東京駅の九番線から特急で二時間四十分、伊豆急行線に乗り入れた終着の下田は半島の先端、石廊崎にもほど近く、夏は海水浴客で賑わう港町で、人口は二万人という街である。旅の目的でもあるその店は、下田の駅から県道を車で十分ほど行った所にある海沿いの割烹料理屋で、十四、五人も座れば埋まってしまう小さな店である。かつては三島由紀夫が足繫く通ったことでも知られて、今も各界の著名人がお忍びで訪れ、店内には三島がしたためた色紙と並んで、芸能人の来店を告げる数多くの写真が飾られている。名物は伊勢
東海道線に岐阜の駅があるからと言って、昔の街道であった東海道に岐阜の宿場があったことにはならなくて、実際の東海道は、名古屋で西に折れて桑名を渡り、甲賀の国から京へ抜ける。それで、岐阜の宿場はどうなったかと言えば、岐阜の街を通っているのは中山道で、宿場の名前も「加納」だった。だから、我々の知っている岐阜というのは、城のことで、東海道の宿場に岐阜は無い。ややこしいついでに、城の名前も、元々は「稲葉山城」と言って、まむしと呼ばれた戦国大名、齋藤氏の居城であったものを、織田信長が攻
芸術が芸術である理由は、ただ美しいからではなくて、常に美しく、また、意思を持たないが故に、つまりは、作品と鑑賞者との間に恣意的な関係性が存在しないが故に、安心して鑑賞することが出来るからで、その対象が、絵画であれ、音楽であれ、また文章であれ、それら普遍(不変)の価値を宿すものであるならば、芸術は芸術足り得るということを、初めに断っておかなければならない。だから、ダヴィンチが描いたから芸術なのでも、ベートーヴェンが弾いたから芸術なのでも、漱石が書いたから芸術なのでもなくて、そ
それが日用品でも、稀少品でも、道具には何某かの物語が付きまとうものだから「モノ語り」という言葉が生まれ、モノを媒介とした造り手と使い手の双方が物語を持つことになり、その造り手という造物主からモノは此の世界を生きる魂を注ぎ込まれ、故意なのか、偶然なのか、たった一人の使い手の持つところとなって、ここからは使い手の数だけ、また新しい物語が始まることになる。だから、そのモノが、世に出た時代が古ければ古いほど、物語はまた面白くも、複雑にもなる訳で、例えば此処に、一冊の小さな手帳がある
語学熱というのは、国際的にも、歴史的にも、日本のお国柄になっているようで、遣隋使の頃から先進国の知識を吸収しようという旺盛な好奇心が働いて、それはもちろん、後進国である劣等感の裏返しになるのだけれども、一時期、表向きは鎖国をしている間でさえも、幕府はしっかりとオランダを通じて海外事情を仕入れることに余念無く、アメリカの黒船艦隊が向かっていることも、予め察知していたというのだから、浦賀沖に現れて腰を抜かしたというのは芝居である。もっとも、そんな昔話を持ち出すまでもなく、今、外
読書家が必ずしも蔵書家ではないように、蔵書家もまた読書家であるとは限らなくて、要は一冊の本とじっくり向き合うか、ただ積んでおく(並べておく)だけかという話で、一体、ヒトは生涯で何冊の本を読めるのだろうか。前に、此の国では年間七万点の新刊が発行されると書いたことがあったけれども、日に直せば、実に二百点近い本が書店に届けられる訳で、無論、中には稀覯本や専門書も含まれているはずだから、その全てが全て、街の小さな書店にまで配本されることにはならなくて、いずれにせよ、相当な量の本、活
福島には三つの土地があって、太平洋に面した「浜通り」と、かつては奥州街道が貫き、今は新幹線や高速道路が貫く東北の大動脈であるところの「中通り」、そして磐梯山の麓に広がる盆地が「会津」である。会津までの道程がとりわけ長く、また遠く感じられるのは、ひとえに磐越西線の走りに拠っていて、東京から郡山までの二百キロを俊足に一時間強で結ぶ新幹線と、郡山から若松までの四十キロ足らずを同じく一時間強で繋ぐ磐越線を、単純に構造上比べることは出来ないけれど、それでも、猪苗代湖を大きく迂回して、
仕事もせずに毎日のんびり暮らしてみたい、というのは万人の理想を集約した常套句のように使われている言葉ではあるけれども、稀に仕事が好きでたまらなくて休日を返上してでも働いているような向きもいれば、なかなか上手い仕事が見つからずに尋ね歩いている向きもいる訳で、誰にでも当てはまる謂いではなく、これは経験から言えることだけれども、自分の適性だとか相性に合った仕事に就くことが出来たならば、言われるほどに仕事も苦にならなくて、それなりに満たされた日々を過ごすことが出来るものである。だか
