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言葉と言葉の結合を曖昧なままオープンに -ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む

ジュリアン・ジェインズ氏の『神々の沈黙』引き続き読む。

(前回の記事はこちら↓です。
前回を読まなくても今回だけでお楽しみいただけます。)

前回の記事を多くの方に読んでいただきました↓ ありがとうございます。

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(これまでの記事の一覧はこちら↓)


ジェインズ氏の二分心説とは

まずジェインズ氏の二分心説について簡単に振り返ってみよう。

ジェインズ氏は、かつて私たち人間の「心」「命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた」と考える。

二分心の神の声は、訓戒する声、何をなすことが正しく、何をなすことが正しくないかをはっきり区別して教える声である

ジェインズ氏によれば、二分心時代の人は、変化する状況環境の中で何を為すべきかを神の声に「命じられ」ていたという。そしてそこには今日の私たちが考えるような「意識」や「意識する私」は存在しなかった、とする。

訓戒する声の始まりは、ある一人の人が他の人々の間に生まれ成長する過程で、周囲の他者たちが喋る様子を見聞きすることにある。

一人の人にとって、部族の大人や長老たちが訓戒する声を聴き、記憶したものが頭の中で「幻聴」となって繰り返し響く

仮に一緒に暮らす複数の人が、みんないつもある程度同じような「神の声」の幻聴を聞いている部族、グループでは、特別な苦労もなく、みんながみんな、同じ状況で同じ命じる言葉を幻聴し、そして同じような行動をまとまってとることができる、とジェインズ氏は推定する

ジェインズ氏は「<二分心>とは社会統制の一形態」であると書く(『神々の沈黙』p.156)。

二分心による社会統制が特に発展したのが、古代の都市文明である。都市の神殿に集まった多数の人が、何らかの儀式的なしつらえの中で、みんなで同時に同じ幻聴を聞くことができる時、古代都市とその周囲の耕地は先祖伝来の姿で美しくメンテナンスされ維持されたことだろう。

<二分心>の時代には、社会の厳格なヒエラルキーや地理的に境界を定められた居住区域、ジッグラト、神殿、像、住民に共通の生い立ちなどが全て相まって、様々な人が耳にする<二分心>の声は安定したヒエラルキーにまとめあげられていた。誰の<二分心>の声が正しいかは、このヒエラルキーによって直ちに決定され(た)」(『神々の沈黙』P.366)

* *

ところが、戦争や飢饉や疫病や遊牧や交易の発展などの要因で人々の移動が活発になるにつれ、都市には色々な人々が離合集散するようになる。こうなると、みんなが同じ「神の声」を幻聴できる訳ではなくなる。人々が生まれた都市を追われ、新たに集まって暮らし始めたり、遊牧民や交易民になったとき、二分心の「声は、人ごとに異なる事柄を語り始め、誰の声を権威あるものとすべきかという問題は非常に厄介になる」とジェインズ氏は書いている(『神々の沈黙』p.367)。

そこで神の声に代わって正しいことを判定断定する、新たな言葉が求められるようになった。

具体的には、神像を作ったり、預言者だけが聞くことのできる神の声を頼ったり、過去の幻聴についての伝承を文字に託して石碑や粘土板に刻んだり、あるいは「意識」という複数の声の異なる言葉を比喩の力を用いて比較する技術を発達させたりすることが積み重ねられてきたのである。

(「意識」の発生をめぐるジェインズ氏の説はこちらにまとめています↓)

文字は二分心の沈黙を埋め、そして二分心にトドメを刺す

特に文字は、複数の幻聴の中から、どれが一番権威ある声、正しい声であるかを選択するための策として有効であった。神の声を文字に記して、それを読むことさえできれば、いつでもどこでも誰でもが同一の意味(神が言わんとすること)を再生できるようになる。

もちろん文字も多義的であり、読もうと思えばどうにでも読めてしまうわけで、ここに正しい読み方と正しくない読み方を判別できる特権的な読み手の存在が求められる事になる。そしてある人がある一連の文字について、正解の意味と誤答の意味を判別する権限を有することを認定するのは、特権的な読み方を伝承する人々からなる組織である。

