多様性って、ナンダ?
最近はすっかり「多様性」という言葉があちらこちらで聞かれるようになりましたし、実際に少しずつ「違い」に対して寛容だったり、その違いの価値を認めていこう、という向きも見えるようになってきました。
ただ、それと同じくらいどんどん根強くその多様性を否定するかのような排他・排除のような姿も浮き彫りに感じることも増えたような気がします。
また感じたことをダラダラ喋ってしまったので配信自体が長くなってしまったのは申し訳ないんですが…。
自分の記憶ではあるんですが、それが「多様性」という言葉を用いられていたわけじゃないんですが、僕が幼い頃の方がある意味では多様な人達の共存ってリアルにあったような気がしています。
例えば学校では、今だったらもしかしたら「障害者」とされていたかもしれないような子が普通学級の中に普通にいました。
確かに馬鹿にされたり、いじめのようなことがなかったわけじゃありませんが、逆にその子を守る人や庇う人もいました。
中学校に行けば昔でいう「ヤンキー」が学校でたむろしていて、よく先生と揉めていたり他校に乗り込んでいったりしていましたが、意外と他の生徒さんとはうまく過ごし方は棲み分けられていて、トラブルもありはしましたが、意外と仲良くやっていたりする景色もありました。
じゃあ地域に目を向けると、僕も決して裕福ではなかったんですが、今よりかは地域コミュニティは機能していて、いろんな生活水準の人達がそれなりに補い合いながら暮らしている風景が残っていました。
なんか今のように「多様性、多様性」と言わずともそれなりに多様性には結果的に寛容だったような気がするんですね。というか、多様性という概念は意識されていなかった。
誤解のないように言っておくと、当然その頃だって差別的なこともありましたし、いろんな人が共存する事によるいろんな課題はありました。
何が言いたいか、というと、なんとなく世の中のベクトル自体が効率性なのか利便性なのか整理されたのか分かりませんが、むしろずっと人の「棲み分け」を進めていった事により、どんどん「違い」に不寛容になり、目には見えないけれど差別、というか区別みたいなものが生まれていったところってあるんじゃないか?という話です。
良かれと思ってどんどん棲み分けていったことによって世の中はどんどん誰にとっても窮屈なものになって、閉塞的になって、暗に優劣みたいなものを強調するようなものになっている側面ってあるんだろうな、と思うんです。
多様性、という言葉ってある種そういう閉塞感や区別感、窮屈感の中で溜まりきった大きな反動として生まれたんじゃないかな、と思わなくはないんです。
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