現代は、とりわけ「速さ」という概念が尊ばれている時代であって、一分二分の時間短縮の為に途方もない設備投資を行っている交通機関はもとより、情報通信然り、物流業然り、一体、明け方に頼んだ荷物を日没までに必要としなければならない向きがどれほどいるというのだろうか。多様化したメディアは不眠不休で速報を配信し、地球の裏側で起きた出来事がリアルタイムで携帯に通知される時代に、輪転機で印刷し、人力で配達される紙媒体の新聞など、今やどこか牧歌的な趣きすら感じられて、電報は既に過去の遺物とな
朝、目が覚めてカーテンを開け放った時、仮に厚く垂れこめる曇天から雨粒が落ちて来るような日であったなら、きっと明るい気持ちになれる向きは少なくて、大方は雨具の用意だとか、洗濯物の心配だとか、あるいはその日の予定が思惑通りにならない、つまりは諸々の実際的な障害にばかり意識は囚われて、生産的な活力は減退し、色覚に起因する本能的な不快感がまた鬱なる気持ちを増幅させて、確かに天気予報を見ても、翌日が雨であるような日の気象予報士は、いかにも残念といったような口振りで予報をするのが常であ
此の国から春と秋が消えて無くなり、桜が咲いたかと思えばたちまち夏日になって、秋の日の釣瓶落としを感じる間も無く木枯らしの冷たい風が吹き始める。だから空調という人工の機械に頼らずとも心地良く過ごすことが出来る季節は短く、あるいは無くなってしまったという話で、専門家ではないから、それが温暖化に原因があるのか、地磁気のせいであるのか、からくりは判らないけれども、四季折々の緩やかな移ろいを感じにくくなったことだけは確かである。だから、春風に誘われて花を愛でるとか、晩秋の渓谷に紅葉を
トンネルを抜けても、そこは雪国ではなくて、若葉薫る緑の田園だった。新潟の街に城は無い。初めにそのことは言っておかなければならなくて、大概の向きは県庁のある街には城があるものだと思っているから、新潟の街を見渡しても天守閣など見当たらなくて、きっと戦争で焼け落ちたのだと考えたところで無理はない。もっとも、城の無い県庁所在地というのは他に幾らもあって、例えば長野は善光寺のお膝下で賑わった門前町で、神戸は言うまでもなく平清盛が開いた港町である。だから、新潟に城が無くても驚くことはな
誰の言葉か知らないけれど、人生は旅路である、とは良く言ったもので、もちろんそれは、今や百年時代を迎えつつあるヒトの生涯を、山あり谷あり、酸いも甘いも、旅路に譬えた比喩に過ぎなくて、ただ、よくよく考えてみれば、人生とは本当に旅、旅「のようなもの」、ではなく、旅「そのもの」なのかも知れなくて、それは、旅に出ている間だけが、本当の自分に戻ることが出来るからである。二十四時間という天地万物へ平等に与えられた一日の中で、個として、自分として生きることが出来るのは、一体どのくらいの時間
文学というのは、何も小説に限った話ではなくて、随筆でも、論文でも、新聞でも、文学になり得るということは前に書いたことだけれど、要は、言葉を使った芸術が、文学のことである。その、芸術という用語が出たついでに、こちらも定義しておくと、文学を小説に限るかのように勘違いしている向きが多いように、芸術とは美しさであると勘違いしている向きもまた多くて、芸術とは、単に美しいから芸術なのではなくて、常に美しい(普遍)から芸術なのであり、さらに言えば、意思を持たない(無我)ところに芸術の価値
鉄道の旅が、目的地までの到着時刻ばかり気にするようになって、鉄道会社の方でも、ダイヤ改正では何分短縮とか、何本増発とか、ただ、どれだけ速く何人運べるか、という点にばかり気を取られて、快適さやデザインは二の次になり、リクライニング・シートが何度傾くくらいの小さな話が大きく宣伝されている。それでも、沿線に観光地を抱えるような路線は、それなりに優等列車を走らせて、目新しさを競っているようだけれど、それはあくまで特別な日に乗る為の車両であって、日常の移動が貨物のような箱の中にぎゅう
船舶が旅の手段ではなくなり、金持ちの道楽になったのは、歴史を紐解くまでも無く航空産業が発達したからで、今、あえて船を使って目的地まで行こうというのは、離れ小島に住んでいる向きか、あるいはまた自動車を運ぶ為のフェリーくらいなもので、欧州航路だとか、大西洋航路だとかいう言葉はすっかり過去のものとなっている。戦前は、欧州まで出掛けることを「洋行」と言って、それは別に船旅に特化した言葉ではないけれども、当時の旅の手段が、ほとんど船を使うものだったのだから(シベリア鉄道に乗るという方