なことなんて無いんだと勝手に思っている。

これまでの自分の人生の時間や経験したことを無駄にしてしまうかどうか、というのは・・・その経験が繋がっているとか一貫性があるとか、そういうことではないんだって思うし。

一つのことに忍耐強く、辛抱を重ねて取り組むのも素晴らしいし、それが出来る人のことを心から尊敬するけれど…それはそれ、これはこれで、並べ比べてどちらがどうとか、優越を誇るものでもないと思うんですよね。

経験は確かに積み重ねるものではあるけれど、それは多方面からの体験でも、重ねることはできるのだと思う。一見、関係性が無いようなことでも、その人の中で繋がって、一つのものに構築出来れば、それは立派な智恵やスキルになるんではないかに~。

ようするに、その人が自分の中でどうまとめるかってだけで。自分の血肉にするかしないか、それだけなんだでは?と思ったり。

うん。経験したことは、「自分」という器を通して、どう表現するか否か。

素材を味付けして、盛り付けて、作品に仕上げて、人の口に合うようなものにするかどうかでせう。

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仇も情けも我が身より出る

以前の記事(前の前のふたつ位)なんかに書いた内容だと、私という人間はまったくもって忍耐の欠片もなく、すったもんだのあげく、騒ぎを起こして去っていくばかりで、努力の欠片もないやつ…な印象しか与えてませんけれど、(実際長く続いた試しはありませんが)
それでも、歯を食いしばって頑張ってみたことはあるのです。

動画制作の仕事をしていたときは、毎日徹夜徹夜でして、24時間戦いますか…とばかりに、何日も不眠不休で意識朦朧の中、仕事をし、成人式当日にも風呂にも入れない状態でひたすら仕事。
(明日10時から放映の24時間テレビの作品なのに、今明け方にまだ作画で間に合うのかしら~なんてのも多々。夜7時からのSPなのに今もう夕方ですけど間に合うンか!みたいなのとかねー修羅場はお約束で)

安い給料(出来高制で月8万位)で家賃払っての貧乏生活。食費は月一万で、職場では三個百円の具なしラーメン、夏はそうめん、キャベツしか入ってないお好み焼きがローテ、月一回定食屋に行くのが贅沢で、栄養失調にもなりました。洋服なんて買えないし、電話も無いし…それでも好きな絵を描く仕事だったし、続けたかったけれど、如何せん身体壊して、もたなかった。交通事故にも遭っちゃったしねぇ。

そして、バブル真っ盛り。「私をスキーに連れてって」の頃。スキー場でのシーズン住み込みバイト(配膳)をしたとき、そこはとっても排他的な雰囲気の職場で、なんていうか、みんな冷たいといいますか、「ふんっ!」って感じで、すごくイジワルされました。まあ、平たく言って集団イジメか。口聴いてくれないとか仲間ハズレくらいならいいんですが、重たい寸胴に入った熱い牛乳をポットに入れるとき、後ろから突き飛ばされたり、足引っ掛けられて転ばされたり、ねちねちとイヤミ言われたり、暴言吐かれたり…とかとか。まあ、同じバイトにってのはなく、社員さんたちにですけど。

私も負けん気強いんで、言い返したりはもちしました。
「なにくそ、こんちくちょー!」と悔しさをバネにして)

暖房効いた室内でのサービスですから、制服は半袖で、ヒールのない靴にストッキングっていう軽装なわけですけれど、「おい、表のテラス席の灰皿、ぜんぶ取り替えてこい!」と、上に羽織るものも貸してくれず、雪の中、ブルブル震え、かじかんだ腕や手をこすりつつ、足元つるっとすべりながら、スキーウェアのお客さんたちにジロジロ見られるもんで、半泣きでした。

結局、上の人が目ざとく見つけてくれて、「そんなことしなくていいから、早く中に入んなさい」と、なりましたが、風邪は引いちゃいましたね。もともと身体丈夫じゃないんで。

