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私がフリーウェディングプロデューサーになった理由

やっぱり私はウェディングが好きだ。

2人の未来を彩ることができる私は
無敵になった感覚に陥る。

人生を描くアートとして、ウェディングという手段を使っている。

この前、人生で初めてコーチングとやらを受けてみた。知人の練習台として。
その知人が言うには「クレイジーな人」に声をかけたという。

クレイジーな人に選んでもらえたのも嬉しかったし、何よりディスカッションした中で、1番コーチング前から自分のことを分かっていて未来を描けている人だったと言われたのが心底嬉しかった。

今日はここで、今までのウェディング人生を振り返りながら、どう言う経緯で今フリープロデューサーとして活動しているのかを述べようと思う。文字化して、インターネットに残すのはここが初めてだ。


まず、人生で最も多く聞かれた質問

「そもそも、どうしてウェディングに興味を持ったの?」

この手の質問は、他人に答えすぎて順序立てたテンプレートが出来上がっている。今後私に同じ質問を投げかけても、以下に書いてあることがそっくりそのまま返ってくるので注意をしてほしい。

「まず始めに興味を持ったのは小学校5年生のとき」

小学生なりにぽけーーっとテレビを見ていたら、NHKの番組で『ウェディングプランナーに1日密着!!』というのが目の前に広がった。

そこでは、2人と打ち合わせをする姿や結婚式を創り上げるようなプランナーの姿が映し出されていた。
当時、今もだけど、[人と話すのが好き]、というのと[図工とか手芸とか何かものを作り上げることが好き]という二つの点で、「あぁ、この人なんか自分の好きなことやってるなあ~」と小学生なりに感じた。
キラキラしてるっていうのも11歳の私には響いていた。

その時に、将来の夢が『ウエディングプランナー』になった。

そのまま中高と夢変わらず、高校生くらいになってくると自分の脳ミソで色々物事を考えられるようになっていると自分でも気づくくらいにはなっていた。
そこで私は初めてウエディングを「ウエディングプランナー」という職業としてではなく、
業界全体や経済における立ち位置、市場、歴史、日本の上場企業の財務諸表、ベンチャー企業など、よりマクロな視点で考えるようになった。

売り上げの高い企業順に片っ端からホームページに飛んで、各社の企業理念を読み漁ったのも懐かしい記憶だ。
ちなみにウエディングに関する日本の論文は面白いくらいに出てこなかった。確か当時はたった2つしかなかったのと、全ての参考文献が「ゼクシィ結婚トレンド調査」に終着しているもの滑稽だった。リクルート最強やんけ。

ちょっと蛇足なのだが、この時の私自身のバックグラウンドを説明したい。
こうやってビジネス的視点でウエディングを捉え始めたのは一つの大事なきっかけがある。

それは、日本国内でホームステイをさせてもらったこと。
まあ綺麗にいうとホームステイなのだが、家出と言われても何も言い訳はできない。当時、私は母親と二人暮らしだった。精神疾患を患っていた母は、私に当たることも多くあった。帰っても居場所ではないその家では、身の危険も心の危険も自分で察知していた。離れた方がお互いのためだと決心し、長期的に泊めてくれる人を自力で探していた。

私は当時、バンドマンをやっていた。ライブハウスで知り合った一つ年上の他校の先輩が即答で「え、それならうち来なよ。兄貴の部屋なら今空いてるし。別に今日からでも。」と言い放った光景を一生忘れることはない。

家に行ったら、見上げるだけで首がもげるくらいの大豪邸だった。
家の中で迷子になるくらいの大きなお家だった。カメがいた。昔はカンガルーも飼っていたらしい。

そこの家は、「直系の長男は親の会社を継がず、起業をするのが掟」の家だった。なんだそれ。
お父様はディーラー企業の社長だった。ディナーの時間にビジネスに関する面白い話を沢山してくれた。その話をするお父様の姿も心底楽しそうだった。

私はめっきり、「経営・ビジネス」に興味を持った。
高校二年生の時だった。
高校ではもちろん経営学なんか学べない。どうやったら自分でも経営の勉強ができるだろうかと考えた。
先輩がいる大学の授業に潜る?経営に関する本を読む?

