ボディビルとは究極の肉体の容姿を追い求める競技である。競技者の生死は問われないことが理想ではないか?

清水さんの件を観ると、ボディビルを哲学的な捉え方で考えさせられます。オリンピアチャンピオンの大会当日は見た目こそ筋骨隆々で皮一枚乗っかっただけのようなコンディションですが、気を抜いたら倒れてしまうようなギリギリの健康状態です。筋肉のために健康を捧げている。それならば、ボディビルは心臓が動いていることにこだわらなくてもいいのではないかという意見もあって不思議ではないです。コンテスト後に心臓が動いていれば次回のコンテスト出場機会もありましょうが、その次回の挑戦だって生きて帰ることに執着すれば、己の限界まで挑んだことにならないのですから、ボディビルにおける究極の作品を作り上げるミッションから逃避しているにすぎないのです。平たく言うと、究極のボディビルダーとは、今回のコンテストの終了と人生の終了を一致させることであり、最大の筋肉と最小の脂肪を携えた遺体を、まばゆいスポットライトが光るステージ上に置くことなのです。その姿を見た観客や審判はかつてない深い感動に包まれることでしょう。

故人にチャンピオンの栄誉が送られる事例はモータースポーツの最高峰F1で過去に一度あり、オーストリア出身のリント選手がシーズン中に事故死したものの、シーズン終了時にリント選手のポイントを上回る選手が現れなかったため、彼は心臓が止まり、土の中に安置された状態でチャンピオンになりました。スポーツに限らない例でいえば、戦争で亡くなった兵士が死後に2階級特進を受け、遺族へ栄誉を送るのも似ていると言えます。



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