それでも頑張れたのは、治療代で作った借金があったし、何よりも若かったからかな。あと週末の金土日になると、バイトさんがドッとやってきて、一人だった大部屋が賑やかになり、立場が同じなので色々と話せるし、判ってもらえる友達が出来たからです。主に関東からの子たちが多かったし。

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で、なんで社員さんたちがそんなにイジワルだったかというと、配膳の時給が良かったから。その時期にしか来ないのに、一ヶ月の給料だけで見たとき、社員さんより高給取りだから。でも、年間のトータル(年収)で考えたとき、ボーナスも交通費も福利厚生も退職金も無い、バイトや派遣の方が損ではあるんですが。そのあたりは時給マジック。

あと社員さんたちは地元とか、隣県の人たちばかりで、都会の人たちにコンプレックスを持っていたようです。(都会っていっても、アタシャ千葉出身ですけどね) 何で彼らが都会の人間に偏見持っているのが判ったかというと、

週末バイトの中に大学生で何シーズンか、バイトに来ている子が居たんですが、(ちなみに常駐は私だけだったんだけど) その子はいつも社員さんたちにお土産を買ってくるんですよ。それがよくある食べ物とかではなく、ブランドもののTシャツとか小物とか、一人ひとりに良いものを。どうもお金持ちのお嬢様らしくて、目的はお金というより社会勉強のためのバイトだったのかな。

で、皆彼女の前では「ありがとう」って貰うんだけど、実際は、「ふん、東京の人間だからって、ひけらかしちゃって何さ。私たちがこんなもの買えないと思って、バカにして・・・」と、まあそんな感じで。

でも、彼女がそうしてたのは勿論イヤミではなく、思うに、皆の中に上手く溶け込みたいからの処世術だったと思うけど、裏目に出ちゃってたというか、何と言うかでした。私も彼女とはソリが合わず、友達にはなれませんでしたね。

いわゆる排他的な雰囲気の中、金土日はたくさん仲良くなったバイトさんが大量に来て、とっても楽しく過ごせたけれど、彼女たちが帰ってしまってからの、日曜日の夜から木曜日までが孤独な針のむしろ状態。

流石にしんどかったし、辛くなって、泣けたときもあった。

けれど、とりあえずマジメに文句言わず、仕事だけはしてたからかな。少しずつ、周囲の態度も軟化してきて、受け入れてくれるようになったというか、打ち解けて話しかけてくれたり、部屋に遊びにきてくれたり、厨房の人たちも親切にしてくれるようになり、イジワルだった黒服の人たちも、乱暴な言葉使いから親しみのある言葉使いになっていって。それでも最後までイジワルで冷たい人たちはいたけど。

心配した彼氏が遊びに来てくれた時には茶化されたし。(びーびー泣きながら、しょっちゅう電話掛けてたんで) 三ヶ月経って、帰る日には「好きなもの食べていいぞ」って、お客さんとしておもてなししてくれたし。その後に遊びに行ったときも親切にしてもらったり、一部の人とは手紙のやり取りも続いて。

最初はどうしようかと途方にくれたし、すごく辛い数か月であったけれど、最後には報われた経験でもあった。

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それとこれは派遣OL初めてからの話。
直近で他の大手製薬会社にて入力業務をしていた流れで、たまたま治験事務の仕事を紹介してもらえたのです。上記にも書いたように、学生時代からサービスのバイトをしたり、アニメーターとか占い師とかエステシャンとかの専門職?ばかりで、一般企業に事務として入社したことが無い私。
まあ、大手食品会社で社員の経験はあったけれど、サービスの方でして。前に書いたIT企業の企画広報部での部長アシで鍛えられたものの、基本的に事務職のイロハが解ってなかったんですよ。新聞社での一般事務やコールセンターのオペレーター業務は経験あるものの。でもって、治験事務ってこれまた特殊だから。

長期のポジションで入ったものの、指示をもらえないことには右も左も判らず。その会社の臨床開発部は一課から四課まであって、今回の派遣採用枠は一課と二課に一名ずつで、私と一緒に入ったもう一人の合計二名。