「そうだ。会社に行っちゃえばいいんだ」

そう閃いた私は、テレビで見かけて気になっていた社長の会社にアポを取って、高校生ながらインターンをスタートさせた。
その会社はマーケティングの会社だった。そんなに大きくないベンチャーだったので、社長側近で会社のしくみや成り立ち方を学び、取引先とのやりとりや人事、広報、TV出演など色んなことをさせてもらった。
めちゃくちゃ楽しかったし、関わる人も面白い人たちばかり。
何よりオフィス連なる外苑前を颯爽とセーラー服姿で歩いてる自分も心地よかった。

話を戻そう。
そんなこんなで、高校生の私はビジネスの色に染まって行った。
染まっていく中で、四季報を読んでみたり、業界分析をした。

ウエディングを、「職業」ではなく「業界」として見た。
他の業界に比べて閉鎖的で、98年にできたばかりのテイクアンドギヴ・ニーズが当時ずば抜けて業界トップを走っていた。

一見結婚式は「儀式」という普遍的なものに見えるが、
昔からありそうな神社で行う神前式でさえ、結構最近にできたものだ。
戦後からしかウエディングビジネスの歴史がない。

昭和ではいかに豪華な結婚式をあげるかに注力され、平成ではオリジナルウエディングや個性が求められた。
儀式という変わらなさそうなものが、時代背景に沿ってめくるめく変わっていっている。しかも業界に0から新規参入した企業がかっさらっている。これは面白い。

ここでビジネス的視点でも改めて「やっぱりウエディング超楽しそうじゃん」という強い気持ちが芽生えた。

色々調べている内に、「フリーウエディングプランナー」という存在がいることを知った。通常日本におけるウエディングプランナーという職業は、結婚式場やホテルなど会場に会社員として所属し、接客をする。なのでお客様との出会いは「ここの会場いいな」とお客様がなったところのプランナーというわけだ。
それに比べてフリープランナーは会場に所属しない。
なので「その人にウエディングをお願いしたい」から始まり、打ち合わせをし、会場から一緒に決める。

決定的な違いは、ミスマッチが少ないということ。
そもそもその人の雰囲気や考え方にあったお客様がお願いしたいと感じるし、縁が運んでくる。人柄で選んでいたりもするから、打ち合わせのコミュニケーションの段階で疑問や不安を抱くことも少なくなる。

分業をしないので(一般式場だと見学時の新規接客、打ち合わせ、当日立会いのプランナーが全くの別人なんてのは結構当たり前)、空間・時間のクオリティももちろん上がるし、結婚式を行なったあとの心の豊かさを考えると、ウエディングにおいてプランナーから選ぶってとても素敵なことではないか。

私は調べる中で、気になったひとりのフリーウエディングプランナーさんに高校三年生の時、直接連絡をしてお話を伺いにいった。今でもあの時、何も知らないわからない高校生の私に会って頂けたことに心底感謝をしている。
とても緊張したのを覚えている。服装は大丈夫か、質問内容はまとまっているか、失礼ではないか。
温かく、堂々とした姿、自信のある笑顔、ウエディングをする二人のことを考える姿勢、全てが、私の憧れの対象になった。その時取ったメモは、今でも大切にしまってある。

現在も福岡で活躍されている 株式会社ブライズママ 代表取締役 宮﨑千枝 様。本当に有難うございます。拙い私に真摯に向き合って下さったことは忘れません。今後の人生で同じようなことが私の身にもあった時は、宮﨑さんのような素敵な大人になろうと努めます。


フリープランナーの宮﨑さんと出会って、長年変わらなかった私の夢が更新された。

「将来、フリーウエディングプランナーになりたい。」

さて、フリーになるためにはどうしたらいいのだろうか。
一度会場で経験は積まないといけないみたい。

私は小学生の時に描いた人生設計で、
中学は近くの公立中学に進んで、高校は自分の行きたいと思った高校を受験して、そのあとはウエディングの専門学校に行こうと思っていた。

なので、専門学校を2年で卒業したのち、1,2年ウエディング企業でノウハウを盗もうと企んでいた。

そこで将来新卒で入りたい気になる会社を業界研究時にピックアップした。
HPに書いてある企業理念だけを判断基準にした。心が惹かれた企業は2つ。

①超大手業界No.1の(株)テイクアンドギヴ・ニーズと
②ベンチャー企業の(株)CRAZY

だった。

よし、気になる会社も明確に見えたし、やりたいことがどんどん鮮明になってきたぞ〜と感じていたところで、高校の進路を決める三者面談があった。

明らかに私の枠が最後に設定されていて、伸びることがさも前提かのような時間設定だった。

大学に進学させたい自称進学校担任 VS 専門学校に行きたい私
ファイッツ!!!

