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【短編】葬儀の帰りに

 車の中はやけに蒸し暑かった。残暑の季節に、珍しく雨が降っていたからだろう。あるいは深夜をとっくに過ぎてしまっていたからかもしれない。田舎はこういう時に車が無かったら本当に不便なんだろうなと思う。緊急時には、もう移動手段が車以外にないのだから。大体、普段の生活でもそうだ。

 車のフロントガラスは、幾度となく大粒の雨に打ちのめされていた。弾くワイパーを嘲笑するように、天井から大量の水がなだれ込み、視界を歪ませた。水の流れるものすごい音がした。僕らは視界を確保するために目を窄めなければならなかった。僕は助手席にいて、この間に何度か、運転席にいる母親を見上げた。母は相変わらず前を見ていた。

 「あのおじちゃんね、急に亡くなったんだって。昨日お父さんが、夜中にいきなり出ていったでしょ。急に電話が来て、ものすごい大声を出して驚いていて、着替えたスウェットを脱いで、クリーニングに出そうとしていたスーツをもう一度着て、それからタクシーを呼んでね。一口だけビールを飲んでいたから…。」と母親は言った。どうしてこんな話をしているのか、僕にはなんとなくわかる気がしていた。一度家に帰ってきて、もう一度朝が来ない限り、着替えたスウェットを脱いでスーツを着るなんてこと、今まで一度だってそんな父親の姿は見た事がないのだから。着替えている時の父親の様子を僕も見ていた。それは、まるで逆再生しているかのように彼の装いが変遷してる様子だった。父の顔は、「疲れた」という顔から、得体の知れないものを見つめる目に変わっていた。彼がこの目をするのは、若い女の子から訳のわからない事を聞いた時、僕や子供達がとった行動が彼にとって信じられない時、怒りばかりを煽るニュースや某◯日新聞を見ている時だけだった。
 「人っていつか死ぬからね」と母は、運転席でじっとして言った。まだ信号は赤で、フロントガラスの様子は、先ほどの情景を繰り返していた。僕はフロントガラスの方には一瞥いちべつもくれずに、母親の方を見ていた。

 僕が最初にこういう現場に立ち会ったのは、小学二年生の六月の事だった。僕はその日、まだ何が起こったのかわからなかった。ただ、父方のひいおばあちゃんが倒れたということだけは聞いていた。会いにいくのが、これが最期だということをなんとなく知っていた。けれどもその日、僕は学校が終わってからひいおばあちゃんの家に行くのを楽しみにしていた。その学校の誰よりも早く、下校の道についた。校門を出る時、警備の人が元気よく挨拶して話しかけてくれた。そして、「そうか、会うの楽しんでこいよ〜!」と僕に手を振ってくれた。この時はまだ、この事が僕にとって後に至るまで、それこそ自分がそうなってしまうまで、印象深く、心に残り続けるとは思っていなかった。

 僕は家に着いて、小学校の制服のまま、車に乗って、休日にしかいくことのなかったあの家に行った。気がつくと僕はそこに佇んで、もう絶対に眼を開かない、ひいおばあちゃんの顔を見ていた。今にも起きてきそうだね、と誰かが言った。その台詞は初めて聞いたが、こういう時誰もがそう思うんだろう、そしてそう言ってしまうのだろう、そういうものなのだろう、と僕は感じ取った。そしてその場にいる誰よりも、本当に起きてくるんじゃないかと僕は疑っていた。それから僕は喉が渇いた。この家に来るといつもヤクルトを飲んでいたから、きっとそのせいだと思った。でももう、この家に来てヤクルトを飲むことなんてないんだろうと思った。実際、この後何十年もこの家には来ていたし、親戚とみんなでお酒を飲んだりもしたが、ヤクルトだけは飲む事はなかった。
 葬儀の日、僕はお経を聴きながらウトウトし始めていた。左側にいた父親が、言葉を使わずに、丸まって寝ていなさい、と優しく伝えてくれたので、僕はその通りにした。僕はそれがあまり良いことではないということに気が付いてはいた。けれども、とても眠かった。そして、なぜだか、僕だけはここで、お経の流れる葬式というこの場所で、眠ることが唯一許されているのではないか、と信じていた。もちろん、ひいおばあちゃんのお葬式だったから、である。この家で誰よりも愛された曾孫であった僕は、この時初めて、この家の中で眠りに落ちた。
 僕は寝ていたけど、半分起きていた。目を瞑っていたけど、周りのことをちゃんと見ているかのように感じていた。僕は、そう僕は、はっきりと、自分が丸まっている場所のその真上に、ひいおばあちゃんがいて僕を見下ろしているのを、じっと感じていた。なぜだかひいおばあちゃんは、まるで遠くの景色が縮こまって見えるかのように、小さくなっていた。そして、僕のすぐ真上に浮いていた。小さいからか、僕は彼女がとてもとても遠くにいるかの様に見えた。けれども、とても近くにいて、僕の頭を膝に乗せて撫でてくれているかの様にも感じていた。