最初の頃は、一緒に入った一課の子と(私は二課)、言いつけ仕事を会議室で2人で組んでやっていたものの、そのうちその仕事は終わり、自分の課での仕事に。彼女のほうの上司である一課の課長は、きちんと指示をする人で、
仕事の説明もきちんとしているようだったんたけれど、私の配属先、二課の課長さんは知らんふりというか、「よろしく」と無愛想に挨拶をしただけで、指示とか説明もなく、ひたすら自分の仕事をしているし、他の人も誰も何も・・・いきなり私一人、席に放置状態。それがあくる日も何日も。

それでは仕事にならんので、とうとう私の方から、
「あの、それで一体、私は何をしたらいいんですか?」と相談を持ちかけたというか、上司である課長に尋ねたわけです。

したらば、何か伝え方が悪かったのか、気に障ったようで、ご機嫌斜めになってしまい、「辞めたければ、辞めてくれてもいいですよ」

え゛え゛え゛え゛え゛え゛~? そんなことは言ってませんが?

私の仕事が何か、何をすればいいのか、聞いただけなのにぃいいいい~?で、目が白目になってフリーズ。どうしたらいいんだ状態でした。もうマジ半泣き。

とりあえず、周囲の人たち・・・同じ部の社員さんたちに、「何か手伝うことはありますか?」って聞いたりしたけど、「いいやー何も~ ラクにしてて」だったり。

ホント困りました。

とりあえず、何をしていいのか、何も指示もらえないし、社員の人に「何か無いですか?」と聞いても、そんなこんなだし、そのうち、ポツリポツリとおこぼれ的な仕事はくれるようになったけれども、それでもヒマというか、自分の仕事の範疇やらポジションというか、業務の全容も流れもわからず、途方に暮れましたわ。

課長には嫌われてシカトされてるしで、泣きたいし胃は痛いし、一週間で辞めたくなったし、朝起きて行くのが辛かった。でも、他部署の人たちが声掛けてくれたり(トイレとか休憩室で)、同じ部署のモニターさんたちも話しかけてくれて世間話したり、課長との仲は最悪だったけれど、環境とか雰囲気は悪くなく、時給も良かったですしねえ(外資だから飲み物とかタダだし)。
隣一課の同期の子とか、他の課の派遣さんたちもいたし。
でも、一課の課長さんはとてもユーモアのある叔父様で、よくジョーク言って笑わしてくれたりする人で仕事の指示もちゃんとくれる上司だし、「いいなあ、私もそっち(一課)に行きたいわ。トレードして!」といつも思ってたかな。

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けど、我が身を嘆いていても仕方ないので、もう仕事をもらえなければ自分で仕事を見つけるしかないと・・・フロアの隅っこの雑然と散らかった書棚とかアーカイブとか、そういうのの整理整頓を始めたのでした。勝手に。
古いファイルの表紙をはがしてリサイクルできるようにしたり、本棚をキレイに並び替えたり、タイトルを手プラでつけたり、あっちこっち掃除も兼ねて、徹底的に。

そうこうしている内に、社員さんたちもポツポツと、「あのーこれ作ってくれる?」と仕事のアシスタントを頼みに来てくれて、少しずつ打ち解けて、何とか居場所が出来たって感じで。ヒマそうにしている社員さんに治験のこと聞いたり、GCPとは?なんて、本を借りて読んだり(社内の)して、自分で勉強して理解して。

そうこうしている内、数ヶ月だった頃、私をシカトし、険悪な雰囲気だった課長さんと、何がきっかけだったか忘れたんですけど、いつの間にか態度が軟化して打ち解けてくれたんですね。

笑って話すようになってた。

仕事も頼んでくれるようになって、冗談も言えるようになって、気がつけば、仕事の後に一杯飲みに行くようにもなってた。(ほとんど私のほうが愚痴の聞き役です)