かと思ったら、母の代わりに三者面談にきていた叔母も担任側だった。
叔母は立教女学院出身、慶應を受験し、日本最大手旅行会社で海外も転々とし独身でバリバリ働く、生粋の”キャリアウーマン”だった。

自称進学校担任 &バリキャリ叔母 VS 専門学校に行きたい私
ファイッッ!!!

お互い一歩も譲らず、埒があかなかった。
夢を思いっきし袋だたきにされた。

担任はまあ進学実績出したいからなわけで置いておいて、
特に叔母に関しては三者面談でめちゃくちゃに言われた。
大手旅行会社に勤めているため、ウエディングにも少なからず携わっていたのが経験エビデンスとしてあり「そんな高卒でも誰でも、誰がやってもできる仕事なんて、なぜ目指すの?」とかまあとにかく悲惨に3時間近くウエディング業界の悪い点、夢にすべきでない職業だと攻撃された。

結局、私の「大学も検討します」の一言でその三者面談は終わりを迎えた。

私はそう口では言っている中で、
断固「絶対にウエディングでやってやる」という反骨精神が心の奥底に芽生えていた。


紆余曲折あり結局は高校卒業後、東中野にある東京ブライダル専門学校に通うこととなった。
そこの専門学校の先生に直接連絡し、特別に入学枠を確保してくれたことには感謝しかない。私の苗字がテラオカなのに、出席番号がワタナベの後だったためにちょっと浮いている気がした。

入学後は自分が想像していた専門学校と少し違っていた。
自分みたいに熱くウエディングを考えている子がたくさん集まっているのかと思いきや、意外とそうでもない。
習うことは大半、結婚式場でアルバイトすれば、お金をもらいながら学べることでは?と思うようなことばかりだった。
ブライダルビジネス、という授業だけが、「うおお私が血眼になって高校生のときに探して見つけていたデータや資料がこんなにもいとも簡単に教えてもらえるのか!!」と感動した記憶がある。それは、寝ている人も多い授業だった。

全てが「一般企業に就職をするため」のカリキュラムだった。

講師陣も、きっとこういう人たちが会社という組織で評価されて、真面目で勤勉で、社会人として他人に分かりやすくて認められやすいんだろうな。というような人達で、自分の求める「業界を変えてみせる!」というイノベーティブな先生はそこにはいなかった。2年で卒業できる学校だったが、もう180万円ともう一年という時間をかける価値が今の自分にとっては無いと判断し、一年で中退し、大学を受験した。

専門学生の当時、学校にいなければ、外部で探そうと思い東大の起業サークルに入った。
専門学生なんて私一人だけだった。自らプロジェクトリーダーになり、小さめのクラウドファンディングをし、大学生7人でウエディングメディアを作った。長期的な運営はできなかったけれど、とてもいい経験だった。

アルバイトは、ずっと気になっていた企業の一つであったテイクアンドギヴ・ニーズの運営するドレスショップMIRRORMIRRORでドレスコーディネーターアシスタントをさせてもらっていた。本来は学生は採用していないという事だったのだが、「ある日」から始まる物語のような志望動機の履歴書で門を叩いたら、通過の電話が鳴った。
その後、世界的にも有名なウエディングプロデューサーである野上ゆう子さんとお会いした。ミラーミラーの二階のソファで、またウエディングを仕事にしている人のキラキラさに目が眩んだ。
本物のインポートドレスに触れる機会を作れて、本当に良かった。
いいもの、いいドレス、いいデザインには魂が宿っている。
プランナーになる上で、ドレス、花、空間装飾、デザインは切っても切り離せないもの、少しでも学ぶべきものだと思っていたので、全て経験ができて良かった。

花は、専門学校に入学する前、青山フラワーマーケットで少しだけアルバイトをさせてもらっていた。そこの店長がとてもいい人だった。小さい頃から青フラには顔を出していたため、一緒に働けたことや、経験は短くとも良い時間だった。花を愛する人に会えて、考え方を知れて、本当に幸せだった。大切な宝物。今は独立しフリーフラワーデザイナーとしてウエディング業界でも活躍されている杉田裕樹さん。同じ舞台で活動できる日を今か今かと考えております。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。


