「豊か」でいるための思想——「満たされてる感」のレベルを下げること。過剰であることに喜びを感じること。
豊かさとは何か?——この問いを抜きにして、「豊かな人生」や「豊かな社会」を語ることはできないように思われます。
なぜなら、豊かさについての意味内容を曖昧にしたままでは「豊かな〇〇」に向けた具体的な行動を「あなたがする意味」を考えることができないからです。
例えば、「これが豊かな社会を実現するための仕事だ」と言われる仕事はたくさんありますが、その中であえて「あなた」が特定の仕事に従事する意味は何なのでしょうか。すなわち、社会貢献できる仕事がたくさんある中である特定の仕事を選ぶためには、自分なりの豊かさの思想がなければならないのです。
別の例を挙げましょう。親や先生に「いま勉強を頑張るのは将来の豊かな生活のためだよ」と言われても、そんなに勉強が好きでない生徒にとってはいまいちピンとこないのではないでしょうか。「ピンとこない」理由は、豊かな将来の生活という目標が曖昧だからだと言うことができると僕は思います。
上の例からも考えられるように、「豊かな〇〇のための活動をあなたがする意味」を見出すためには、まず「あなた」にとっての豊かさを構想する必要があるのです。
本記事では、僕なりの「豊かさの思想」を読者の皆さんに示します。そうすることで、「ふーん、そういうふうにも豊かさを捉えられるのね」と思っていただければ幸いです。本記事の目的は、読者の皆さんが「自分なりの豊かさ」を考えるためのヒントを与えるということなのです。
なお本記事の記述は、僕の主観的な意見と諸学問(とりわけ西洋哲学と進化生物学・脳神経科学)の知見を混ぜ合わせたものです。
本記事の構成は以下のようになります。
1. もう既に豊かなんじゃないの
豊かさとは何なのでしょうか。ひとまず、豊かさを時間的・金銭的余裕だと考えることにしましょう。すなわち、時間やお金を持っていることで、生命活動を維持するため以外の余裕を確保できているのです。
僕たちは、この2つ意味で既に「豊か」なのではないでしょうか。というのも、ほとんどの人は明日死ぬかもしれないというレベルで飢餓に陥っていないし、noteやYouTube見るくらいには可処分時間があるからです。(なお、これから深刻な不景気がやってくると思われますが、それでも国家の補償を受け取ることができる権利は有しているでしょう。)
ホモ・サピエンス数百万年の暮らしの中で、衣食住がこれだけ潤沢にそろった時代なんて現代以外ありません。また公衆衛生も格段にいいです。端的に言えば、現代は「今日死ぬかもしれないということ」を深く考えずに済む時代なのです。
(ただ、今回のパンデミックは、人間がいつだって死にうるという現実を現代人に突きつけました。)
本章の結論は、僕たちはもう豊かだと言っていいんじゃないかというものです。なぜなら、金銭的・時間的余裕があるおかげで常に死を意識しなくて済んでいるからです。間違いなく、人類史上最も豊かな時代を僕たちは生きています。
(長生きしたい若い世代は、老後のために資産形成はしときましょうね。)
2. 「完全な豊かさ」はありえるか?
前章では、僕たちもう幸せなんじゃね~と一応は結論付けました。とはいえ、「豊かな生活送ってるぜ!」と毎日ニコニコ過ごせている人はあまりいないように思われます。なぜでしょうか?
