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【短編】疫病、そして、風が吹いている

 れいたは久しぶりに靴下を履いていた。シャツを着替えて、ジャケットを羽織って、ジーンズを履いていた。鏡の前の自分はなんだか時代遅れの亡霊のようだ。伸び切った髪に、メガネ。おしゃれとか、そんなものとはかけ離れている。しかし、これが今のれいたの精一杯の服装だった。外出だなんて、何年ぶりだろうか。

 いわゆるニート、というのがれいたの肩書きだった。

 中学の三年間は壮絶ないじめの記憶で埋まっていた。クラスの担任教員は重度の鬱病と診断され、ようやく学校側は問題を公に発表した。ワイドショーでも取り上げられ、最終的に警察が介入、刑事事件として扱われ、学校側及びいじめに加担した家庭らは損害賠償を命じられた。主犯格らの少年院行きが確定したのはそれからさらに四ヶ月後。いじめが始まってから約二年と四ヶ月後の出来事だった。

 れいたは、唯一無二の親友であるトウ太との約束を守って学校に行っていた。病院での入院生活が続く彼は、重度の先天性色素欠乏症、いわゆるアルビノという病気があった。彼の目は、色素の余の薄さと血管の色のために青色に見えた。紫外線に対して無防備な彼は、外出は月に一度、そして、皮膚の合併症のために、歩くのは一日三十分と制限されていた。

 彼の分まで学校に行きたい、その思いを彼は強く持っていた。むしろいじめられている時のほうが、強かったのかもしれない。いじめが完全に無くなった後、彼は世間では、被害者として扱われるようになった。歯向かい、頑固に生き続けてきたれいたにとって、こうした同情の眼差しとよそよそしさは、彼の心を完全に蝕んでしまった。

 高校入学と同時にニートを卒業させようと、両親は一生懸命にれいたと話をしたが、うまくいかなかった。
 「どうしてだよ。俺はいじめられて、救われたのに、俺の扱いは今じゃ、まるで病人だ!それに、トウ太は本当の病人で、ずっとずっと閉じこもってる。閉じこもってなくちゃいけない!心だろうと体だろうと、病人になっちまったら、こんなにも世界は優しくないって、いやでもわかっちまう。」

 れいたの優しさを感じさせる頑固さの前に両親は何も言えなかった。れいたは、「世界の方が病気になればいいのに」と言ったきり、部屋に引きこもってしまった。

 それから二年近くの月日が流れた。
 世界は、本当に病気になっていた。

 「—2020年初頭、中華人民共和国湖北省武漢市に端を発しました新型コロナウイルスですが、急速に勢力を拡大しており—各国政府は対応に追われております—尚、欧州諸国のいくつかの国では、すでにロックダウン政策の敢行を発表しており、EU圏内では、依然として足並みの揃わない状況が—。」

 本当に病気になっちまった!
 れいたは部屋の扉を開けた。そして久しぶりのリビングに行き、テレビにかじりついた。両親は、その様子をじっと見ていた。そして、言った。「会いに行かない?トウ太君に—。」

 病院でのアポイントメントは許可された。都市部と比べて、地方では規制はまだ緩かった。
 何より、病院側は、れいたとトウ太の関係性について—地方特有かもしれないが—ずっと覚えていた。れいたはそれくらい、以前はトウ太のところに遊びに行っていた。だから、「是非いらしてください!車で来ていただければ、問題ありません。こちらについてから、簡単な検査だけさせていただきますが」と電話を返されたとき、母親はじっと涙を流してお礼を言った。

 病気になった世界は、閑散としていた。乗っている車の音の他には、鳥の鳴き声が、いつもよりも大きな音量で聞こえた。車に乗る時、一陣の風が吹いた。びゅうっという風は、れいたの長い髪を飛ばした。外に出て風が吹くのを感じたれいたは、まるで初めて風に触れたような気がしていた。
 だから、病室に入ってすぐに、ベッドの上のトウ太が、入ってきたばかりのれいたのことを叱りつけ、本当に長い間心配していたことや、どれほど寂しかったか、という事をぶつけた後、れいたは病室の窓を開け、部屋の入り口のドアも開けて風を吹かせてから、「これで勘弁してくれ」と謝ったのかもしれない。トウ太は、「まるで外にいるみたいだよ。」と言って彼を許した。

 「本当に外に行こうぜ」とれいたは言った。「次はいつ外出できる予定なんだ?」
 「しばらくは、ダメなんだ。体の具合は本当に良くないらしい。こんなに元気だけどな!」と、トウ太は言った。
 「そうか、せっかく世界が病気になって、俺たちだけの世界が待っているのに残念だなあ」とれいた。
 「世界が病気か…。そのほうが俺らが外に出られるなんてな。」とトウ太。
 すると、大人の声がした。「確かに、今のうちに外出してもいいかもしれませんね」
 振り返ると、トウ太の主治医だった。「トウ太君の外出禁止は、基本的に合併症による皮膚の軟化が原因で、人との物理的な接触を避けるためのものですから」
 「え、ほんとうですか!聞いたかよ、トウ太!」

 ふたりは外に出た。いつも病院の窓から見下ろしている中庭のベンチに二人で座った。一陣の風が吹いて、彼らの髪が揺れた。

 「おまえ、髪切れよな」と声がする。風に乗って、その声は病院の壁にぶつかり、跳ね返っている。「ああ、そのつもりだ。それにまた学校にも行くよ。大学には行けるかどうか、三年からじゃわからねえけど」とまた声。こうして声が風に乗ってこだましている。

 どんなに世界が病気になっても、それはふたりにとって全く関係のない世界のことだった。地球は今日も元気に自転して風を吹かせているし、鳥も虫も雲も太陽も、いつも通りに生きているのだ。彼ら二人の友情の外側で、今だけは全ての人類がくだらない病気にかかって引きこもっている。
 風は今、その友情を祝福するように、たおやかに吹いている。人生をかけて戦ってきた彼らは、これからのことについて話し始め、それらの言葉は風に乗ってこだましている。
 風だけが祝福している、これまでの旅路を。風だけが与えている、これからの路銀を。いつも風だけが吹いている。いつだって飛び出した者にだけ、風が吹いている。

 そして、風が吹いている。

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