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【短編】愛は藍より出でて

 割烹着の店主からお釣りをもらって先生は暖簾をくぐった。私もその後ろに続くと、雲の切間から碧い空が広がっていた。夏空は、もっと風をよこせと急かしているようだ。太陽の下の雲は忙しなく動き、アスファルトは沸騰寸前の薬缶のようで、絶えず陽炎を揺らしていた。

 「珈琲が好きなら、一つ、この近くにとても美味しいcafeがあるんですよ。」と先生は言った。「よろしかったら、どうですか?」
 「私でよろしければ、是非。先生のおすすめだなんて光栄です。」と私は、汗が首筋に垂れるのを感じながら答えた。でも、汗が本格的に流れ始める前に、そのカフェはあらわれた。本当に近くだ。
 「『ダンケ』というカフェです。」と言って先生はオーク材の扉を開けた。昔ながらの喫茶店の雰囲気と、落ち着いた気高さのあるcafeだった。席に着くと、ご高齢の夫婦がこちらをチラリと見た。夫の方がこちらに来た。
 「珈琲をふたつお願いします。」と先生は最小限の手振りで注文した。

店主は、私の目には立つのもやっとの年齢というふうに見えた。でも、熱々のお湯がポットで沸いているのを確認してからの動きは、とにかく、素早かった。ミルからコーヒー豆の香りがすると、両手に抱えられたフィルターの中に粉が綺麗に収まっているのが見えた。それをひとまず脇に置くと、背面の棚からコーヒーカップを一つ素早く選び抜いた。どれも美しい一級品で、それでいて個性がある。私は見ているだけだった、が、店主が先生に合わせてその色合いと模様を選んだのだろうという事は間違いがなかった。カップに直接抽出をするのだろう、フィルターをカップの上にセットした。沸騰したお湯を、珈琲ポッドに移した、と思った瞬間それを持ち上げ一気に注いだ。温度を測ることも、時間を測ることもしないなんて、と思っているうちに、みるみるフィルターの中の粉が、炭酸の泡で膨らんできた。本当にギリギリのところで注ぎ口からお湯が切れた。見事に切れた。そしてここからが見どころだった。店主は、フィルターをセットしている部分を、両手でそっと包み込んだ。覗き込みながら、いや、強く見つめながら、何かが来るその瞬間を待っているようだった。その眼差しは厳しさと愛で満ちていた。それはまるで、この珈琲の産みの父として、命をかけているようだった。完全なタイミングでそれはカップから外された。そして先生の前にそれはゆっくりと、置かれた。私はそれを黙って見ていた。店主はまたすぐさま珈琲豆をミルに投入した。
 「分かりますか。これもね、一つの道なんですよ。命、賭けているでしょう。」
 私は、なんて答えたらいいかわからないまま「息を呑みました」と静かに応えた。

 店主はさっきの手順を、完璧にもう一度繰り返した。カップは、先生の鮮やかでありながら重みのある紺碧のそれとは対照的に、金木犀を思わせる黄色が選ばれた。私の「心の若さ」を完璧に見抜かれていた。両の手がまた合わせられた。まるで温度を、香りを、深みを、一滴に至るまで、命を取りこぼさないように、フィルターのセットされた部分を、深い皺が刻まれた両手が包み込んでいた。それはまるで、何かを祈っているかのようだった。

 「珈琲はとても熱々だった。でも、自然と舌には痛くなくて、多分コーヒーカップの軽やかさというのかな、それが舌触りをなめらかにしてくれたんだと思う。強い温度はあの中煎りの豆の香りを鼻腔まで運んでくれた。まるで渓谷に流れる水のように澄み渡って飲みやすい珈琲だった。なのに、腹の中にくると、こう、重く充してくるものがある。王道を貫いたかのような、見た目そのままの味わいは、珈琲の持つシンプルな魅力を最大限に引き出していたよ。」
 私は、その話を気がつくと8分は続けていた。双子の弟が、その話を少しうんざりしながら、それでも嬉しそうに聞いていた。実際に飲めないことが残念だなと言わんばかりの悔しさを顔に滲ませながら、私の体験を頭の中で追いかけていた。
 「それで、その話がなんだって?昨日感動したことがあったって話だっただろう。それ、先月の話なんだろ?」と弟が言った。
 「いや何さ、見つけたんだよ。同じものを」
 「え?東京で?どんな珈琲屋さんだよ。そんなところあるなら、絶対に行くね。」と、東京在住の彼は言った。関西から少しの間居候させてもらっている私はつかさず、「いや、光景だよ。同じ光景。珈琲じゃないんだ。」と言った。
 「どこで?」片目だけ細めながら、私を見つめて弟は聞いた。私は目線を落として、ゆっくりと見つめ返しながら、たっぷり時間をつかって言った。「藍ちゃんの家でさ。」

 東京には、叔母の家族が住んでいた。4年ほど前に、叔母は最初の、新たな命を授かった。紺碧を思わせる「藍」という名前がその子に与えられた。20歳も離れると可愛くて仕方なく、誰もが分け隔てなく愛情を注いだ。私もその一人だった。もちろん、東京在住の弟はよけいであった。昨日、東京にいるなら是非ということで、私はお昼ご飯にお呼ばれした。弟は仕事で来れなかった。

 「えっと…?珈琲淹れたの、旦那さんが…?でも、あそこ珈琲淹れる器具とかあったっけ?」と弟は困惑気味に言った。
 「違うさ。」と私は呟いた。

 あの日、もう全員がお昼ご飯を食べた後で、遊びに飽きた藍ちゃんがようやく食卓についた。「おかゆさん、ずずずしようね」と、母親がキャラクターの絵柄がついたプラスチックの茶碗を父親に手渡した。父親は手慣れた様子でそれを受け取り、包み込むように両手で持った。そして、顔をものすごく近づけてから、なんども息を吹き込んだ。「アツイアツイじゃないよー」と父親は時々我が子に微笑みかけながら、とても自然に、そうやって何度も息を吹き込んでいた。今の今まで遊び疲れていた4歳児は、ついさっき初めて首がすわったかのように背筋を伸ばし、目をくりんくりんに見開いて、頬を赤らめていた。

 「命が吹き込まれているんだ、と思った。感動したよ。そうか、極めるってことは愛情を絶やさないことなんだって。さらにそれがとても自然なことなんだ、と思った。その光景が重なって見えたのは決して偶然じゃないんだ。僕はね、別にあの光景をどこかで探していたわけじゃない。でも見つけたんだ。それは、子供にごはんを食べさせる父親の姿だった。こういうのってわかるか?」と私は興奮気味に、それでも穏やかに話し切った。
 「ほお…!」と彼は一言発した。

 「ところで」と弟は言った。「お前が黄色なの?ふーん…ずっとこれまで、俺が黄色でお前が青だったのに。お母さんが選ぶもの全部そうだったろ。最近はそりゃ、わかんないけど。今でも寒色好きじゃん?」
 私はクスリと笑ってからこう言った。
 「確かにな…。まあ、やっぱり、誰と横に並ぶのかって大切なんだろうな。」と私はチクリと言った。チクリと言われたことに気が付かずに「まあ、そりゃそうだよな!」と弟は白い歯を剥き出しに笑った。

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