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中沢新一『レンマ学』×ユング『元型論』を読む −レンマ的知性がアーラヤ識に映し出す影としての「元型」

中沢新一氏の『レンマ学』を読んでいる。

レンマとは何か?

レンマロゴスと並ぶ、もう一つの「知性」の姿である。

ロゴスとは

ロゴスの知性というのは言語ニューロンの信号処理や最近のAIがそうであるように、互いに区別される複数の項を順番に並べていくという動き方をする。区別されたものを並べる。数える。配置する。私たちの理路整然とした言葉や「数」の観念は、そういう知性によって動いている。

レンマとは

それに対してレンマ的な知性は、ロゴス的知性とは異質な姿をしている。

レンマ的知性はまず、項と項を区別しない。いや、区別はするのだけれども、区別しながらも区別しないという方が適当だ。

またレンマ的知性は時間軸の順序(過去、現在、未来)がない。過去と未来は区別されるが、しかし過去は未来と、未来は過去と同時につながっている

またレンマ的知性は、空間的な距離で隔てられたものごとの区別についても、それが実は「つながっている」というように考える。

あるひとつのものは、それ以外の他のすべてのものと「異なりながら同じ」であり、別々でありながらひとつにつながっている。このつながりを感じ取ることができる知性がレンマ的な知性である。

ロゴス的な言葉でレンマの動きを記述するおもしろさ

ロゴス的な理解を超えるレンマ的知性の働き方を、ロゴス的知性である言語をもって記述しようというのが『レンマ学』の試みである。

中沢氏によれば、そうした試みの先駆となるのが大乗仏教の知である。

レンマ的知性は、「事物を二元論の思考で分類して理解する」、「現実的思考」の枠を超える。

レンマ的知性は「神話的思考」即ち「現実的思考」が分離し対立関係に置く事物を「同じ」とみなし両義的なものにする「複論理(分別と無分別の結合)」をも超える。

レンマ的知性は「無分別が無分別のままで行う思考」であるという。

この神話的思考の先に行く、というのが、レヴィ=ストロースの神話論理に没頭していたわたしにとっては非常にスリリングでおもしろい。

ユングの元型論をレンマ学的に理解する

さて、この『レンマ学』のページをめくっていて、「そうだったのか!」と思わず声に出してしまいそうになったのは、ユングの元型についての中沢氏の解釈である。

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「ユングの言う元型は、「法界」の示す抽象的な運動パターンを示している。」(中沢新一『レンマ学』p.194)

まずこのようにある。ここで「法界」というのは、レンマ的な知性によって捉えられたあれこれのモノ、存在、といったところである。レンマ的な知性にとっては、ものごとは、あるものごととしてその他と区別され異なっているが、同時に他のすべてとつながっている。ある一つのものが他のすべてと異なりながらも同じであるというあり方を捉えた大乗仏教の用語が「法界」であると解釈される。

この法界では、ある存在が他のすべての存在と区別され切り分けられる際の「境界」は、ゆらぎ、動いている。ある存在はそれと異なりながらもひとつにつながった他の存在との動的な関係の中で、その輪郭を変化させ、様相を多様かつ変幻自在に変える。これが「法界の運動」ということになる。

そしてこの法界の運動はランダムではなく、あるパターンを示す。

この法界の運動のパターンこそが、ユングが「元型」の概念で捉えようとしたことだ、という。

その抽象的ないし機械状の運動パターンが、アーラヤ識と純粋レンマ的知性との境界に、知覚可能なパターンとなって「映し出される」(中沢新一『レンマ学』p.194)

これもパッと読むと何のことだかわからないところであるが、ポイントは「純粋レンマ的知性」と「アーラヤ識」というふたつの知性のかたちがあることである。「純粋レンマ的知性」と「アーラヤ識」は異なりながら接触し、境界を形成している。

ここでアーラヤ識というのは、人間の脳にあって、レンマ的な知性がロゴス的な知性に変換されるところ、レンマがロゴスへと写像される微細な網目からなるスクリーンのようなものである。

多様に流動しつつ変容して止まないレンマ的な知性が捉えた世界のざわめきが、互いにはっきりと区別され互いに混じり合うことのないものごとへと切り分けられ、並べられる。その切り分けと配置の最初の処理が行われるのが、このアーラヤ識である。アーラヤ識は言語のようなパラディグマ軸とシンタグマ軸からなる格子状の「線」のあつまりとして構造化されているといってもいい。