専門学生1年生は、一般的に大学3年生と同じ動きで就活をする。
入学早々夏の就職活動が始まったので、驚いた。

私は第一志望がテイクアンドギヴ・ニーズだった。
一択に絞るほどに魅力的に感じていた。
サマーインターンも開催されているもの、全種類に参加し自作名刺を配りまくっていた。
私の手違いでたまたま応募できていなかった時に人事の方から「寺岡さんの応募が無い!って騒ぎになってます」と参加を促す電話がかかってきた。嬉しくて、にやけてしまった。
その後、天王洲アイルの本社で人事部長と一対一で話をした際、「大学に行きます」と突然言い出した私を快く送り出してくれたことを今でも感謝している。
TGの選抜型のインターンで当時知り合った学生仲間が、今でも繋がっていてたまに話したり、連絡とったり、中には一緒に仕事も今ではする仲になっていたりとこの就職活動で得た縁も宝物にしている。


そして、よりマクロ的にウエディングを捉えるために、経済を勉強したかったのと、「学生」という肩書きがまだ欲しかったため、19歳で大学を再受験した。慶應の入試でも、これでもかとウエディングの小論文を書いた。

テーマはナシ婚*の市場化について。どうやったら実現可能か、フリースタイルの結婚式の可能性について述べた。これで落ちたら諭吉先生見る目ないな。ぐらいのスタンスで。(*婚姻しても結婚式や披露宴等をやらない事)

結果は合格だった。
受かる自信はあったし、見る目あるやん。と謎に上から目線だった。

専門学校をやめることを決めてからは、気になっていた企業のもう一つ、(株)CRAZYで両国の本社一階受付兼バリスタをやり始めた。
CRAZY WEDDINGの世界観は何より、集まる人も魅力的な人が多かった。
プロデューサーは中途で入社し、前職が業界全く違うというのがほとんどで、悩み成長する姿やコミュニケーション、カルチャー、ベンチャーという不確実性が多い中での運営など、学ぶことが多かった。
結婚式の現場にも行くことがあった。そこで徐々に見えてきた変えなくてはいけない点、現場の温度感、疑問点など、参加者やゲストを見て思う部分は沢山出てきていた。今後このことを小さなことから少しずつ自分の力で変えて行きたいと強く思っている。

大学に入学してからは、もうそのまま新卒で企業に入らず、フリーのウエディングプロデューサーになろうと考えていた。ウエディングとは真逆の領域も学生時代に見てみたいと感じ、そこで気になっていたのが『フィンテック』だった。ウェディング業界に足りないIT・金融分野や、お金のしくみが気になっていたので、勉強するためにCAMPFIREにジョインした。アプリ開発のサービス設計から学び得た経験もウエディングに関わった時と同じく宝物だ。
そこで出会った渋谷ITの人たちはまた別の意味でキラキラ輝いていた。横文字が飛び交って何言ってんのかわからなくなったり、サービスを深く考えすぎて一周回ったり、そんな人に囲まれて仕事するのも好きだった。一旦全く別の仕事をすることで、ウエディングで活かせそうな考え方やツールなど学ぶべきものは多かった。


そしてやっと、私が初めてフリーウエディングプロデューサーとして活動したのが、大学一年生のときの冬。

ガッツリでは無いが、お手伝いの名目で、ヒアリングをして、会場から一緒に考えた。
私は公私問わずいろんな業界に行っても、ウエディングの熱意は口頭で人に伝えていた。その中の一人が頼ってくれたのだ。

その日が私のフリープロデューサーとしての1日目で、日本史上最年少でフリーウエディングプロデューサーとしてのスタートを切った。

ワクワクと結婚式について語る2人の前で、密かに感動している自分がいた。



「フリーウエディングプロデューサー」という
長年の将来の夢が叶った瞬間だった。



あとがき

私がフリーウエディングプロデューサーになった理由から、夢を叶えた大学一年生までの身の上話を書かせていただきました。

このような長文を最後までお読みいただいた方に感謝申し上げます。
何かお力になれそうなことがあれば気軽にお声がけ下さい。
書きたいことはまだまだ沢山あるので、また気ままに発信しようと思います。

なお、私が発信する上で後押ししてくれた関係者各位の皆さま。一緒に活動してくれているメンバー。いつも本当に有難うございます。まだまだ未熟者ですが、今後とも何卒、宜しくお願いいたします。


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