詩のススメ
文学というのは、何も小説に限った話ではなくて、随筆でも、論文でも、新聞でも、文学になり得るということは前に書いたことだけれど、要は、言葉を使った芸術が、文学のことである。その、芸術という用語が出たついでに、こちらも定義しておくと、文学を小説に限るかのように勘違いしている向きが多いように、芸術とは美しさであると勘違いしている向きもまた多くて、芸術とは、単に美しいから芸術なのではなくて、常に美しい(普遍)から芸術なのであり、さらに言えば、意思を持たない(無我)ところに芸術の価値はある。敢えて補足するならば、その日その時の気分次第で移ろいやすい、当てにならないヒトとは違って、芸術というものは、いつ見ても、誰が見ても、美しく、ある日は色を変えて怒りを表し、ある日は涙を流して悲しむようなことも無い、常に中性中立に鑑賞者に接し、だから、こちらとしても、心を開いて観ることが出来る、裏切られることが無い、それが芸術というもので、およそ感情的で恣意的なヒトの対極に位置するからこそ、芸術には値打ちが生まれ、鑑賞者を慰めてくれる、そういう仕組みになっている。
脱線ついでに、絵画の話をすると、普遍であり、また無我であることが芸術の定義であるとするならば、肖像画というジャンルもあって、これはヒトにスポットライトを当てた作品であるから、仮にその被写体たるヒトに好感を抱いている、あるいは悪意を持っている向きが、その肖像画を鑑賞して、果たして純粋に芸術として評価することが出来るかという話で、きっとそのヒトに向けられた感情に引っ張られて、バイアスがかかるに違いなく、そうすると、初めに言った、普遍であり、また無我であるところの芸術たる要件を満たすことが出来るのか、怪しくなって来る。同じように、ここからやっと本題に入る訳だけれど、文学の世界に眼を戻せば、文学の全てが小説であるかのように勘違いされている、その小説というジャンルは、どうしても登場人物がいる訳であって、彼ないし彼女たちを中心に物語を展開させる、これもまた肖像画と同じように、その登場人物に実在の人物を充てて考える、好意的であったり、悪意があったり、それで果たして、文学の芸術性を判断するところの指標である、文体の美しさや音韻の結構など、それら文字や文字の集合たる文章そのものの属性に対して、登場人物の個性に引っ張られずに、バイアスをかけられずに、鑑賞し得るかという話で、声高に男尊女卑を叫ぶ主人公の描写に、女性読者は正当な芸術的評価を下せるか、狂信的なフェミニストである主人公の描写に、男性読者は公正な文学的評価が出来るか、ということである。
これは私見になるけれども(これまでも十分に私見だけれど)、絵画の世界では、肖像画を好まず、風景画や静物画を好んで、文学の世界では、なるべく人物が表に現れない、ヒトの描写の少ない作品を選んで読むことにしていて、古い作品ではあるけれども、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』などは、半ばギッシング自身を投影したライクロフト氏の独白に一貫して、英国の牧歌的な自然の描写や哲学的思索の多い作品でもあるから、古き良き時代背景も手伝って、心穏やかに読むことが出来る名作の一つである。他にも、ソローの『森の生活』であるとか、ヒトという生き物の醜い部分、虚栄であったり、打算であったり、ひと言で述べるならば、愛憎劇でない作品は、文学全体から見れば稀少種で、あたかも小説とはヒトを描くものであると言わんばかりの筆致には同調しかねて、とりわけ、我が国では、私小説などという作家の不幸自慢、不健康談義のような風潮が近代文学史の一時代を築いて、読めば読むほど暗い気持ちにさせられる。それは、詩歌に始まる西洋文学の連綿とした文化的背景を認識しないまま、その末流に位置する一個の作品(たまたま小説だった)を文学として輸入してしまったが故に引き起こされた必然の帰結であって、詰まるところ、文学とは何なのか定義すら曖昧なまま、手探りで、当座の身の上話(私小説)に終始した、というのが戦前文壇の実相であり、挙句、貧しさを恨んで、本来美しくあるべき文学の世界に、ささくれ立った階級闘争を持ち込み、プロレタリア文学などという異形のルポルタージュを描き出して、溜飲を下げるに至っては、沙汰の限りと言わざるを得ない。蒲団に顔を埋めて女弟子の残り香を嗅いで泣き出したり、過酷な遠洋漁業の労働環境など延々と読まされて、悦びを感じる方がどうかしている。
