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生きている人間を「状況の産物」として眺める

遺伝か環境か――このような二分法は適切ではなく、「遺伝も環境も」という言い方が適切だろう。

「自らは自由に意思決定している」。このような信念を抱く者は多い。現行の社会制度もこの考えを下地につくられている。

けれども、個人の選択によって影響を与えられる範囲は限りなく狭い。なぜなら、当人は、物理的な身体及びその身体をとりまく環境に大きく規定されているからである。

現代の脳神経科学が示すところによれば、行動をする直前にそれをしないか否かを決定する程度の選択しか私たちはなしえないという(有名なのはリベットの実験)。社会学や教育学、経済学等の統計的事実を参照するまでもなく、身を置いている環境が当人の選好(好き嫌い)を形成することは明らかである。

みな漠然と了解しているのであろうが、私もあなたも彼も彼女も「状況の産物」なのだ。


状況とは何か?

状況とは、主体が多くの所与的な事実に規定されているという事態を指す。人は配られたカードをもとに人生ゲームをプレーしなければならない。


どのような経緯で、彼はあのメニューを選んだのか。どのような背景から、彼女は今日あの服を着ているのか。なぜ彼らはこの電車に乗っているのか...。利他的なボランティアも、SNSに罵詈雑言を書き込む者も、そのような行為を導いた背景がある。

すると、次のような問いも浮かんでこよう。「この自分」はどのような状況の産物なのだろうか?


状況について考えることは、以下のような視点の移動をもたらす。

当事者でなく、観察者へ。主体ではなく、一人の役者へ。

すなわち、状況という視点によってあなたは一歩引いて自分も他人も眺めることになるだろう。


状況は、偶然でもあり、運命でもある。状況という舞台で人間は役割を演じる。果たすべき役割を果たせば退場する。

悲劇か喜劇かはわからないが、少なくとも「この私」は舞台に上がっている。できるのは、演劇だと気づかない(フリ)でやり過ごすか、自らの役割を俯瞰しながら演じるのかということになるのだろうか。前者は自己欺瞞で、後者は道化である。いずれにせよ、狂っている


思考の材料

参考文献

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