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『サピエンス全史』の幸福論―感情から意味、意味の生成へ、虚構の力を引き受けること

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んでいると、下巻の240ページに興味深い一節を見つけた。

そこには次のように書いてある。

感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであること[…」もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。」(p.240)

特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけ」とある。なかなか強烈な一言だと思う。下巻のこのあたりでハラリは「幸福」について今日の状況の中から考えようと試みている。

ここに至るまでのハラリの論を眺めてみよう。

幸福論

ここでの問題は、今日「幸福」ということが一体どのようなものだと考えられているのか、ということにある。

ハラリは「幸福」ということが、今日しばしば下記のように考えられていると指摘する。

…私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求特定の感情状態の追求と見做される。(p.239)

そしてハラリはこの考え方を批判的に吟味する。

今日の人類は、祖先たちに比べれば、はるかに「豊か」である。安全で清潔な食べるものや着るものをスマホとコンビニから入手できる。人類はその圧倒的な産業の力で自然環境や動植物に対して多大な負荷をかけつつ、かつてないレベルで物質的に「豊か」になった。

しかし、私たちはその物質的な豊かさを、必ずしも「幸福」だとは「感じ」ていない。自動車にスマホ、無菌状態にパッケージされた新鮮な食べ物、冷暖房完備で虫など滅多に入ってこない部屋に住みながらも、私たちは自分を「幸福」だとは「感じ」ない。

なぜか?

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