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風待ちの瓢箪

 東京駅の九番線から特急で二時間四十分、伊豆急行線に乗り入れた終着の下田は半島の先端、石廊崎にもほど近く、夏は海水浴客で賑わう港町で、人口は二万人という街である。旅の目的でもあるその店は、下田の駅から県道を車で十分ほど行った所にある海沿いの割烹料理屋で、十四、五人も座れば埋まってしまう小さな店である。かつては三島由紀夫が足繫く通ったことでも知られて、今も各界の著名人がお忍びで訪れ、店内には三島がしたためた色紙と並んで、芸能人の来店を告げる数多くの写真が飾られている。名物は伊勢海老の鬼殻焼きと金目の煮付けで、どちらも特製の甘辛いたれでじっくりと火を通した海産の珍味。天候次第で水揚げが無ければ口にすることが出来ない奇遇の逸品を求めて、三島だけでなく、都内や関西からも、遠来の客が途絶えること無く、看板の二品の他、港を眼前に望む立地なればこそ、アワビやサザエ、カサゴといった海の幸が食通の舌を悦ばせて、酒は下田の「黎明」で迎えてくれる店が、名店「辻」である。

 その日も、生憎あいにくの雨模様にも関わらず、地元の常連客に混じって、東京からと思しき観光客のグループが、お目当ての金目を突きながら相好そうごうを崩して歓声を上げていた。女将が、今日の収穫だと言って見せてくれた活きの良い伊勢海老が、ざるの上で踊り、先に平らげておいた煮付けの煮汁は、白飯にかけて食べるものだと教えてくれる。食べて呑んで、会計は東京の三分の一にもならないだろうか、鮮度を加味すれば、三島と言わず、足代をかけてでも訪れたくなる海の味覚が、その目立たない小さな店では供される。

 すっかり海老と金目、「黎明」の吟醸で満たされて、海沿いの県道を駅の方へと、そぞろ歩いて戻るうち、下田の街中に一軒の寺があって、名を「宝福寺」と言う。幕末には一時、下田奉行所が置かれたこともあるその古刹こさつに、かつて二人の英雄が邂逅かいこうした。一八六三年、江戸から船で京へと向かった土佐藩主、山内容堂は、折からの嵐を避けて、下田へと船を寄せ、順風を待つ為に、その宝福寺を御座所と定める。奇しくもそこへ、土佐を脱藩した坂本龍馬を門人に持つ勝海舟が、やはり西国から江戸へ帰る途次、下田に寄って荒天をやり過ごす。容堂が下田にいると聞いた海舟は、あたかもも良し、龍馬赦免の好機と、単身、容堂との面会を願い出る。当時、海舟は幕府の軍艦奉行並、酒豪として知られた容堂は、突然訪ねて来た下戸の海舟になみなみと注いだ杯をつかわして、これを呑み干したならば龍馬を許すと戯れに投げかけ、これを受けた海舟は何とか杯を空ける。武士に二言無し、かつての藩主は、自分の元を去った一介の浪人、龍馬を赦免する。

 それでも容堂は酔っている。覚めて約束を反故にされては堪らぬと、海舟は容堂に一筆を求め、応える容堂には紙が無い。そこで手近な白扇に描いた赦免の証が、堂々たる瓢箪ひょうたんの絵と「歳酔三六〇回」の文字。自らをして「鯨海酔候げいかいすいこう」を名乗った酒呑みの容堂らしく、三六〇、すなわち一年中吞んでいるのだから、酔態が我が常態で、その常態で誓った約束なのだから違わない、というほどのいである。龍馬と海舟と容堂と、いずれも幕末の日本に咲いた一代の英雄が、その日、たまたま襲った嵐の為に下田へと集った。龍馬赦免の逸話は、扇に描かれた瓢箪ひょうたんの絵に因み、「風待ちの瓢箪ひょうたん」として今も、下田の古寺に語り継がれている。

 帰途、なお雨の降りしきる下田の駅を発した車両は、「サフィール踊り子」と言って、海を望む大きな窓と、ゆとりのある座席、またコンパートメントに食堂車を備えた人気の観光特急で、頼めば座席まで飲み物を運んでくれるサービスもある。東伊豆の海岸に荒々しく打ち寄せる波を眺めながら、クラフトビールを口に含み、宝福寺で土産に買った瓢箪ひょうたん柄の扇を窓に一寸かざしてみる。気分は鯨海酔候げいかいすいこう。一時は幕末の四賢候の一人に数えられた容堂も、明治になってみれば、かつての家臣筋だった下級志士たちが新政府の舵取りを担い、官位こそ正二位の高みまで引き上げられたものの、名ばかりの閑職に追われ、実権は無く、不遇をかこち、憤懣ふんまんやるかたなくして、芸妓と酒に身を任せる日々を送ったと言われている。うそぶいて曰く「大名で破産した者などいない」。それは、同じく政治の主流から外された薩摩の島津久光が、ふてくされて打ち上げた花火のように、一つの時代の終わりと、役者の交代を告げる非情な宿命だったと言えるだろう。「歳酔三六〇回」と大書された扇であおぎながら、容堂よろしく酒杯を重ねている内に、やがて列車はランドマークタワーの灯が雲間に霞む横浜の市街地を走っていた。ここから新橋まで、我が国初の鉄道が敷かれた歴史ある路線を、真新しいサフィール踊り子の車体が駆け抜ける。当時、横浜から新橋まで、蒸気機関車で一時間。今、踊り子号は横浜から東京を三十分足らずで結んでいる。

 一八七二年七月二十六日、鉄道開業から僅か二ヶ月の後に、容堂はこの世を去っている。テレビや小説などのメディアが描く容堂の姿は、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」を体現する掴みどころの無い老獪ろうかいな策士といったところだけれど、長年の飲酒が祟って脳溢血を発症し、天寿を全うしたのが、実はまだ四十四という若さであった。歴史に if は禁じ手とは言え、仮に薩長土肥の足軽上がりなどではなく、四賢候を始めとする有力諸侯が主導する公儀政体論が緩やかに実現していたとしたら、百年の禍根かこんを遺すことになる戊辰の内乱など起こらなかったのかも知れない。会津の悲劇は避けられたのかも知れない。その時、この国は、明治という時代は、どのような景色になっていただろうか。

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