うん。悪い人では無かったんですよ。ちょっと子供っぽい人だったってだけで。何か私が入った頃、ストレスMAXでピリピリしてて、いわゆる拗ねての八つ当たりだったみたいで。他会社から転職して課長になったものの、(製薬会社とか薬剤師さんは転職多く、しかも不利にならない) 部下は言うこと聞かないで文句ばかりだし・・・とか。

そんなこんなの中間管理職によくある悩みで、かなり閉塞してて悶々としていただけみたいでした。あと自身が何よりも疎外感覚えてたらしく。
(確かにヒラの社員さんたちは課長のこと、馬鹿にしてたし、悪口も言ってたし、嫌われちゃってましたネ。まー確かに課長のほうも原因作ってたわけですが)

大人気ないと言えばそうなんだけど、まあ、上司で年上と言えど、人間なんだよね。

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たぶん、課長にとって一番辛い時期…プレッシャーで鬱々した気分のときに、私が「あのー何をしたらいいんですか?」と来たもんだから、何かピキッときちゃったんでしょうね。仕事教える余裕なんて、まったく無い時だったのに、めんどくさいこと言われて苛苛が爆発した模様、ハイ。

けど、指示出さず放置してるのに、せっせと自力で仕事見つけて、めげずにしている私を見て、感情の嵐が去ってから、ちょっとは申し訳ないことをしたと反省したり、評価もしてくれたのかなと…

毎日無視されても挨拶は続けたし、イヤな態度取られて返事してもらえなくても、作業の報告したり話しかけるなどは頑張ってみましたのでね。

まあ、会社の雰囲気がまったりのんびりしてて、外資で理系ってことで、ほどよい距離の人間関係だったし、周囲の人が温厚で良かったからね。それで頑張れた。

一年経った頃、移動があって、その課長とはお別れ。新しい課長が来たんだけれど、それがまたとてもイジワルな人で。他部署の社員さんたちから、
「あいつ、根暗でイヤミなヤツだから気をつけてね」と忠告されるほど。
実際、前課長の比ではなかった。あからさまに、「なんだ、君、思ったほど仕事できない人なんですね」みたいなイジワルを、次から次へストレートに言う人で。

その頃には人材移動激しい製薬業界のこと。モニターさんもたくさん入れ替わってしまい、新薬の申請通って、プロジェクトも終わり、仕事もヒマになってしまったし、ストレスもちょーたまりまくりの身体の具合も悪くなり。

さすがにこの人の下では働けない、無理だ!と、更新せず。

うーん。なんでしょうね。辛くても耐えられる状況と耐えられない状況があったりするわけです。何が違うのかは判らないんですけどね。私自身、自分のそのあたりのボーダーラインって、良く解らないやw

今はね…年を取ったせいか、まったく我慢が出来ないというか、かえって、「あ、辞めたほうがいいな」と、随分と早い段階で見切りを付けるようになってしまいました。何か年をとって段々と我がままが酷くなっているのか? あんまり自分に無理な忍耐を強いることは無くなってしまいましたよ。

わはははは

まあ、でも、マジメにやっていれば報われることもあるというか、努力すれば認めてもらえることもあるというか、(私の場合、努力というのだろうか・・謎) 最初は絶対無理!って思った人とも、理解し合えるというか、時間をかければ歩み寄れることもあったりします。
それでも最後までダメな人とは、どうにも無理なんですけどね。

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物も言いようで角が立つ

生来、私は短気で困ったことに手も口も早い。考えなしと言えばそうだし、余計な一言も多い。とはいうものの、近頃では年をとったせいもあり、だいぶ角も取れて、忍耐も多少身についてきた。

それでも、並んでいる列に割り込んできた人に注意をして、逆切れされてしまい口論になってしまったり、店員に絡んでいる人に「あんた心が狭いわね」とか、携帯ご遠慮下さいの飲食店で通話している人だとか、イヤフォンの音漏れに「うるさくて迷惑」とつい言葉にしてしまうとか…道幅を占領していたり、電車の降り口を塞いでいる人に、「邪魔なんですけど~」とホンネだだ漏れは困ったことに相変わらず。

