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#11. 入院 【虹の彼方に】

 ついに妻が倒れてしまった。

肝臓に転移した4.5cmの腫瘍が、最愛の妻の生命を直ちに脅かしていた。

すぐにでも抗がん剤治療をしなければいけない状態だったのだが、横行結腸にある10cmの腫瘍が腸壁をほとんど塞いでしまい、食事ができないので栄養も摂れず、妻の体力は日に日に衰えていった。

この時点でボク達夫婦には、選択肢がほとんど残されていなかった。

とにかく食事を摂って体力を回復するようにしなければならない。

そこでストーマ(人工肛門)設置の手術がマストだった。

彼女はそれをとても嫌がったが、生命が脅かされるとなると従わざるを得なかった。


 彼女の入院を知った彼女の友人や知人、そして仕事関係の人達から、ものスゴい数の連絡をいただいた。

それだけ妻の事を心配してくれる方が大勢いるということで、とても有り難く思った。

その日から必然的にボクがメインの窓口となって、彼女の病状を随時説明したり、逆に預かったメッセージやアドバイスを彼女に伝えるといった役割を担っていた。

御見舞いの品や御守りなんかをたくさんいただいては、励ましのメッセージと一緒に毎日彼女に届けた。

入院していた当時の病院では、新型コロナウイルスの影響によって、基本的に面会は身内しかできないという規則になっていた。

しかも僅かたったの15分間という、とても短い時間の規制を余儀なくされていた。

ここだけの話、病院に通うほとんどの近親者は、ボクも含めて漏れなく上記の時間規制よりも長い時間滞在して面会していたように思う。

あまりにも度が過ぎると看護師さんから注意を受けてしまうことも度々あった。

「生命の限り」がもしかしたら近いかも知れない現場で、少しでも家族や近しい人との時間を共有することはとても重要な事のはずなのに・・・

そういう面では、この規制はとても酷だと感じていたし、新型コロナウイルスの存在とタイミングを心から憎んだ。

もちろん病院には免疫力の低い患者さんばかりいるわけだから、病院側の対応は何も間違っていないと思うし、新型コロナウイルスの感染者数に応じて、一切の面会が禁止になっていた時期もあったようなので、むしろ少しであったとしても面会することを許されていたボク達は、とてもラッキーだったのかも知れないと今になって思う。


 妻の身体に「癌」が発覚してから、様々な人がそれぞれの励ましとともに、たくさんの貴重なアドバイスをくださった。

そのすべては、皆さんが妻の身を案じていただいているが故のご意見だ。

ボクはそれらを日々まとめ、整理しながら彼女に伝え、何をどうしていくかを妻と相談し、どのように実践してゆくかを決めていくことになる。

たくさんいただいたアドバイスの中には、全く真逆の意見を仰る方々もおられたり、過去に大病から復帰された方々の成功例を教えてくださったり、かなり具体的で細かいアドバイスをくださる方もたくさんいた。

そのいただいたアドバイスの中でも、真逆の意見について少しだけ触れさせていただくと・・・

相対する意見で一番多かったのは「抗がん剤治療」への肯定派と否定派の意見だった。

これには諸説あって、妻が空に旅立ってしまった今となっても、ボクには「正解はわからない」というのが率直な意見だ。

結局はその当事者、いわば個々の「生命力」によって、向き不向きがあるのだと思うし、それぞれの体力の有無、腫瘍の大きさや重篤度、年齢や部位などの条件次第で、状況はまったく変わるのではないだろうかと思う。

そして医療は理系とはいえ、数学や物理のように「〇〇」=「△△」といった明確な答えは、きっとまだ完成していないのだと思う。


 妻が入院をしてすぐに、

「抗がん剤治療は絶対に受けたらダメだ!」

という人達と、

「あそこの病院は最先端医療だから病院のいうことを聞くべきだ!」

という人達と、

まぁ、平たく言えばこんな風に、真っ向から割れたアドバイスを、ほぼ同時にいただくという状況が続いた。

もちろん皆さんが自身を正しいと思って仰っているので、熱の入った意見も多数いただいた。

彼女のケースが幸いだったのかどうなのかはこの際まったく別として、ボクの妻に関してはすぐに「抗がん剤治療」を受けることすらできない状態だったので、逆にいえば、いただいた意見やアドバイスを自分達で考えたり調べたり精査する猶予が多少あったといえばあった。