そうしてレンマ的な分別以前の多様なうごめきは、アーラヤ識によって次元を減らされることで、人間の脳が知覚できる時間と空間の配置の中に写像されて、あれやこれやのモノを私たちに知覚させ認識させる。

そこで、さきほどの続きである。

つまり元型は、植物のような形状をしていて、目に見える地上の部分と見えない地下の部分を持つことになる。(中沢新一『レンマ学』p.194)

純粋レンマ的知性とアーラヤ識の区別が、ここでは植物の根と地上に見える部分との区別に喩えられる。

目に見える部分ではそれは具体的な図像や物語に変換されてあらわれるが、見えない地下の部分でニューロン系に把握されないレンマ的「法界」につながっている。見えない地下の部分は抽象的かつ機械状の運動を行い、表象不能、言説不能である。」(中沢新一『レンマ学』p.194)

元型は、植物のようなふたつの姿をもっており、目に見える幹や枝葉の部分と、地下の根の部分、両方をもつ。枝葉と根、どちらも植物の一部である。

枝葉の方では、つまりアーラヤ識にうつった言語的ロゴス的な言葉とイメージの世界では、「元型」は「影」「アニマ」「アニムス」「老賢者」といった人物のイメージで現れる。

しかしそれは、純粋レンマ的な知性と同じことであるレンマ的な「法界」の運動のパターンが、アーラヤ識のスクリーン(というのが適当かどうかわからないが)に投げかけた影のパターンの持続性である。

私はこれまで、元型を「枝葉」の方だけで理解しようと試みては、「なにか違うような気がする」と立ち止まっていた、ということになりそうだ。

個人的に夢や瞑想の修行がまったく及ばず(やったことがない)、そういうビジョンを意識できたことがない私にとっては(アニマや老賢人と夢の中で語り合ったこともない私にとっては)、ユングの元型論は容易にわかったような気分になれない、近寄りがたいものであった。

そうして最近、ユングの『赤の書』を眺めているうちに、かろうじて、もしかしてこういうことかも、という感触を掴みかけていたところであった。そこへもってきての中沢氏の「植物」の比喩である。

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この道において天国と地獄は一体となり、下の力と上の力とが道において一つの力になる。(C.G.ユング『赤の書(図版版)』p.131)

ユング自身は「元型」について、次のように書いている。

集合的無意識の内容は一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している。[…]集合的無意識は元型によって構成されている。(ユング『元型論』p.11)

「遺伝」という言葉が鍵である。

私たちの脳を含む神経系が今の形であるのは進化の産物である。

吊橋の上から下を眺めるとゾッとするという具合に、多くの人(もちろん人類全員ではない)が同じような条件で同じような感情を呼び起こされるのもの、私達が祖先から共通の(全員が完全に同じではない)神経のパターンを受け継いでいるからである。

元型という概念は[…]「こころ」にはいくつもの特定の形式があるということを意味している。しかもそれらの形式はいつの時代にもどこにでも見いだされるのである。(ユング『元型論』p.11)

いつの時代にも、どこにでも、つまり人類の遺伝子を受け継いでいる者であれば誰にでもみられる「こころ」の「形式」。それがユングが「元型」と呼ぶものである。

ところで、この「こころ」ということをどう理解してよいのか、私にはどうにもよく分からなかった。

こころは「脳」の神経ネットワークのことであるのか、それとも脳以外にひろがる神経系そのものであるか、あるいは神経に様々な情報を与える他の器官なのか。いや、それをいうなら器官を複数含む肉体と、その肉体が生きている場所もまた、「こころ」ではないのか??


と、どこまでも広がっていく。ユングは一体どこまでのイメージで「こころ」と書いたのか。

その広がりの余地をどう考えたらよいのか、よく分からなかったのであるが、中沢氏の「レンマ」に照らして考えると明瞭になる。

レンマ的知性にとっては、脳も、脳の手前の神経も、器官も、肉体も、あるいは肉体を流れる物質も、そしてその物質が流れ込んでくる元である「外部」や「他者」でさえも、すべて「ひとつ」の「こころ」であり、それをロゴス的に分別して考える必要はないということになるだろう。

そして「元型」は、その全体性の運動が、アーラヤ識としての言語的な意味の世界に映し出すパターンである。

ひきつづき読んでみよう。

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