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グルグルアプローチ パート3 読み書きするとは生きること

イギリス人の友人との会話です。

「世界で一番おいしい料理って、どこの国の料理だと思う?」
「それは日本料理。だって俺、日本人だから」
「俺はイギリス人だけど、イギリス料理が一番まずいと思うよ…」

お互いの主張を「三角ロジック」で表現すると…  

Claim:世界で一番おいしい料理は日本料理である  
Data:(どうして?)だって、私は日本に生まれ育ったから  
Warrant:(それってどういうこと?)母国料理が一番おいしいと思うもんだ  
Claim:母国料理が一番おいしいとは言えない  
Data:(どうして?)だって、イギリス生まれ育ちで、イギリス料理が一番まずいから  
Warrant:(それってどういうこと?)「生まれ育ちは、おいしい料理の決め手にはならない」→「料理のおいしさは個人の主観でも、料理の優劣は客観的に判断可能」  

さて、この会話で何と何がグルグルしているのでしょうか?

外側のグルグル!

不意に、「どこの国の料理が一番おいしいと思う?」って問われて…

一方で、英国料理・フランス料理・イタリア料理・スペイン料理・中華料理… などの選択肢を思い浮かべながら、他方で、その根拠を「経験」「知識」「好み」などに探し求める…

しばらくして、「日本料理」って思いついて、「生まれ育ち」っていう根拠に気づく。でも、それは「生まれ育ち」って思いついて、「日本料理」っていう主張に気づくのと、それほど変わりはない。一瞬のひらめき。

これは、「Claimイイタイコト」と「Dataその根拠」のグルグルです。対象理解のグルグルです。

内側のグルグル!

「それは日本料理。だって俺、日本人だから」って、とっさに返してみて…

「ああ、俺ってなじみのモノが一番好きなんだ」って気づく。だったら、それは料理ばかりじゃない。文学だって、音楽だって、絵画だって、なじみのモノが一番なのかもしれない…

「日本料理」って思いついて、「保守的な性格」っていう論拠に気づく。でも、それは「保守的な性格」って思いついて、「なじみのモノが一番」に気づくのと、それほど変わりはない。一瞬のひらめき。

これは、「Claimイイタイコト」と「Warrantその論拠」のグルグルです。自己理解のグルグルです。

外側と内側のグルグル!

「俺はイギリス人だけど、イギリス料理が一番まずいと思うよ」って、予想外の返答があって…

自分が主観的な「料理観」「食事観」に囚われていたことに気づく。

「生まれ育ちは、おいしい料理の決め手にはならない」っていうことは、「料理の優劣は客観的に判断可能」ってこと。それじゃあ、「客観的な料理の評価」って、どうするの?それって、そもそもできるの?

「料理論」「食事論」を通して、新たな「料理観」「食事観」を手に入れたとたんに、新たな視点から「料理」「食事」を再考が始まる。

これは、外側(対象理解)と内側(自己理解)のグルグルです。言い換えれば、「注視点(考察対象)」と「視座(モノの見方)」のグルグルです。

どんな「メガネ」を通して見ているのかは無意識

日本語で「視点」って言うと、「注視点」を意味することが多いように感じます。それは「着眼点」であり、「目のつけどころ」です。

でも、英語で「パースペクティヴ」って言うと、それは「視座」を意味します。「フィルター」や「メガネ」のようにアイディアを通すものです。

私たちは、何らかの「パースペクティヴ」を通して現実・世界を眺めています。逆に言えば、「パースペクティヴ」なしにそれらを認識することはできません。何らかの立場で、何らかの観点から、それらを認識するのです。

にもかかわらず、どんな「パースペクティヴ」を通してそれらを眺めているのか、見ている本人にその自覚はありません。だって、それが唯一のモノの見方だから… それがそのように見えるのは、それがあるがままの現実であり世界なのだから… そう思い込んでいます。

「わかる」とは「変わる」こと

でも、何かがわかった、って感じるときがあります。そんなとき、これまでの古い意識に気づき、自らをその「囚われ」から解放しています。

新たな「パースペクティヴ」を通してみると、そこには新鮮な現実・世界があります。現実そのもの・世界そのものは変わらなくても、自分のモノの見方が変わることで、それらの意味や価値が変わります。

何かがわかるって、そもそも「二重化」と「媒介」なのだそうです。ユリイカ!って、ひらめきが生じたら、外側も、内側も、内と外も、一瞬にして分裂します。そして、新たな「パースペクティヴ」を通して、現実・世界の見直しが始まる…

「パースペクティヴ」の有力候補

バラバラアプローチにならない読み書きの仕方は「三角ロジック」しかない、ということではありません。

一番良い方法は、何らかの直接的な経験で得られた問題意識を通して、現実や世界を見ること。自分の「実体験」「原体験」にまさる「パースペクティヴ」はありません。

芸術作品に心を奪われるのもよいでしょう。小説でも、映画でも、大好きな作品に出合ったら、これまで当たり前に眺めてきた景色ですら違って見えるもの。擬似体験であっても、新たな「パースペクティヴ」になります。

学問的な「パースペクティヴ」もあります。マルクス的なモノの見方もあれば、ダーウィン的なモノの見方もある。そもそも他人の「メガネ」でも、相性の良し悪しはあるにせよが、利用する価値がある。

22のカードの世界が「囚われた」あなたの自己を「解放」する
「タロット大全」の著者がついに明かしたリーディングスタイル

「大アルカナ」と呼ばれるカードの一枚一枚が、人生のさまざまな局面を眺めるための「パースペクティヴ」なのだそうです。タロットも、読み書きの手段なんですね…

「死」を通して「生」を眺める

先日、ボンヤリとNHKBS1を見ていたら、養老孟司さんが、こう、おっしゃっていました。

親が死ぬと自分が変わる
自分が変わったあとに何を考えるかは
今の自分は気がつかない
そのくらいの事件

養老さんは、5歳の誕生日前にお父様を亡くされているそうです。それが人生最初の記憶であり、言うなれば、人生が死から始まっている。だから、死から逆算して人生を思うことが日常化しているとのこと。ご専門の解剖学もその一環…

何か、そこにすべてがあるような気がしました。

読むことは書くこと 
現実や世界がわかることは自分がわかること 
わかることは変わること 
変わることは生きること 

すべてが連動しています。そうした連動性に身をまかせないことが、「バラバラ問題」の原因です。私の場合は…

マイペースでいきたい… マイペースを乱されたくない…
今、取り組んでいることだけに集中していたい…
自分にとって大切なことだけに集中していたい…

つまり、変わりたくなかったんですね。積極的に自分を変える勇気がなかった。自分が思いもよらぬ方向へ変わっていくことを、受け入れる余裕がなかったのかもしれません。

養老さん曰く、以前の自分が死んで、新たな自分が生まれる。それは一時、自分を不安定にする。それでも、自分が変わることが「希望」なのだそうです。

身近な人が亡くなったときに気づく「囚われ」の大きさに比べれば、「三角ロジック」でグルグルなんて、小さい、小さい… そう感じました。

参考 
中井浩一(2009)『正しく読み、深く考える 日本語論理トレーニング』 講談社現代新書1981

伊泉龍一・ジューン澁澤著(2009)『リーディング・ザ・タロット:大アルカナの実践とマルセイユ・タロットのイコノグラフィ―』駒草出版


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