妻自身も入院前から「抗がん剤治療」というものに対して、どちらかといえば懐疑派寄りだったようにも思う。

しかしながら、実際に状況がこうなってしまった以上、ボク達夫婦にとって何かを選択していかなければならないその瞬間、その毎回が「究極の選択」であり、いつも鋭いものを首元に突きつけられているのに似たような感覚だった。

そして選択したものが「正解」なのか「不正解」なのか、すぐには答えが見出せない中で、一種の「究極の賭け」に「人生」を投じてしまったような、そんな限りなく恐怖に近い不安に震える感覚が、いつも心の中に渦巻いていた。

さらに細かく分類してゆくとキリがないが、「抗がん剤治療」の反対派の中でも「そもそも病院自体を信じてはいけない派」と「抗がん剤治療」以外の方法も「病院と一緒に模索してゆく派」にも分類される。

「そもそも病院自体を信じてはいけない派」の意見は、日本の病院のシステム自体を否定するもので、言いたい内容もちゃんと話せば理解できなくはないのだけれど・・・

「自宅での対処が困難なほど深刻な症状だからこそ、救急車を呼んでまで緊急入院となっているこんな状態で、即刻退院させるなんて鬼みたいな所業ができるわけがないでしょ?」と、急に差し迫られた時に言いたかったのは正直ある。

実際に急激に衰弱して苦しんでいる妻を目の当たりにしていながら、「病院の金儲けのシステムや薬の流通のやり方が気に入らないから、すぐに退院をさせますわ!」なんて選択は、少なくともボクには到底できるわけがなかったのは、逆に察していただきたかった。

あとは「科学的根拠派」と「スピリチュアル根拠派」があって、これらもどちらかといえば意見が真っ向から相対する内容が多かったようにも思う。

それから「東洋医学派」と「西洋医学派」などなど、挙げだすとキリがないのだが、本当にたくさんの意見やアドバイスをいただいた。

どれも信じたいと思っていたし、どちらも決して嘘だと思っているわけでもなかった。

どの意見も真剣に検討させていただいたし、可能な限りやれることはやったつもりだ。

 とにかくボク達夫婦にとっては、すべての事象が初めての経験だったし、矢継ぎ早に現れる様々な意見や選択肢に対し、瞬時に「正解」を、しかも毎回「的確」に選択してゆくことが、どれほど困難な作業で、選択してゆく過程がどれほど疲弊してゆくかということを、どうか理解していただけたらなと、今となっては思ったりもする。

ボクが感じていた内容は、もしかしたらいろんなタブーに触れているのかも知れない。

だがしかし、これらは決して嫌味で言っているのではない。

本当に有難かったし、とても勉強になったのは間違いなかった。

そのすべてが「妻への愛情」だったということも充分に理解していたし、アドバイスをくださったすべての方に対し、ボク達は本当に心から感謝をしていた。

みんなが真剣だからこそ、それぞれに熱く強い意見を仰っていたのは心から承知している。

これはもう少し後の話になるが、いろいろ相談や検討を重ねた結果、妻はこういう答えに辿り着いた。


「私はね、こうなってしまった以上、可能なものはすべてを試したいと思っているの。だって後悔はしたくないもの。だから抗がん剤治療をする事も今は覚悟はしているし、もし抗がん剤を拒否して病院から冷遇されるのも絶対に嫌なの。『みんなが推してくれたものをいろいろ試してみて、抗がん剤治療も少しだけやったら、気がついたら治ってたよー!みんなありがとー!』というのが理想・・・かな。誰かのどれが効いたからとかじゃなくて、全部試していたらいつの間にか治っててほしいの。」


いろんな人に配慮した、なんとも妻らしい意見だと思った。

もちろんボクはそんな妻の意見を尊重して、とにかく毎日を全力でサポートし、可能な限りアドバイスいただいたいろいろなものを調べたり調達したりした。


ストーマの設置手術が迫っていた。

妻は心から嫌がっていたが、こればかりは回避できないので「癌」が治ったら、時間がかかってでも必ずボクが元の身体に戻してあげようと心に誓っていた。


7月20日 ストーマ設置手術および、胃と小腸を直接つなぐバイパス手術が始まった。

緊急入院してからずっと絶飲絶食を強いられ、生命を維持できるものは点滴のみだったので身体中が浮腫み、内臓までもが浮腫んでしまってブヨブヨになっていたため手術は困難を極め、予定されていた倍以上の時間がかかってしまった。