そしてそういう組織の中でも、ある文字列の正解の意味は何か、解釈が分かれることもあり、そうした場合に「どの声が正当かを判断するための記し、つまり魔術的証拠」を重視する、占いのような方法も重んじられるようになる。

二分心の神の声の沈黙後、私たち人類は、その代わりになるものを求めていたとも言える。

声から聖なる文字へ(一神教)、文字の大量複製技術としての活版印刷からの「事実」そのものを記録するとされる写真・映像へ(科学)、さらには音声や映像を電子化し遠隔通信する技術へ、そして文字でも音声でも映像でも何でもデジタル・データにして双方向リアルタイムに通信する今日のWeb状のインターネットへと至る人類のコミュニケーションとメディアの歴史の背景には、この二分心の代わりとなる「訓戒する声」を、同じ共同体に生きる人々の間で遍く共有しておきたいとする願望が隠れているとも言えそうである。

沈黙した二分心の神の声の「代わり」を作り出そうとする営みは、いずれも「確かなこと」と「確かでないこと」を区別判別することを含んでいた。

幻聴の「神の声」が何を言うかといえば、それは迷える人に、いまここで何を為すべきかを指図し、間違えると戒める声である。

文字、石板、パピルス。記号が固まり、意味も固まり

ジェインズ氏のこの説を、次のように言い換えることができるかもしれない。即ち、二分心の言葉は右(神の声)であれ左(意識)であれ、どちらも「表層」に固着する傾向を強く持っている、と。

つまり、あるAという言葉の「意味」はBですよ、という具合の、AとBという別々の二つのことを一つに結びつけるやり方を、一定の、固まった、固着したやり方に限定しようという傾向を持つ、と。

二分心の神の部分の沈黙を埋めるために、二分心の「聞く」部分だったところに「比喩としての意識」を据えたとしても、あるいは神の声の代わりに「書かれた文字」を据えたとしても、どちらも予め既に決定済みという口調で厳然とことを命じる。その声は、口調は、AはBでありそれ以外ではない断言する声である。

それは分節が完了した後の、切り分けられた後の、区切り出すという動きそのこと自体を予め終えてしまった後に残されたものからスタートするように、迷いつつ生きる私たちに迫る

断言の「有無を言わさぬ感じ」は、幻聴幻覚の場合よりも、書かれた文字の場合に、いっそう強力になる。なぜかといえば、幻聴幻覚においては「対話」の契機が常に開かれていたものが、書かれた文字になると、ほとんど失われてしまうからである

これについて『神々の沈黙』を詳しく読んでみよう。

ジェインズ氏によれば「真の<二分心>時代には、幻聴には視覚的な要素がつきもの」であったという(『神々の沈黙』p.364)。

「エロヒムのうちの最後の者が幻覚作用を起こす力を失い、残り少ない半<二分心>の人間の神経組織の中だけにある余人には聞こえ難い声でなくなり、石板に書かれた文字に変わるとき、彼は律法という不変のものと化し、誰でも近づくことが出来るもの[…]普遍的で超越的なものとなる。」(『神々の沈黙』p.365)

二分心における神の声の幻聴は、それが聞こえている人の「内部」に秘められたものである。幻聴を聞いた人は、自分が幻覚とともに聞いたその「神の声」を自分の口で再現し説明して他の人に聞かせることはできるが、聞かされる側の人たちは、幻聴を聞いたという人が実際どういう声やめくるめく幻覚を幻視したのかを、主観的に追体験することはできない

もちろん前述のように集まって暮らす人々がみな子供の頃から、同じような格好をした長老たちが同じような口調で訓戒する声を聞かされ続けていた場合には、皆が同じような幻聴を聞いていると信じることもできたことだろう。

しかし、人々の移動、離合集散が活発になるにつれ、そういう事態は成立しにくくなる。人々が互いにバラバラの自分だけに聞こえる幻聴を共有しようとすれば、「そんな話、聞いたこともない」と言う他人たちの説得を試みるという険しい道が待ち受けている。