では、文学に絶望しなければならないかと言うと、もちろんそんな事は無くて、論文や新聞のようなドキュメンタリーではなく、文体や音韻を純粋に愉しむ為のもので、且つヒトを描くことなく作品が成立するジャンルというものもあって、それがすなわち詩のことである。もちろん、詩にだってヒトは登場するのであって、むしろヒト抜きには語れない、とりわけ、影も形も無い、愛などという不可解な現象をテーマにした詩などは、むしろ詩の主流を成すものであることは承知しているけれども、それでも、ただ美しい風景を詠む、過去を懐かしむ、つまりは無生物を題材とした詩も多いのであって、そういう詩には、感情や意思を宿したヒトが登場しないのだから、鑑賞者の方でも、対象の不確実性に振り回されずに、擬人化して余計なバイアスをかけずに読めるもので、例えばヘッセが美しい景色を詠んだ詩などは、そうやって安心して鑑賞出来る作品の代表である。
不思議と詩は人気が無いようで、文学の教科書でも、小説の次に、おまけ程度に記載されているくらいで、ただ、そうした傾向は、我が国特有の現象であることを知っておかなければならなくて、そもそも西洋の文学史を紐解けば、詩は小説に先んじて、近代以前は、文学と言えば詩を指していた。実際、「小説」(novel)という用語は、ラテン語の「新しい」(novus)から来ていて、小説の始まりとされるデフォーの『ロビンソン・クルーソー』などは十八世紀の作品で、詩、すなわち文学の嚆矢である『ベーオウルフ』が八世紀には書かれている事実に比べれば、小説など、たかだか三百年くらいの歴史しか無い「新しい」文学なのである。ただ、我が国では、明治になって、西洋から、蒸気機関車だとか、牛鍋だとかと一緒に文学を輸入した時、たまたま小説から読み始めたものだから、小説が文学の代名詞になり、後から入って来た詩が、小説に比べて文字数が少なく、行間もやたらと空いて、頼りなく見えたのかどうか知らないけれど、すっかり西洋文壇における歴史や立場とは逆転して、小説の後塵を拝し、おまけに甘んじることになったという訳である。
だから、そういう我が国特有の経緯は脇へ置いて、これから文学を本格的に始めようという向きは、詩を不人気なジャンルと決め付けずに(教科書でもしっかりと採り上げて頂いて)、気分屋で信用ならないヒトなどの登場しない、普遍にして意思を持たない自然や、動植物を描いた詩に触れてみるべきで、この殺伐とした世の中に、中性中立に美しく紡がれた詩の調べは、きっと福音となって響き、読み手の心を打つに違いない。但し、これも前に書いたことだけれども、仮に外国語の詩に親しむ時は、翻訳されたものではなく、あくまで原語で、詩人自らの言葉を鑑賞するものであって、読み手の国の言葉に置き換えられた詩は、既に詩人の言葉を失い、訳者による独立した作品になっている。
一日の仕事を終え、後は床に就くばかりとなった夜更け、気持ち落とした照明の下で読む詩は、その暖かな色合いと、ざらついた古い詩集の紙質も手伝って、どこか懐かしく、心和ませる趣があり、自然とその日一日を無事に過ごすことの出来た感謝の気持ちを芽生えさせるもので、やはり詩には不思議な救済の力がある。その魅力に気が付くことが出来たなら、その詩に宿された滋味は、きっと現実世界で負った傷を、優しく癒してくれるはずである。
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