それは、豊かさには物理的なレベルの豊かさ(身体の外側の環境に存在するものの豊かさ)と精神的なレベルでの豊かさ(脳神経科学における報酬系の活動具合)があり、精神的なレベルでの豊かさを維持できる人はなかなかいないからです。
現代日本人は物理的なレベルでは「豊かな社会」に生きています。けれども、「心が豊かな社会」に生きているか?と言われると、ちょっと怪しいですよね。多くのモノに取り囲まれていながら、満たされてないという状態です。
もちろん、物理的な豊かさと精神的な豊かさは結びついています。例えば、お金の余裕がなかったら、精神的な余裕も生まれないですよね。
だから順番としては、まず物質レベルの豊かさを確保して、その後に精神的なレベルでの豊かさを享受するということになると思います。(たまに清く貧しくみたいな「清貧の思想」が持ち上げられますが、僕はその立場には与しません。ムダがあってもいいじゃん。)
前章では主に自分の身体の外側にあるものの豊かさを論じたので、本章では精神的なレベルの豊かさについて検討したいと思います。
精神的な豊かさって何でしょうね...。要は、「充実感あるな~」ということなのでしょうが。
精神的な豊かさとは何かという問題は、「自分にとって」(自分の意識にとって)という視点が重要だと言えるでしょう。なぜなら、精神的な豊かさは「自分の心が満たされているか否か」というきわめて個人的・主観的なものだからです。他人は判断できません。
みなさんには、「この時間は充たされている!」と言えるような時間はありますか? 僕の場合だと、ランニングしているときとか、読書しているときです。それらをしているときは、没入感——つまりそれ以外のことは眼中になく夢中になっている感覚――があります(いわゆるフロー体験)。
この没頭している時間こそ、精神的に豊かな時間だと言えるでしょう。
さらに、そのように豊かな時間に浸れている人はある独特な状態にあると指摘できます。その状態とは、先ほど言及したように「それ以外のことはどーでもよくなっている状態」、つまり「それ自体で満ち足りている状態」にあるということです。
「他の人がどう思うだろう」とか、「これを今すると後悔するかも」とか、そんなことは一切お構いなしに、いまここに夢中になって過ごせているかということ。これが、精神的な豊かさには必要な条件だと僕は思うのです。
そうすると、「ずっと」精神的に豊かであるというのはとんでもなく難しいことだというのがわかりますよね。ずっと何かに夢中になるのは、困難なのです。無邪気な子どもたちはできているのかもしれませんが。
でも、一方で豊かさを感じるためのハードルはめっちゃ下がった気がします。なぜなら、反社会的な行動でない限り、自分が夢中になることをやればいいだけだからです。自らの豊かさにとっては、他人とか社会は「とりあえず」どーでもいいのです。
3. 利他的なエゴイストになる
前章では、精神的な豊かさは「没頭」によって得られると述べました。その内容を踏まえて本章では、豊かさを実感するために利他的なエゴイストになることを提案します。
利他的なエゴイストとは?——それは、自分が夢中になることで結果的にほかの人のため・社会のためになるような行動をとる人です。
いま気づいたんですけど、今回の記事と類似した内容を以前にも書いていました。本記事の以下の記述は、下の記事のほぼパクリです。
利他的なエゴイストを僕が勧めるのは、それが合理的だからなのです。自分が楽しくなるためには、他の人と仲良く助け合ったほうがいいんです!
すなわち、行動科学(心理学、動物行動学、行動経済学)の知見から言えるのは、短期的な利益確保なら抜け駆けをすることが得をするが、一方で中長期的な利益を考慮すると他者と協力したほうが得をするということなのです。
まぁ人生長いですから、一回自分だけオイシイ思いするよりも長期的に他者との良好な関係を築いたほうがいいわけです。
しかも、私たちには共感能力が備わっているので、他者の喜びは自分の喜びとして感じることができます(脳神経科学の研究によって、その証拠も提示されるようになりました)。
YouTuberがいい例だと思われます。自分が楽しむことが結果的に人を喜ばすことにつながっているのです。
まとめると、他人を蹴落としてまでも自分がのし上がろうとするのではなくて、他人と協力して楽しく生きたほうが合理的だということです。
4. まとめ
本記事の目的は、読者の皆さんが自分なりの豊かさを考えるためのヒントを僕が提示することでした。自分にとっての豊かさとは何かが、何よりも重要なのです。なぜなら、豊かさとは結局のところ各個人が実感できるか否かだからです。
第1章では、もう十分豊かでしょという内容でした。というのも、今日を必死に生きなければ死ぬという危機的状況からはとりあえず脱することができたからです。
第2章では、精神的に豊かさを感じるためには没頭することが必要だと主張しました。つまり、何かに夢中になることが主観的な充実感をもたらすのです。その際、自分以外のことは原理的に排除されるでしょう。というのも、没頭できるのは「この自分」だけだからです。
第3章では、利他的なエゴイストになることを提案しました。結果的にお互いのためになる行動を、夢中になってすることができたらめちゃくちゃ楽しい世界になるはずだ!と僕は思うのです。
利他的な行動には限りがありませんから、好きなだけエゴイスティックな利他行動をしたらいいと言えます。
思考の材料
参考文献
その他
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