けど、流石に時代が時代だし、少しは学習もしているので、周囲に迷惑かける事態や危険な臭いのする相手には言わないのでした。若い頃は腕力無いクセに無謀にもケンカ売って、かえってハタ迷惑なことをたくさんやらかしましたんで。

はい。今はすっかり小心者の小市民です。

でも、やっぱり迷惑行為を見ると苛ついちゃう性分は治らず。

先日とある電車に乗ったときのこと。反対側の座席に乗ってきた、いかにも…な若者が、スマホを二台取り出し、いじりながら大声で通話し始めた。ちょっと話してそれで切るかと思いきや、次から次へと架電して、いっこうに止める気配なし。

優先席ではないし車中ほとんどガラガラだったら、口うるさく言うことでもなく、多少おめこぼしかと思うけど、うるさいし、周囲にもとっても迷惑で、文句言いたくなって喉まで出かかったものの、たぶんストレートに注意したなら、逆切れの可能性大。

けれど、見ていて不快のストレスMAX。降りる駅はまだまだ先だし。怒りがプルブルこみ上げてくるし、さてどうすんべか。

して考えた。

相手憎し!と、「迷惑をかけている悪人」と相手のことをそう捉えてみてしまうから腹が立つのだと。この男の子は、周りが見えていず、自分の世界に浸っていて、他人に迷惑をかけているという自覚が無いのだ。
だから、正攻法で注意して怒りをぶつけても、怒りには怒りで反応してくるだろう。しかし、他の乗客のストレスになっているのは事実。

ならば、どう「車内での通話は止めた方がいい」と相手に理解してもらうべきか。

そこで筆記用具。ノートを取り出し、彼が大声で連呼していた電話番号をメモ。そして降りるときに手渡し。

『今は携帯電話番号から、簡単に個人情報を引き出せる世の中です。電車の中や公共の場など人前で電話して、個人情報や仕事の内容を話すことは、あなたも相手もトラブルに巻き込まれる危険があります。
通話の内容からあなたが何処に住んでいるのか、どこで働いているのかもすべて解ってしまいました。 
 090-XXXXX-XXXXX
 ↑この電話番号も誰が聞いていて、どう悪用されるかわかりませんよ?
皆リアルにネットやスマホを使っているんですから。あなたはこの番号をたくさんの人に教え、結果、相手を危険にさらしています』 

何事も建設的なシュミレーションが大事。そして頭を使わないと、ですね。

ただ、このやり方が効果的かどうかは判らない。私にとって、今までの自分のやり方を変え、自分の中に湧いた憤りを昇華する方法だというだけで。

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前記事にも書きましたが、どうにも私は、火中の栗を拾うがごとく、誰もが口を濁していること、皆が見て見ぬふりをしていること…を、突付いてしまう性分があるようです。その度に蜂の巣をつついたようにもなってしまうから、一言で言えばトラブルメーカーなのかも。

学びと言えばそうで、随分と長い間、繰り返しのパターンにもなっちゃってたかな。

例えば、派遣先。あるITの会社で、困った上司の部下になってしまったことがありました。私が入るまで、何人もの社員、アルバイトが居つかず、半日で辞めてしまったり、一週間持たなかったり、給湯室で大泣きしていたと思ったら、お昼休みから戻らなかったとか。これ以上、新卒や途中採用の人材つぶされてなるものかとの苦肉の策?そんなこんなでの派遣起用。

その広報部長の無茶ぶり、困ったちゃんぶりには、他部署の人々も辟易してて、いないと悪口。私も採用早々から同情される有様で。えれーとこ来ちゃったなあって、思った。

朝昼晩とその都度方針変わるし、言うこといつも違うし、終業間際に無謀な仕事を「明日まで」って渡されるし、プログラミング言語知らないのに、HP作れって本渡されるし、10人位の会議で全員の会話内容を人別に記録しろって、速記なんか出来ないと言うと、PCで入力しろとか言われるし、気まぐれというより、子供の我がままに付き合ってる感じで、私はアシスタントというよりは子守をしている気分。