 遠くにあって、近くにあるひいおばあちゃんのその存在のことを、僕は後々よく考えるようになり、やがて一人暮らしを始めた時には、たった一度だけ、ヤクルトを買って家で一人で飲むことになる。

 車はエンジンの音を途切らせることなく、その場にとどまっていた。僕は母親を見上げながら、もうすぐで信号が青になるのかな、と思っていた。母親は言った。「私のおじいちゃんね、一応事故死だということになっているんだけど、自分で死んじゃったのよ。もうボケていてね。間違えて、農薬を飲んでしまったのよ。すごい声を出して、みんあが階段を駆け登って部屋に駆けつけたわ。私はその頃まだ子供で、その場所には幸いにも立ち会っていなかったけれど、母はその場に駆けつけていた。おじいちゃんは、こちらをキョロっと見てから、『やってしまったっ!』と言って死んだの。あの人の遺体は、今日のおじいちゃんみたいに綺麗じゃなかったわ。まるでブリキの人形のようになっていた。農薬を飲んで死んだ遺体は、そういうふうになってしまうんだってお医者さんは言ってた。そういうふうになってしまうだなんて…あなた達は絶対に、だめよ。」

 母はもう泣いていた。今日の通夜はあまりにも急なことだった。僕も連れて行かれたということは親戚の類だとは思うが、僕は一度しか会ったことのない人で、おそらく父方の祖父の家系に類する人だと思われた。奥さんと思しきおばあちゃんが、小さな声で何度も棺に向かって「寂しくなるねぇ。なんで残していっちゃうのさ」と泣きながら呟いていた。周りの人はそれを慰めながら、背中をさすっていた。それを見ている僕の背後で、あの空間においては比較的若そうな女性達が、「もう完全にボケていて、何が起こっているかわかっていないらしいのに…」と話しているのが聞こえた。僕はあのおばあちゃんの意識が半分無くなっていて、周りのことも認識できていないんだな、と悟った。けれども、おばあちゃんが、近くに、そう、ずっと近くにいるのに、棺を隔て触れられない彼に向かって話しているのは、それ相応の訳があるのだと思った。それは説明のつかないものなのだろうと思った。

 僕は、信号の方に向き直った。そして、青になったのを確認した。母親にそれを促して、母親はエンジンを吹かせている車に、やっとアクセルを踏んだ。車は走っていたけれど、外の雨と、この田舎の夜の景色はどこまでいっても代わり映えがしなかった。左側を見ると、サイドミラーが、やはり雨のせいで何の役にも立っていないのが見えた。そしてそのまま、左側の外の景色を目を凝らして見ていた。あの日の、着替えている父親の姿がまた蘇ってきた。そして今度は、僕たちの時間が巻き戻っているのではないかと怖くなった。今、この車はどこに向かっているのか、もしかしたら、今すぐに何かおかしな事が起こってしまって、気が付いたら僕たちは、また今日のあの通夜のあった家に到着しているのではないか、そしてまた同じ景色とひそひそ声を聞く羽目になるのではないか、と僕は疑った。けれども、母親の涙に咽せた呼吸音が車の中に響いた時、この道は我が家へと戻る道だと安心できた。
 フロントガラスは相変わらず外の景色を歪ませていた。僕は左側の景色を見るのをやめた。けれども、顔の向きも、体勢も、視線の方向も、何一つ変わっていなかった。僕は、少し眠れるものなら眠りたい、と願った。目を瞑ろうかと思ったが、開いたままでも眠れるかも知れないと思っていた。それほどまでに視界は何も映していなかった

 「今日の帰り道はこんなにも色々なことを考えさせるのに、あの日、ひいおばあちゃんのお葬式があった日の帰りについて何も覚えていないのは、どうしてだろう」と僕は考えていた。すると今度は頭の中で、ブリキの様になった醜い男の死体が想起された。そして、その傍らに、白衣の男が立っているのも想起された。僕は、なぜ死んでしまった男の肌が、ブリキの様になってしまうのか、そういうことをなぜ医者が知っているのか、医者はそういうことを知らないものではないのか、と考え出していた。そして、医者というものは、一体何を知っていて、そして、もし何かを知っているとしても、それが何の役に立っているのだろうか、ということを僕は考えてしまった。そしてこの悩みもまた—そう、これは悩みなんだ—僕の人生が終わるまで永遠に続くことになるだなんて、この時は思ってもいなかった。

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