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会津路

 福島には三つの土地があって、太平洋に面した「浜通り」と、かつては奥州街道が貫き、今は新幹線や高速道路が貫く東北の大動脈であるところの「中通り」、そして磐梯山の麓に広がる盆地が「会津」である。会津までの道程がとりわけ長く、また遠く感じられるのは、ひとえに磐越西線の走りに拠っていて、東京から郡山までの二百キロを俊足に一時間強で結ぶ新幹線と、郡山から若松までの四十キロ足らずを同じく一時間強で繋ぐ磐越線を、単純に構造上比べることは出来ないけれど、それでも、猪苗代湖を大きく迂回して、磐梯の峠道を慎重にくねくねと蛇行しながら走る磐越線の姿は、やはりどこかのんびりとしていて、早朝の出発であったことを差し引いても、若松に着く頃には眠くなる。日橋にっぱし川を渡って、東長原の駅に着くと、ようやく視界は平たい会津盆地を望むところまで来て、遅い田植えの続く景色と盆地を取り巻く山の稜線に眼を奪われている内に、たった二両の磐越線は、まもなく終点の若松駅へと到着する。破風を模した三角屋根の駅舎から見上げた陽は高く、よく晴れた春の会津は青かった。

 会津が、此の国のヒトの記憶に刻まれているのは、もちろん、その山紫水明、恵まれた自然であったり、酒処としての芳名であったり、ただ少し歴史を知る向きであれば、戊辰の雄姿へと想いは飛躍するはずで、実際、会津は街全体が史跡である。戊辰の戦いというのは、明治初年、江戸城を労せずして手に入れた新政府軍が、更なる戦果を求めて東北諸藩を挑発し、彼らが綴った恭順の嘆願を握り潰して「奥羽皆敵」の偽報を参謀に送って開始した戦いであり、ほんの一年前まで、官軍の立場で長州ら賊の退治に精励していた生真面目な藩主、松平容保かたもりが、今度は朝敵となった幕府への忠義が仇となり、一転して賊軍の汚名を負わされたもので、会津盆地における局地戦はまた、別称「会津戦争」とも呼び習わされている。

 空襲の無かった会津若松の市中には、今も江戸時代の面影を残す遺構が散在していて、会津軍の本陣が置かれた滝沢の旧家には、薩長が発砲した銃弾の痕や刀傷が、至る所に刻み付けられ、戦火の激しさを生々しく物語っているのだけれど、白虎隊が自刃した飯盛山や、不思議な造りのさざえ堂といった旧跡から、ほんの数分の場所に位置しながら、滝沢本陣を訪れる向きは珍しくて、受付もまた無く、ただぽつんと古い券売機だけが置かれていた。小鳥のさえずりが耳に心地良い座敷から庭先を眺めていると、あまりにも穏やかな気配に、ここが本当に激戦地であったのか、悲壮感をみなぎらせた白虎の少年兵が藩主に送り出された地であったのか、俄かには信じ難く、展示されるともなく無造作に置かれた当時の食器や文書には、百年の塵が積もって埃色に褪せていた。

 明治元年八月二十一日、会津盆地に至る道筋の中でも、とりわけ難所とされる母成ぼなり峠を突破した新政府の軍兵は、勢いをかって一気に城下へとなだれ込み、四方の前線へと配置された会津の部隊が戻らぬ内に、たちまち鶴ヶ城を取り囲み、英国から調達した新式のアームストロング砲を雨あられと打ち込んで、五層の天守を穴だらけにした後、二十三万石の太守、容保かたもりが、土佐の三百石取りだった新政府軍参謀、板垣退助に降伏を上表したことで、一カ月に及ぶ籠城戦は終わりを告げる。既に伊達家の仙台は落ち、上杉家も寝返って、会津が降った二日後には、残る庄内の酒井家が軍門に下って、旧幕の遺風を守らんと起った奥州の戦闘は終息を迎える。会津に限って言えば、幕府と藩に忠義を貫いた、そして謀略の為に朝敵となった勤皇の士、三千の生命が失われ、新政府は追い討ちをかけるように、戦死した会津兵の埋葬を許さず、骨となるまで遺骸を野晒しにしたとも言われている。

 東北のヒトは口下手が多いとは誰の言葉であるのか、少なくともその日、若松の駅から乗った車の運転手氏にしても、昼食に選んだ割烹の仲居氏にしても、また酒蔵見学で訪れた蔵元のスタッフにしても、一を尋ねれば十になって返すほどの多弁能弁、説明上手の向きばかりで、お蔭様でガイドを頼むことなく、会津の風土と歴史には詳しくなったという話で、とりわけ、戊辰にまつわる昔語りを始めると止まらなくて、目的地である鶴ヶ城の追手門に着いてなお、これだけは聞いて帰ってくれと、生き延びた首席家老、西郷頼母たのもの後日談を話し聞かせる運転手氏の熱い語り口には驚いた。事ほど左様に、会津市民の郷土愛は固く、強いもので、翻ってそれは、逆賊に貶められた口惜しさの反動でもあり、勤皇の正統、佐幕の本流を自負する、道理を貫いた者たちの矜持ということになるのだろう。

 そういう会津人の想いに影響された訳ではないけれども、間違いの無い事実として記憶されなければならないのは、薩長の拠り所とする「官軍」の美名も、その実、無官の下級公家だった岩倉具視が捏造した倒幕の偽勅に過ぎず、また高々と掲げられた「錦の御旗」とても、やはり岩倉の腹心、玉松みさおが朝議に諮ることなく勝手に工作した布切れであることに、誰も疑義を差し挟むことの無いまま、国の正史の影の一面として看過され、学校で教えられることもない。明治も後年になって、既に政府の重鎮となっていた薩摩の大久保利通は、過去のヒトとして忘れられかけていた容保かたもりが、今なお、京都守護職として忠勤に励んだことに対する孝明帝の感状(御宸翰ごしんかん)を肌身離さず持ち歩いていると聞き、蒼白になって恐懼きょうくしたと言われている。それは、薩長による政権が「官軍」であることを根底から揺るがす、会津藩こそが帝のお墨付きを得た「官軍」であったことを示す、不動の物証であるからに他ならない。

 会津を旅して、一ケ所どうしても立ち入ることの出来なかった場所がある。鶴ヶ城の南東、東山の谷合に位置する「院内御廟いんないごびょう」と呼ばれる史跡で、ここには会津藩主累代の墓が鎮座しており、その最も高み、山奥と言って良い深い森の中に、第九代、容保かたもりの墓はあって、彼は明治五年に罪を許され、神式の作法で此の地に埋葬されている。実は東山一帯は、熊が生息する会津地方の山間部でも、とりわけ出没事例が後を絶たず、冬眠から覚める春先は、連日のように報道を賑わし、実際、訪れた日の前週にも、付近を徘徊する個体が駆除されたばかりだと言う。西郷頼母たのもの家老屋敷を再現したという施設の受付に尋ねても、決して勧められない、自己責任で、と言われるような場所で、宅地の外れ、ちょうど御廟を案内する掲示の近くには、録音した鈴の音を流して熊を威嚇する為の車両が停められていた。結局、その日はやむなく、霊域の入口まで行って引き返すことにしたけれども、それはあたかも、波乱の生涯を閉じて、今は静かに眠る容保かたもりら会津の殿様たちを、熊が墓守の如く守っているようでもあった。

 今でも会津では、「維新」という言葉を嫌い、あの年の出来事をただ「戊辰」と呼んでいる。

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