異なる記号が指示する「誰にとっても同じ意味」という発想

これに対して、石板のようなものに文字で書かれた言葉は、「誰でも近づくことが出来るもの」である。石版の文字は固まっており、誰が見ても同じものである。書かれた神の言葉は、場所と時間と個々人の差異を超えて、いつでもどこでも誰にとっても「同じ」もの、同じ意味を、単一の意味を、唯一の正しい意味を持つものとして読まれるようになる。

さらに文字を介した翻訳もできるようになる。誰にとっても同じ文字の向こうには、その文字が表している「意味」が別にあり、その意味もまた誰にとっても同じ単一のものであるという感じがするようになる。

ここで文字とは別に、意味それ自体が一つの独立した固まったものとして存在しているという感じが生まれる。

もし意味がそれ自体として、記号とは独立に決まっているのであれば、その意味を同一に保ったまま別の文字で記すこともできる、という考えもできるようになる。


文字を介して「あらかじめ決まった意味」なるもの、すなわちどのような言語を用いるにせよ共通した「言わんとすること」が共有・伝達できるようになると、生まれた部族の言葉を超えて、書かれた神の言葉を伝承できるようになる。

聖典に基づく宗教の組織=コミュニケーション・メディアとしての強みはここにある。

ただし書かれた文字による伝達は、脳と脳を声と記憶と幻覚幻聴でつなぐ伝達から重大な契機を奪う場合もある。それはすなわち「対話」である。

「かつて語られなければならなかった言葉はもはや聞こえなくなり、視覚的に捉えられるように石に刻まれた。[…]声は以前のように頻繁に聞こえることはなくなり、対話の形式は失われていく。ヨシュアは声と対話するよりも、一方的に語りかけられることのほうが多い。そして彼は<二分心>と主観のはざまにあるので、決定を下すために占いに頼らなくてはならない。」(『神々の沈黙』P.366)

どの言語のどの文字で書いても、意味それ自体は同じ(はず)、という考え方ができるようになると、ここに会話の中で言葉の意味をすり合わせ仮設していくようなプロセスは必要がなくなる

意味は決まっているべきなのだから、あとは誰がより早く、確実に、その決定済み断定済みの意味に接近できるかが問題になる。

文字にせよ、占いにせよ、どちらも複数の声の中から、予め決まっているはずの正当な声を選び出すための技術なのである。ここで意味ということは、あらかじめそれ自体として決定しており、つど隣同士にいる人の間で記号を交換しながら、アドホックに「ああでもないこうでもないと」新造できるようなものではない、と想定される。

誰にとっても同じ(ような)意味の訓戒する言葉を広める上で、二分心の「神」の幻覚幻聴に頼る方法よりも、「決定済み」の「意味」を召喚する書かれた文字を利用する方が効果的であったと考えられる。

そしてこの書かれた文字からあらかじめ決定済みの正しい意味を再生することが通用するためには、前提としていくつもの声の中には正しい声と、正しくない声がある、と言う信念、いくつもの声があるが、その声たちの間には正当さのヒエラルキーがある、という二分心由来の信念がある

印刷、活字、大量生産、科学、インターネット、SNS、二次的な声の文化 ーあらかじめ正解がないところで、あれかもこれかもと臨時の答えを仮設する

言語というシステムの本性からすれば、多様な声が次々と発生分化していく姿こそが本来のあり方である。言語の意味する働き、即ちシンボルとシンボルを互いに「つける」働きは、自在にあらゆるシンボルを結びつけるコノテーションの作用を深層に含むことで初めて駆動している。

ところが、日常の常識の社会を再生産し続ける言葉においては、この深層の自在なコノテーションの多くは沈黙させられる

深層のコノテーションの言語は表層のデノテーションの言語へと圧縮されて流通している。

ここにある言語はデノテーションであるべきだ、という信念の発端は、他でもない二分心にある。

言葉は、私たち一人一人が自分一人で孤独にゼロから編み出すものではない。他者から、身近な他者から、他の子供たちから、大人たちから、長老たちから、部族の祖先たちから、かつての死者たちから与えられたものであるということ。
死者たちの声の残響を聞き、記憶し、憑依されてこそ、はじめて私たち一人一人はその耳で意味ある言葉を聞き、意味ある声を発することができるようになる

