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憎んで、怒って、恨んで、それでも生きていくしかない

「毒親」とか「アダルトチルドレン」とか「発達障害」とか「愛着障害」とか、家族にまつわる問題と、その加害者と被害者を表すような言葉がたくさん溢れているし目に飛び込んでくる。

私は紛れもない「当事者」であり、同時に自分で自分を「当事者じゃない」と否定し続けた人間でもある。

だって「親を悪者にする」ことが怖かったから。

「親を悪者にする」ということは、「傷ついている自分」と「怒っている自分」と「悲しんでいる自分」と向かい合わないといけないから。

怒っているどころか、憎んで、恨んで、親を殺してやろうかと思った自分を、相手の痛みなんて何も考えることなくただただ暴れてしまいたい自分を思い出さないといけなくなるから。

あんなに、死ぬほど、この世の終わりなんじゃないかと思った痛みを、苦しみを、もう一度思い出さないといけなくなるから。

今もまだ思い出しきれないくらい、重すぎて、キツすぎて、苦しすぎてどうしようもなくて深く深く沈めてしまった痛みを、悲しみを、苦しみを、掘り起こすことが怖すぎたから。

親にぶつける代わりに自分を殺してしまったから、沈めてしまったから。
その自分をもう一度出してしまうことは、何を自分がしでかしてしまうのかわからなかったから。

だけど、そうして生きていると ずっと、苦しい

ずっと苦しくて、自分で向き合う勇気がなくて、誰かに「助けてほしい」と求めたり、誰かに自分を投影して代わりに頑張ってもらおうとしたり、誰かを悪者にして、自分を縛って生きなきゃならなくしたり。

結局、全部、自分が苦しい。

どうして、私の父は私を大切にしてくれなかったのか
どうして、私の母は私を大切にしてくれなかったのか

親たちのせいなのに、私はずっと「自分が愛される価値がない」「大切にされる価値がない」と思ってきた。

家にお金がないのも、電気が止まるのも、ガスが止まるのも、水道が止まるのも、自分の部屋がないのも、父親が怒鳴るのも、何時間も起こり続けるのも、テーブルを叩いたり鏡を投げつけたりするのも、母親がずっと笑わないのも、家族の会話がないのも、誰かの機嫌を取らないと安心して暮らせないのも、いづらくなった時の逃げ場所がないのも、楽しいことを楽しいと言えないのも、ほしいものをほしいと言えないのも、悩んでも困っても誰にも相談できないのも、嫌なことを嫌だと言えないのも、嫌だと言ったらわがままだと言われるのも、誰かと関わることが怖くなることも、誰かを大切にすることがどんなことなのかわからないのも、自分の考えなんて聞いてもらったことがないことも、気持ちに共感してもらったことも寄り添ってもらったことがないことも、全部、全部、全部、自分が悪いと思ってきた。

そう思わされるような生活で、毎日で、環境で、暮らしで、どこにも逃げ場所がなかったことも、全部全部理不尽で、嫌だと思ってしまったら、嫌だと思うことを認めてしまったら、感じていることを認識してしまったら、発狂してしまいそうだった。

反抗する心さえ奪われていたことも、押さえつけられていたことも、思い出したくなかった、隠しておきたかった。

何も感じなければ、やり過ごせば、どうにかなると思ってしまった。意見したら、考えを話したら、気持ちを出したら、どうなるかわからないくらいに、家の中にいた人たちは不安定に見えた。

誰のことも頼れなかったし、誰のことも頼ろうと思えなかった。

ただ1日1日が過ぎていくこと、なんとか眠りにつけたこと、なんとか起きることができたこと、学校に行けたこと、勉強ができたこと、「普通」のように生きられているように見えること。
それだけが私の救いで、それだけが自我を保つ方法に思えた。

私はまだ大丈夫、まだ、壊れないで済んでいる、まだ、バランスを崩さずに済んでいる。そう思いたかった。

本当はずっとおかしいままで、ずっと足場なんてグラグラで、ずっと安心なんかできてなくて、ずっと周囲の顔色を窺っていた。

自分がそこに存在していいかわからなくて、存在するためには「誰かの許し」がないと存在できなくて、「誰かの求めるもの」がわからないの不安でしかなくて、「誰かの機嫌」に合わせないと落ち着けなかった。

誰かが怒り出すのが怖くて、誰かが機嫌を悪くするのが怖くて、誰かの一挙手一投足が気になってしょうがない。

誰かの些細な変化が気になって、誰かを怒らせようとするような、誰かの機嫌を損ねるような、誰かの気持ちに配慮しない「誰か」が許せなかった。

なんで、考えないの
なんで、合わせないの
なんで、配慮しないの
なんで、気にならないの

周りがおかしい、私はおかしくない
だって気にしないと生きていけないんだから
私の安心も安全も、気を遣わないと得られるものじゃないんだから

ずっと、そう思ってきた
できもしないのに

世間一般の常識や、他者を尊重するという大人としての配慮なんてない人たちに合わせてきて、そんな人たちの機嫌を取ろうとしてきたんだから、私のやってきた配慮も気遣いも察知することも、全くの無駄で、全く意味がなくて、むしろ「ちゃんとしている」人にとっては迷惑や失礼や過剰な気遣いでしかなかった。

「ちゃんとした人」が私を尊重して、大切にしようと扱ってくれているのに、私はそれを知ろうとせずにずっと親への気遣いを繰り返す。

大事な人を蔑ろにし、大事な人を傷つけ、大事な人が注ごうとしているものを受け取れない。

「間違った親」を認めないと、「親のせい」にしないと、「親が悪い」と認めないと何も変わらないのだ。

私が私を大事にしないと、何も始まらないんだ。

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