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【短編】アンティークになったら

1

そのカフェがとにかく好きになったのは、飲んだ事もないほどの深煎りのコーヒーと、オーナーさんや店員の気さくさが、僕の居心地を良くさせたからだ。
本当に毎日のように通っては、そこでコーヒーを飲み読書をしていた。このお店を知った当時は、とにかく観光客で溢れ、何度も来店を諦めたものだが、今はその観光客は消え、比較的入りやすくなっている。しかし、そのためか、本当に美味しいコーヒーを求めて、あるいは素敵なカフェを求める人がやってくる。なんというか、客の質が高いのである。そんな人たちの会話は、ちょっぴり面白い。たまに、「あ、それ言えてる」と思うようなことがあるのだ。でも、返す言葉が出てこないような深い会話や、言葉を発するには少しこの店は小さすぎるかもしれない。人目を憚る限りはそういう話はできないだろう。けれども、読書を通しての会話であれば、むしろ好都合だ。会話の相手は大概死んでいるし、声を出す必要がない。

「本当によく勉強して偉いね」とオーナーが僕に話しかけてくれる。
「いや、楽しいんです。会話しているようで…。彼らが友達みたいなものですから。」と、背伸びした僕の言葉。

オーナーは、僕の父より、一つか二つ若いくらいの人だったが、同世代の人と比べるならば間違いなく若々しい人だった。それでいて、品と知性があった。おそらく、後者は生来のものが強いのだが、前者は奥さんの影響が大きい。

同い年のおしどり夫婦、その奥さんという人は、子供にも負けない感受性を持っていて、なにより包容力があった。一人暮らしの僕にとっては、母親のように感じる事もあって、食生活やら睡眠時間の不足やらを心配してくれる人だった。何より子供思い。その人が思い出を語るとき、どんなお話でも楽しそうで、どんなお話でもクスッと笑える品の良さがあり、どんな人をも笑顔にする魅力は隠せない。

そんなふたりのお店が、このカフェであった。店内はアンティークで溢れ、店員さんもこの夫婦に劣らない魅力をもった人たちばかりだった。きっとここで働くことも含めて、お互いに会って話すことだけでも、そんな毎日が好きなのだろうし、幸せなのだろうと思う。
とある僕より若い女の子は、休日もこのカフェに入り浸っているほどだ。
アンティーク物の椅子に腰掛けて、おなじくアンティークの食器を傾け、チーズケーキやコーヒーを口にする姿は、幸せという感情で溢れているように見える。きっと僕も側から見たらそうなのだろう。自覚はある。

「私はあまり勉強しなかったと思うなぁ。すごく感心する。」
と、いつもオーナーは言葉をかけてくれた。いつも優しく響く声には、どこかダンディな雰囲気を僕に汲みとらせる。それを少し掬い取って、ノートにメモをするのが僕の習慣だった。中でも一つ心に残っている言葉がある。

2

当時のことはよく覚えている。わざわざ彼女の留学先まで会いにいったのに、その一ヶ月後に別れた時のこと。(確かそれくらいの季節だった。)
春が来て、ようやく重ねる服の数を減らすくらいの気候になった。賀茂川は、京都を代表する一級河川で、この頃になると、二週間ほど、その水面はピンク色ばかりを反射するようになる。それは鮮やかな光景だ。

清々しさと新しい物事が、世の中を席巻する季節に、僕は過去の「あれこれ」にまみれていた。賀茂川に飛び込んだら、少しくらい清められるのではないだろうか、と冗談も溢した。
ふと水面を見れば、桜色の隙間から、温かい春の陽光を照り返す黄金の点やら、やわらかい糸のような線やらが見えた。そこに触れてみたい、と思って手を伸ばすが、土手を歩く僕には少し遠すぎた。

そういう時、なんの会話だったか覚えていないが、オーナーが僕に言った言葉があった。印象深い言葉だったが、何気ない一言だったに違いない。それは僕の質問から始まった。
僕はこう尋ねた。「鑑識眼ていうのはどうやって養うんですか?アンティークの良さってどこで判別するんでしょう?」と。
そして、この会話は次の一言で途絶えた。
「自分がアンティークになってみたら、わかるよ。」

途絶えたのは当然、会話が終わったからではない。
返す言葉が見つからなかったからである。この会話はしばらく余韻だけで続いていた。舞台演劇の名セリフは、いつの時代にも語り継がれ残っていくが、この言葉は、僕にとってまさにそれだった。
すなわち、それは、そのセリフだけで、場面や舞台設計、その物語の表現したいテーマというものが表明されるような、品格あるセリフというものだ。
それは例えば、「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。」というような台詞の事なのだ。

余韻の中で指がピクリと動いて、コーヒーの入ったマグカップの取っ手に当たった。そこはちょうど、金継ぎが充てがわれていた。その金継ぎはオーナーの手によってなされたものだ。二、三世紀前のものを模したというマグカップは全て職人の手作りらしく、夫婦どちらともが愛情を込めてお店で使っている。店を開く時、それを見つけた時の興奮も、いつぞやに話してもらった。よく覚えている。
ふたりのアンティーク・マグカップへの愛情を伝える金継ぎは、輝いて見える。今度は指をあてがうようにして、そっと触れてみた。流れる水のように冷たかったが、コーヒーはいまだに冷めていない。

3

僕が三年通って気づいたアンティーク・マグカップのスゴいところは、この、時間が経ってもコーヒーが冷めないところだ。
あれから、自分が経験したことで「あれこれ」にまみれるなら、それは良い事だ、と思うようになった。落としてどこかが欠けても、直すことで味になる。
古くなっても、元々の使い方と違う使い方ができる。頑丈で、融通が効いて、それでいて、時間が経つほどに味が出る。資本主義の時代において、それを「価値」という言葉で表すのが嫌になるような、そういうpricelessがそこにはある。

そう、三年は経ったのだ。たった三年。その七倍くらいの年数生きてきたのに、この三年は少し、僕を古臭くした気がする。
昨今の急進的な価値観、SDGsとか、LGBTQだとか、Youtube時代だとか、ブラック企業は何でも撲滅という旗を掲げながら、その裏で扇状が続くベンチャー企業と円安市場。そんな時代、その真っ只中を生きる若者の一人として、自分は含まれ得るのだろうか、と苦笑する。あのカフェの中で、僕が語らうのは古代ギリシャの哲学者や、十四世紀詩人やら、劇作家やら、十八世紀の革命家やらである。彼らは今の時代とある種逆のことを言っている。それでも、現代が見落としてしまったものを取り返そうと息巻いている。彼らの存在、それは、現代が壊し続けた、長く細く息づいていた「あれこれ」を繋ぎ止める金継ぎだと思う。
僕はやっぱり古臭いだろうか?

でも、いいや。この世代の人間で、アンティークの良さを身をもって知っているのは、きっと僕だけだ。

そろそろ、ノートを閉じる。えぇっと、コーヒーは?
ふと、金継ぎに指が触れる。
見上げると、オーナーがちょうど誰かのためにコーヒーを淹れている。
蘇る、あの台詞。
金継ぎを撫でるようにして、取っ手を持つ。
まだ冷めてない。

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