意味分節は、与えられたシンボル同士の区別と置き換えのパターンから始まる。二分心の訓戒する声こそ、この意味分節のパターンの最初の一撃となる。

二分心はもちろん、二分心の代役として始まった意識も、文字も、占いも、原初の与えられたパターン、あらゆる意味分節が最終的に「そこ」に還元されるべき、唯一の正しい分節、善と悪の分節、真と偽の分節を求めようとする衝動とともにあり続ける。

ジェインズ氏は次のように書く。

<二分心>が崩壊しても、世界はいまだ神々に支配されていたと言ってよい。<二分心>時代の言葉や法律や掟は、石碑に刻まれ、パピルスに記され、長老たちに語り継がれて依然として生きていた。」(『神々の沈黙』p.388)

もちろん文字や石碑だけではダメである。それを繰り返し読む人間たちを確保し続けることも必要である。秘伝の文字を読むことを学びつつある人類の子供たちは、書かれてはいるものの実際には聞こえない神の声を、なんとかしてもう一度聞くことができないかと試みることになる

「絶対的な権威という失われた大海原と、なんとかして繋がろうとする様々な手立てが編み出されていった。預言者、詩人、神託者、占い師、偶像崇拝、霊媒、占星術師、霊感を受けた聖人、悪霊の憑依[…]いずれも<二分心>の名残であり[…]」(『神々の沈黙』p.388)

そして現代の、ロゴスの論理に基づいて客観的事実のみを記述しようとする科学もまた「森羅万象の比喩を見つけてそこに意識の上でなんらかの親近感を覚え、それによって宇宙の中で居心地の良さを得ようとする哲学の努力」の表れであるという(『神々の沈黙』p.387)。

ジェインズ氏は次のように書く。

「その昔、幻聴の声が持っていた有無を言わさぬ力に、うわべだけでも似通った拘束力を持つものに、私たちは従いたいのだ」(『神々の沈黙』p.387)

科学に基づく技術が地球の自然環境の複雑なシステムを乱し始めてしまったと気づいた今日の世界では、科学的な認識もまた、極めて有用ではあるが、あくまでも一つの意味分節システムに基づくモデル化、シミュレーション、ジェインズ風にいえば「比喩」であり、それ以外のモデル化、シミュレーションの可能性、ジェインズ風にいえば別の「比喩」の可能性、他で多なる意味分節の可能性もまたあり得るはずだということが明らかになりつつある。

比喩の力の使い方の再設計へ

意味分節を出来合いのパッケージすみの完成品として要求するのではなく、複数に分化しつつある異化の可能性の束として確保しておくことができるかどうかが、今、現代の大問題なのである。

意味分節システムが植え付けられ、発生する、その様態はコミュニケーション・メディアのインターフェースの設計の仕方で変わる

私たちの「意識」をもその一つ比喩の表現として含む言葉の意味分節システムが発生し、まとまった形を成すようになるのは、日常的なコミュニケーションを通じてである。

日々、目覚めている時間の多くを他者たちが繰り出す言葉の、象徴と象徴の変換操作に触れることに費やす私たちは、他者たちが行っている象徴と象徴の変換パターンを知覚し、記憶し、真似る。

そうして形成される象徴の組み合わせ方、ジェインズ風にいえば「比喩」の立て方の一つのパターンとして、「私」や「意識」といったものも発生してくる。

ここで日常的なコミュニケーションを実現しているメディアの配置が変容すると、私たちひとりひとりが日々遭遇する他者と、その象徴変換のやり方もまた変容する

声、文字、石板、パピルス、伝承、口寄せ(憑依)
聖典朗誦、
印刷技術、大量生産された聖典、大量生産された辞書
新聞、テレコミュニケーション(遠隔通信)、電信

一対一の電話からチャットへ
一対多の、ラジオ放送、テレビ放送、マスメディア
インターネット、Web、キーワード検索、SNSに、「二次的な声の文化」

言葉の意味分節システムを固着させてしまうことが、分断と不安の根源であるとすれば、来るべき象徴と象徴の変換関係を発生させるコミュニケーション技術は、無分節にして未分化でありながら分化しつつある「無」を経由して、分節をつどつど分化・発生させる仕組みを組み込むべきなのだ。

