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美濃路

 東海道線に岐阜の駅があるからと言って、昔の街道であった東海道に岐阜の宿場があったことにはならなくて、実際の東海道は、名古屋で西に折れて桑名を渡り、甲賀の国から京へ抜ける。それで、岐阜の宿場はどうなったかと言えば、岐阜の街を通っているのは中山道で、宿場の名前も「加納かのう」だった。だから、我々の知っている岐阜というのは、城のことで、東海道の宿場に岐阜は無い。ややこしいついでに、城の名前も、元々は「稲葉山城」と言って、まむしと呼ばれた戦国大名、齋藤氏の居城であったものを、織田信長が攻め取って、中国の故事に倣い、「岐阜城」と改め、城のあった山が金華山きんかざんと呼ばれていたものだから、「金華山城」の雅称もある。結局、堅城の誉れ高い岐阜城も、関ヶ原の戦いで、城主だった三法師改め織田秀信が西軍に付いたばかりに焼け落ちて、新しく宿場の近くに「加納城」が建てられて近代に至るのが、岐阜の城の歴史になる。だから、今、金華山の上に建っているのは、昭和に入って再建された鉄筋コンクリートのレプリカで、レプリカと言っても、参考にしたのは加納城の櫓と言われているから、戦国時代の岐阜城とは似ても似つかぬ姿である。何でも、話を丁寧に説明すると、まどろこしくなるもので、その紆余曲折のある岐阜の街へ出掛けてみることにして、東京から新幹線(のぞみ)で三つ目の駅が名古屋である。もっとも、岐阜には「岐阜羽島」という駅もあるのだけれど、ご存知の通り、岐阜の街からは遠く離れた羽島にあって、だから岐阜へ行くには名古屋から東海道沿いに造られた訳ではない東海道線に乗り換えなければならなくて、因みに、東海道線が東海道でないように、東海道新幹線は美濃街道に沿って走っている。

 かつては「加納」と呼ばれた岐阜の街から、車で十分ほど北へ向かったところに金華山はあって、山麓には信長時代の武家屋敷の礎石が遺されて、今も発掘作業に余念は無く、驚いたことには、復元図に描かれた当時の屋敷は、後年の安土城を髣髴とさせる典雅なもので、建屋同士を橋で結んだ、およそ中世の建築とは思われないような、凝った造りであったことで、信長は、そのセンスと技術をどこから学んだものか、まだ南蛮人との接点は無かったはずで、それが天性であったとするならば、やはり不世出の英傑であったことは疑い無い。発掘現場に隣接する乗り場からロープウェイで登った金華山の山頂、加納城の櫓を再現したと言う岐阜城の佇まいは、周囲を睥睨へいげいする趣きすらあって、織田家の家紋、木瓜もっこうの鮮やかな黄色い旗が風にたなびき、最上階からの眺めは、四方に遮るもの無く、信長ならずとも、天下を取った気にさせてくれる絶景で、眼下の長良川沿いに広がる濃尾の台地が、どこまでも豊かに伸びてゆく。この岐阜に築城した頃から、信長は「天下布武」の印章を使い始めたというのは、教科書の教えるところで、ただそれは、尾張に加えて、美濃を版図に収めたからという平面的な動機によるものではなく、実は金華山の山頂から眺めたパノラマ、その雄大と広壮、立体的な景観から、彼の心の中に野望の兆しが芽生えたのかも知れない。

 長良川と言えば鮎である。きっと信長だけでなく、秀吉も、あるいは家康もまた口にしたであろう川魚の絶佳を味わう為に、山を下りて一しきり歩いた先に、古い町家の一角が今も往時の風情を良く伝えていて、岐阜の川原町と言ったら、襟を正す由緒ある街である。その川原町に、旨い鮎を出す店は幾らもあって、中でも「泉屋」は、専門店として塩焼きだけでなく、うるか焼きに天ぷら、唐揚げ、れ鮨と、鮎好きにはこたえられない鮎尽くしが愉しめる店で、店主の他、スタッフ一同、「鮎」の文字が大書された服を着て、気分を否でも盛り上げてくれる。酒は「三千盛みちざかり」、岐阜は多治見の大吟醸で、産地の肴には産地の酒が一番という当たり前の習いである。帰途、岐阜の駅前に酒蔵を構える日本泉酒造に立ち寄って小瓶を買い込み、呑みながら新幹線で過ごすというのは、この頃の旅のお決まりで、東海道はグランクラスこそ無いものの、グリーン車を三両も繋いでいるから席にも余裕があって、これは経験上、隣の席には誰も座らないと判っているから、少し奮発してでも、実は店で呑むことを思えば、安く上がる勘定で、ひと瓶空ける頃には、静岡辺りを走っている。関東人のさがなのか、丹那トンネルを抜けて、あるいは、昔流に、箱根の関を越えて、小田原を通過するアナウンスで、ようやく帰って来たという心地がする。岐阜を見たのだから、次は少し足を延ばして、安土まで行ってみようか。名古屋で のぞみ から ひかり に乗り換えて、米原からは琵琶湖線。安土は小さな駅である。そんな想いを巡らせながら、ふと、座席の前に差し挟まれた車内誌のコピーに眼が止まる。

 この旅の終わりは、次の旅のはじまり。

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