取引先の人には揉み手で、発注先(広告や印刷)の人には強気と言う、よくあるイヤなヤツパターンだし。それで仕事が回ればいいけど、我がままな言い分の前には、社内外すべてに迷惑がかかって、引っ掻き回されっぱなし。なんでこんなヤツが部長なんだ?って、心から思った。

それでも私が気が強いので、日々ケンカをし、戦いながら、なんだかんだで長く持ったほうだった。でもある日、あまりの無謀な要求に、

「キサマなんぞに部長(管理職)の資格はなぁ~い!」

と、とうとうキレて喧々囂々。

ええ・・・言いたいこと、たまってたこと、全部ぶちまけちゃいました。
社長とか相談役とか、色々な人がいた前で。
(それでも退職時には皆からお疲れ様って花束頂けたけど)

その後、ここ辞めてからも、社内で社員たちが、持て余す「困った上司」の下に、配属されるパターンが続いてしまいました(笑)
恐るべし、引き寄せの法則。

なんかしばらく敗戦処理投手になった気分でしたヨ。得てして派遣てそういうのが常だけど。

※余談ですが、数年後に某区の年金事務所にて算定基礎届の業務に入ったとき、その会社のある区だったもんで、見ちゃった。たまたま私のところに回ってきたのよね、その会社の給与算定書が。3人だけでその業務をこなさなければいけないと言う、地獄のハードワークだったのですが(ひたすら残業の日々。ちなみに東京23区いやさ日本中で企業数がもっとも多い3区の区の一つ。それをたった3人でやるって、ありえないす) で、にっくきジャイアン部長の給料は新卒並みだった。ボーナスも。で、そいつより年下だけど、とても紳士だった某さんはその倍以上貰ってた。当然でしょーと思った私、にんまり。肩書こそ、部長のままだけど…何かやらかしたんだろうなあってお察し。

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そうさなあ・・・

上記のはまた別として。職場の人たちからして、「困った同僚・部下・上司」とか、つまり問題のある人がいたり、職場の不条理な状況とか、そういうのがあると、何回も苦情を言ったり、闘ったりというか、表立って行動をしてしまったことがあったりします。あくまで若い頃は…で、今では無いですが。

前記事のように、皆に不快感や迷惑をかけ、職場の和を乱していると思う人や、仕事の流れを阻害していたりするような人に対して、ヘンな正義感から動いちゃったことが何度か。

でも、あーだこーだ不平不満を言っている人たちって、たいてい自分が表に出るのは嫌がるし、誰かの傘に隠れたがっての日和見なのよね。誰かがそれをしてくれないかと期待するクセに、いざ誰かが動くと巻き込まれるのを嫌う。「証言」なんかは絶対にしない、そういうもんです。

みんな関わりたくないから。

職場でイジメがあって、イジメている人のことを、鬼のような形相で怒りながら非難して、悪口言って、イジメられている人に対して深く同情しているように言いつつ、絶対に助けないし、イジメている人に注意することもしない。少人数のオフィスだったり、同族系列の会社だったりすると、自分がそれをすることで、職を失うことにも繋がるから、それは仕方ないかなって多少はあるけど。

私ったら、困ったことに立場をわきまえない派遣社員なので、その中学生みたいなイジメをしている課長に、「アンタ、それでも人間か!」と、やっぱキレて物申してしまったことがあるけど、そういう風に出過ぎたことをして、場を乱す人のことも皆嫌いなのよ。自分のところに累が及ぶことを恐れてるからね。

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そんなこんなで、私は組織にはヒジョーに向いていない。
OLとか会社員など、勤め人にとても向いていない。

歩くメーワクというか、トラブルメーカーで、嵐を呼んでしまうというか、
なんかこう・・・黙ってられないというか、ヘンなところで正義感というか、妙な血が騒いで、相手が誰であろーが説教?(暴言)してしまうというか、暴れて?しまうというか…一悶着起こすタネを作ってしまう。