この来るべき象徴と象徴の変換関係を発生させるコミュニケーション技術は、そのアルゴリズムの中核に「比喩」の発生装置を含む必要がありそうである。

比喩とは、ジェインズ氏が書いているように、言語において、言説の領域において、「新しいものを生み出す」方法なのである。

比喩の<連想投影>には新しいものを生み出す能力がある[…]。<被比喩語>と呼ばれる馴染みの薄い言葉があって、それを説明しなければならないとき、なんらかの点で<被比喩語>と似ている、もっと一般的な言葉<比喩語>を当てはめる。たいてい<比喩語>には、それを聞いただけで連想されるものがある、それを私は<比喩連想>と呼んだが、今度はその<比喩連想>が逆に投影されて、元の<被比喩語>から連想されるものとなる。この新しい連想を<投影連想>と呼ぶ。このような<投影連想>は、<被比喩語>と新たな連想の絆を結ぶという意味で、新たなものを生み出す能力があると言える。(『神々の沈黙』p.312)

この辺りの話は↑の記事に詳しく書いているのでご参考にどうぞ。

無意識のうちに次から次へと言葉が言葉を呼び、それを口にするという比喩の創発的なあり方はレヴィ=ストロース氏のいう「神話的思考」の姿と重なる。これは中沢新一氏が「レンマ的知性」と呼ぶもの(私たちの日常を成り立たせているロゴス的知性の奥底に隠れて動いている、互いに異なる言葉と言葉を自在に繋いだり一つに重ねたりする働き)とも重なる。

意味分節システムを発生させ、創発させ、進化させること。

そのためには「正解」があらかじめ与えられていないのかもしれないという恐るべき可能性に戦慄しつつ、自在な言い換えを試し続ける比喩の力が、私たちの日常のリアリティを再生産し続けるコミュニケーション・メディアの中に組み込まれなければならない。

意味の最小単位である対立する二項関係の間で、どちらとも言えない曖昧ない中間状態を維持しつつ、ひとたび未知の何かに遭遇した瞬間に、素早くそれを「どちらか」に判別して応答する。このシンボルの結合を曖昧なままオープンにしておける能力こそが人類の知性のエッセンスなのかもしれない。

人類の知性の最大の強みは、「正解を決めるけれど決めない」「正解を決めないけれど決める」という曖昧な宙ぶらりん状態を保ちつつ、周囲の環境を観察しながら最適解を変更し続けることができる点にありそうである

二分心の沈黙後に花ひらいた「比喩」による創造

比喩の言葉は、神々が沈黙してしまったところでも、それでも生き続ける人々に新たな意味を提供したのであった。ジェインズ氏は次のように書いている。

「混乱がもたらす試練に傲然と応じたのが偉大な叙事詩であり、難民の野営地を転々とする吟じ手が詠唱する長大な物語が、失われた心の拠り所を取り戻そうとする新たな流民に、離散前の過去との熱烈な一体感を呼び起こしたことは十分に考えられる。詩とは、未発達な心の中で溺れかかっている人間が取りすがる筏なのだ。[…]荒廃した社会の混乱状態の中で詩の持つこのような意義によって、ギリシアの意識は異彩を放ち、今なお私たちの世界を啓蒙する輝かしい知性の光となった。」(『神々の沈黙』p.306)

ジェインズ氏は初期の「意識(という比喩)」の様式を探るために、古代のいくつかの言葉の意味の変化、象徴作用の変化を丹念に追いかけていく。

時間に空間性を持たせる基本的比喩や、精神的空間の中の人格のような内面的ヒュポスタシスの基本的比喩が誕生し、日常生活の導き手や後見人の役目を果たすようになった」(『神々の沈黙』p.339)