待ってる間かなり心配をして肝を冷やしたが、最善を尽くしていただき手術は無事に成功した。

直後、手術室から出てきた妻の意識は既に覚醒していて、ボクへの第一声はとても小さな声で「お腹いた〜い」だった。

その日はHCU病棟で様子をみて、次の日から一般病棟に移された。

かなりの激痛が伴っていたので、痛み止めの点滴を数種類試していたが、どれも身体に合わないようで、強い吐き気と身の置き所がない倦怠感でかなり辛そうだった。

この後も身体が落ち着くまでは絶飲絶食は続き、毎夜襲ってくる吐き気と激痛でほとんど眠ることもできていなかった。

とにかく厳しい地獄をどうにか耐え抜いた彼女だったが、さすがに今にも心が折れそうになっていた。

そんな状態にも関わらず、妻はボクが病院に逢いに行くといつも笑顔で迎えてくれた。

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毎日の唯一の楽しみが、ボクと逢えることだけだと言ってくれた。

(ああ、早くこの地獄の苦しみから解放してあげたい!)

(神さま、どうかお願いします!)

(オレ達は絶対に勝つし、絶対にオレが守るからね!)

最愛の妻の笑顔を見ながら、いつも心に強くそう誓って、強く願っていた。


7月28日 「ナニワの日」ボク達の1年目の結婚記念日は、病院で迎えることとなってしまった。

この頃には少しずつだが、術後の苦しみから回復しつつあった。

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 この1年を振り返ると・・・

とても濃厚で、

とてもエキサイティングで、

本当にとてもとても幸せな1年だったと心から思った。

苦悩の末に転職をしてから一緒に住み始めて、

ボクが仕事の日は毎日欠かさずお弁当を作ってくれて、

週末は「緑貯金」でゆっくり自然の中で過ごして、

結婚式の準備に奔走して、

結婚式では大号泣しちゃったけど、

無事に挙げることができたし、

いろんなところへ旅行も行ったし、

美味しいものもたくさん食べたし、

本当にいつもいつも愛情に溢れていて、

間違いなくこれまでの人生で最高の一年だったと言える。

「ああ、これが結婚生活か」と、

「ああ、これが愛なのか」と、

「ああ、これが家族なのか」と、

毎日が本当に幸せで、

この時だって、

彼女は入院してしまったけれど、

毎日病院に通う日々ですらも、

愛を感じずにはいれなかったし、

毎日笑顔で迎えてくれる妻が本当に心から愛おしかった。

ボクにとって世界で1番素敵な奥さんで、唯一無二の存在だった。

ボクも妻も絶対に治るイメージしか持っていなかったし、元気になったらまた旅行にいこうと約束をした。

「ジョニーさん毎日頑張ってくれてるから、治ったらハワイに連れてってあげるね。」

そう言ってくれた。


8月2日 容体が安定してきた妻が、ようやく念願の退院を果たし、自宅療養することになった。

ストーマが落ち着いてきて、少しずつだが食事も可能になってきた。

しばらくは自宅で過ごせるということで、久しぶりの我が家に帰ってきた妻は大喜びだった。

ワンキチとちくわとの再会にも大いに喜んでいた。

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 このまま自宅療養で身体がもう少し落ち着いて、各種検査の規定の数値がクリアできれば「抗がん剤治療」の1クール目を開始しようという計画だった。

驚いた事に、退院して3日目にはワンキチと一緒に歩いて散歩に出たり、1週間目には自転車にも乗れるようになった妻をみて、尋常ではない回復力の早さと予想以上の元気さに、これは絶対に「イケる!」と確信に近いものを感じていた。

しかし同時に、

ボクの中でどうしても払拭できない不安があった・・・

彼女は予想を遥かに上回るほどに回復していて元気なのだが・・・

この時点で「癌」に対する治療、「腫瘍」へのアプローチはまだ何一つとして一切行われていないのだ。

この時のボク達は、まだスタートラインにすら立てていなくて、スタートラインに向かって、やっと歩き始めたに過ぎなかった。



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