社会性が無いといえばホントそうで。見てみぬフリができないのであった。

・・・ていうか、やり方が問題なんですよね。とても感情的で直情過ぎるというか、暴発しているだけだったから。もっと大人なやり方、上手いやり方があったと思うのに。

うん。まったく頭を使っていなかった。考えナシで怒りに任せて爆発して、言いたいこと言ってるだけで。理路整然と冷静に相手を言い負かしたとかではなく、ヒステリックに喚き散らしているだけでね。みっともないこと、この上なかったんだ。

それって、何の解決にもならないの。相手にも伝わらないしね。たぶん、職場の皆に迷惑かけただけ。何の解決も齎さなかったと思う。(派遣元にもネ、たくさん迷惑かけた)

破天荒な人物が来て、言いたいこと言って去っていった・・・になっちゃっててね。

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時に「私、怒ってます!」と、相手に態度で表すことも勿論大事だけれども…思うに、「怒り」ってのは相手を加害者と見なした被害者意識でもあって、怒りだけぶつけても、それは破壊行為でしかなく、建設的な解決にはならないことのほうが多いんだよね。

相手の立場にもなって、相手のレベルに合わせて、
その人が解るように、効果的に伝えてあげないとって。

いくら相手のほうが悪くて、自分を含めた周囲がどれほど、迷惑を被っていたとしても。憎しみから出た行為は、何の実りももたらさない

怒りは怒りを呼び、さらなる混迷と混沌を生むだけ。

今までの私は・・・過去の、若い頃の私は、自分が正義だと信じて、すべて自分が感じることを基準にして、相手を裁こうとしていたような気がする。
まるで正義の審判を勘違いして気取っているアメリカみたいに(笑)

けど、それは違うんだな。

争いは争いを、闘いは闘いを産む。仕返しはさらなる仕返しを。裁きは裁きを。怒りをぶつけると怒りをぶつけられる。憎悪は憎悪を呼び覚ます。かくして負のパターンが連鎖する。

そうじゃなくて、もっと別のものが必要だ。

対話することも大事だし、相手の視点に立って、物事を見ることも必要だ。
互いが互いを理解するために、自分の言い分や立場を相手に理解してもらうために、そのためにはまず、相手を理解することから始めないと、だな。

怒りをぶつけるのではなく、相手にこちらのことを理解してもらうために、
どうしたらいいのか・・・

そんな当たり前のことが最近出来るようになってきたというか、なんか今更って感じだけど、この年になってようやっと、大人らしい行動も取れるようになってきましたかねぇ・・・。

やれやれ・・・いかに今までが精神年齢低すぎかって、ホント。

トホホホ

でもねぇ、何が正しいのか間違ってるか、というより、とにもかくにも、間違っていようが利口でなかろうが、自分で何か行動して、出た結果を受け止めて、経験して実にして得ていくしかないのよ、何事も。

失敗しようか恥かこうか・・・

それがベストなのか他人に迷惑をかけることだろうが、とにかくやっちゃうしかないというか、やってみないと何とも言えない。若い時はね。

自分で納得いく行動して、痛い目見て反省して結論出すしかない。自分が考えて行動したことしか、なんだかんだ身につかないから。絶対成功する方法はないし、これが正解だったことはないもん。上手くやろうとしても無駄なこと。占いとか霊能力とか、そんなもん、どうでもいいし。

後悔しないことなんて何もないし、失敗から学ぶしか無いもんねー

わははは

若いときの恥は掻き捨てってことで・・・ダメか。

私のはあまり参考になりませんケド。

して、上記のようなことばっかりやってる嵐を呼ぶ派遣は、仕事の紹介がまず来なくなるのでマネはお薦めしません。ハイ。

てな具合で、私の人生、破茶目茶で挫折と失敗だらけ。けれども、挫折と失敗からしか学べないこともあります

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