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「幸せって何?」(三大幸福論、古代ギリシア・ローマ&仏教、キリスト教、椎名林檎とシェイクスピア)

(一応前回の続きですけど今回だけでも読めます🙂)

三大幸福論

世の中には「幸せって何?」という問いに応えるための議論、いわゆる幸福論と呼ばれる議論が数多くあります。その内容は、論じる人によって様々です。

(西洋)哲学で幸福論といえば、アラン、ラッセル、ヒルティの幸福論が有名です。まずはアランとラッセルの幸福論を紹介したいと思います。

アラン「常識ある立派な立ち振る舞いができたらいいよね」

身体の健康を保とう

身体の健康に注意したうえで心を平静に保つように努力すれば、たいていの物憂さは消えるとアランは述べます。必要なのは、できるだけ満ち足りた気持ちでいること、そして身体的な悩みを追い払うことなのです。アランは、「成功したから満足するのではなく満足していたから成功したのだ」と考えよ、と言います。まとめてしまえば、「健全な身体には健全な精神が宿る」ということですね。

労苦の積極的な引き受け

「~したい」という意欲された行動においては、人はあえて苦しみを引き受けるということもあります。人は、楽しみがただ与えられることよりも、自ら行動していくことを好むからです。何かを進んで行うことが、心地よさの基盤となります。「少しは生きる苦労があったほうがいいし、あまり平坦な道は歩まないほうがいい」のです(渡邊、308頁)。

上機嫌・幸福であることの義務

アランは、慎み深く礼儀を守って、愚痴をこぼさず親切さと喜びを分かち合うように努力するようにと言います。というのも、「私たちを愛してくれる人たちのために私たちがなしうる最良のことは、やはり自分が幸福になること」だからです(渡邊、312頁)。他の人のためにも、自分が幸福であることは「義務」なのです。


アランの幸福論は、偽善的な文言に転じかねない危うさを有しています。とはいえ、無作法で自己抑制のきかない気分屋や大げさな悲観主義者をたしなめるような、良識をもった堅実な生き方を示しているのです。

ラッセル「うじうじしてないで外を見よう」

ラッセルは、自分自身と自分の欠点ばかりを気にしてあまりに深く「自己没頭」している人は「不幸」であるから、そういう人は自分に「無関心」となり「注意を次第に外界の事物に集中するようにする」のがよいと言います。

「成功」は幸福のひとつの要素でしかない

「成功」を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになってしまいます。

退屈と気晴らし

ラッセルによれば、退屈を避けて興奮を求めすぎるのはよくありません。なぜなら、あまりにも興奮に満ちた生活は、心身を疲労させてしまうからです。退屈に耐える力をある程度持っておくことは幸福な生活に不可欠な要素であるとラッセルは考えています。

人生においては、時には気晴らしが重要な意味を持ちます。ある人の人生の主要な活動の範囲外のことをすること、要するに、余暇を満たし緊張を解きほぐしてくれるような気晴らしをすることが、主要な活動のパフォーマンスを向上させるのです。

ラッセルの幸福観

ラッセルの幸福論の結論はけっこうふつうです。衣食住、健康、愛情、成功した仕事、仲間と尊敬しあうことなどが、ふつうの幸せに寄与するよね、とラッセルが言うからです。ラッセルが明らかにしたのは、「自分自身の殻に閉じこもらないでね」ということなのです。

アランやラッセルは、心身を鍛えて礼儀正しく生きたらいいよねと言っていました。けれども、理不尽な出来事に遭遇するということが人生にはつきものです。自分ではどうしようもない状況に陥ってしまい、苦悩している人はどうしたら”幸せ”になれるのでしょうか。これからは、”深いレベルで”幸福について考えたいと思います。

古代ギリシアとローマ、そして仏教

古代ギリシアを生きたエピクテトスは、世の中にあるものを「自分の力が及ぶものと自分の力が及ばないもの」に区別します。もしあなたが「自分の力が及ばないもの」を欲するなら、あなたは不幸になるだろうとエピクテトスは言います。というのも、自らの意志で動かせないものは対処のしようがないからです。肝要なのは、悩みや不幸が生じたときに「自分がどのように物事を捉えているか」ということを吟味することでしょう(注1)。

古代ローマではセネカが、偶然的出来事に翻弄されない心の強さの大切さを説きます。「われわれに課せられている務めは、死すべき運命に耐え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない」(セネカ、149頁)。

ブッダは、”執着”こそが「苦」を生むと考えました。何か思い悩んでいるとき・苦しんでいるときというのは、それをもたらす対象に思考が過剰に割かれているときであると言えます。その執着(こだわり)から自由になることが「悟り」と呼ばれます。

(注1)こういうこと『嫌われる勇気』にも書いてあったような気がします。また自らの「認知のゆがみ」を自覚することはうつ病の治療にも有効であると言われています(認知行動療法)。あとヨガ(ヨーガ)でも「物事の捉え方」が重要視されます。

キリスト教(一神教的立場) 

アラン、ラッセル、ヒルティの幸福論が「三大幸福論」と呼ばれます。では、ヒルティの幸福論はどのような内容なのでしょうか。ヒルティはクリスチャンの立場から「幸福」について述べます。

「たえず神のそば近くにあること」こそが幸福であるとヒルティは述べます。クリスチャンでなければアヤシサの極みです。なのでヒルティ自身が、もし「神のそばにあること」が「神秘的」で不可解であると思われるなら、これを「偉大にして真実な思想に生きること」と考えてよいと言っています(ヒルティ、124頁)。

ヒルティは、苦難のうちにあっても揺るがないような思想的基盤を確保しておくことが幸福に結びつくと考えたのです。

椎名林檎、シェイクスピア

椎名林檎(唐突!笑)の「自由へ道連れ」という曲に「生きている証は執着そのものだろうけど」というフレーズがあります。確かにブッダが言うように、自分にはどうにもならない事柄に「執着」することは”苦”を生むのかもしれません。だけど僕は、常なるもののない現象世界のうちに生きる有限な人間は「執着すること(注2)」によってのみ「自分らしさ」が生まれ、「人生に味がつく」のだと思います。

生まれたくて生まれた人間はいません。「生まれてしまった」ということを事後的に確認して初めて当人に「生」は現れます。この「世界」という”舞台”、”劇場”でどのように振舞うかは人生の当事者たる「あなた」が決めることなのです。(おわり)

(注2)言い換えれば、こだわること、拘泥すること、自分で”縛り”を設けること、自己立法すること、など。

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思考の材料

使用文献

渡邊二郎『人生の哲学』角川ソフィア文庫、2020年(基本この本の記述をもとに書きました)

シェイクスピア『ハムレット』野島秀勝訳、2002年
セネカ「幸福な人生について」『人生の短さについて他二篇』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1992年
ヒルティ『幸福論』草間平作訳、岩波文庫、1997年
増谷文雄『釈尊のさとり』講談社学術文庫、1979年

参考文献

田口茂『現象学という思考』筑摩選書、2014年
戸田山和久『哲学入門』ちくま新書、2014年
長谷川宏『幸福とは何か』中公新書、2018年
森村進『幸福とは何か』ちくまプリマー新書、2018年

イラスト SatsuKiさん

ほんとに大ざっぱな記述で申し訳ないですが、僕なりの幸福論の概要は展開できたと思っています。

最後までお読みいただきありがとうございました🥰


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