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自信と信頼の違いは 「じぶん」と「いのち」の違い

今朝メールセッションのやりとりで出ていた話題。
こちらでもまとめてみたいなとおもいました。
先日のこちらの記事とも関連してくるんですけど、

「 ドーパミン中毒と右脳域なシアワセ 」

ドーパミンは「自信」というかんじです。
興奮したり落ち込んだりというような
気分や思考と比例して上下するような自信です。

一方で「信頼」は
オキシトシンやセロトニンのように
ゆるゆると静かに穏やかにありつづける

どーんと揺るがないベースのようなもの

なにか「特別なこと・いいこと」があったから
シアワセ…高揚感…というものではなく、
そういう表面的な出来事や気分に左右されない

一体感 = 信頼


足元をさせえてくれているような
どーーんとあるような土台です。

上下・揺れ動いているのが
「自分といううごき」
そんなふうに「じぶん」というのは
上がったり・下がったりする

無常という動きそのもの



自分というのは「そういう動きそのもの」で、そういう「体験そのもの」のことなのだろうとおもいます。

たとえば、探究のプロセスにおいても、、、

思考との一体化によって「舞い上がる」現象があって、
いわゆる「空病や禅病」もそれにあたるのかもしれませんが「わかった!これがそれだ!」というところから、すとーんと落ちる現象を招いたりするんですけど、そんなふうに自信は「一喜一憂・浮き沈み・上下の動き」があります。

あったり、なかったりするもの=自信

信頼はどーんと落ち着いた
穏やかさ。地面。


地面が足元をささえてくれている感覚を、
実際に、足の裏〜全身でかんじてみます
その「存在感」をあじわってみます。

ありがとう…という感謝のような感覚は
この信頼という「つながり・一体感」ともいえます

これはあきらかに
「自分我やっている・もの」じゃないです。
だから、安定・揺るがない…のだとおもいます。

ありがたいなあ…って気持ちが湧いてくる。
「おかげさま」という気持ちが湧いてくる。

どちらかというとそれは
「奇跡だなあ」という感覚に近くって

「 ありがとう→愛されている→すべてが愛 」

自分が…じゃなくて
「いのち」だ…っていう実感。

奇跡っていうのは
自分の範疇ではないという実感
「自分じゃない・自分(が)やってない」
ってことの実感・体感なのだとおもいます。

そのように「自分」が「いのち」に置き換わって、それもこれも「自分」が所有できないという「事実」を実感するほどに、むしろ「ここ・じぶん」が安定してくる。

サレンダーも起きてくる。

ありがとう、おかげさまってサレンダーなんですね。


ウェルカムレイン☆サヤカ 

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