例1) Thumos

二分心時代には「外部から知覚されるままの活動」を意味する語であったという。これが「「器」のようなものを言外に匂わす比喩」になり、誰かの「thumos」に「活力を入れる」といった表現が出てくるという。

ここに「胸の中」のような「想像上の「空間」」が生み出される。これが内面の空間に喩えられる意識の始まりである。

例2)Phrenes

二分心時代には「肺」を表す語だったものが、人体の周囲の状況に応じて変化する「呼吸」というニュアンスを得、そこからさらに”phrenesが「出来事を知覚する」”という比喩が生まれる。この比喩によって、phrenesは比喩的に知覚の主体や人格のようなものという<投影連想>を得る。

ジェインズ氏は他にもnoospsycheについても同様の検討を行なっている。ご興味ありましたらぜひ文献に当たってみてください。

こうした比喩たちが、<心の空間>の中に「「いろいろな時間」を一つにまとめて納め、「nose」の「目」を使って自分や自分の世界の中を「見る」」というような言い方を可能にする(『神々の沈黙』p.347)。

この比喩としての、例え話としての<心の空間>に対して、そこに「格納されるもの」「入り込むもの」という類の比喩が登場する。それが「psyche」であるとジェインズ氏は書く(『神々の沈黙』p.349)。いわゆる「魂」である。

「魂」が、このように<心の空間>という器の中に入れたり出したりできる何かという例え話であるが故に肉体の死後、「魂」は肉体の中の<心の空間>から解き放たれ、どこへいくのだろうというような疑問が言語システムの中で分節化されるように、できるように、なる

ここに「一つの肉体を離れ、別の肉体へと乗り移ることができる魂」という比喩(例え話)もまた発生するのである(『神々の沈黙』p.351)。

意識も比喩、魂も比喩。それはら言語の意味分節システムの中で、謎めいた言葉を既知のシンプルな言葉(例えば器、入れ物、中身などなど)に置き換えるところから発生した

ジェインズ氏は次のように書く。

「この変化がただの言葉の変化にすぎないと考えてほしくない。言葉の変化は概念の変化であり、概念の変化は行動様式の変化なのだ。」(『神々の沈黙』p.353)。

シンボルの結合を曖昧なままオープンに

私たちは、実は二分心が発生する以前から沈黙した後の今日に至るまで、ずっと「難民の野営地」を彷徨っている。

神の声の代わりになりそうなものを取っ替え引っ替え持ってきてはみたものの、それはあくまでも代わりになりそうだったと言うだけで、代わりにはならなかったのである。

難民の野営地」に必要なのは詩のような言葉、つまり比喩の力、象徴と象徴を自在に結びつけ直す余地を開き続ける言葉、分けつつつなぐ、二にして一にして二の中間的な言葉である

私たちの「意識」という比喩もまた、そうした中から始まった。

しかし二分心の神の声のような断定を求める人類は、すぐにそれが比喩であることを忘れ、つまり他の喩え方の可能性にいくらでも開かれていることを忘れ、それを新種の断定、新種の唯一の意味として扱うようになってしまった。言語的に分節された項への妄執である。

二分心の沈黙の後で、二分心の訓戒する声を再び聞きたいと求めてしまう人類の間では、言葉はその本来のコノテーション的な創造力(シンボルとシンボルを自在に繋ぎ直しつつ、つなぎつつ繋がないという曖昧な中間状態を保つ力)を封じられてしまう。そして言葉はデノテーション的な、特定の意味分節体系へと固着した妄念への妄執という姿をとるようになる。

不透明で曖昧で不安な世界、二分心の神の声が選ぶべき正解をあらかじめ断言してくれることは当面無いだろうと思われる世界において、それでも人類が集団で生き延びていこうとするのであれば、二分心の神の声の訓戒する声(とその代り)の存在を前提としないところで、社会関係を発生させる術を開発しなければならない。

それは言葉の技術であり呪術であろう。

言語が、妄念への妄執から離陸して、人の知性を拡張することに寄与するとすれば、それは言語が曖昧で宙ぶらりんなまま両義的でどちらでもあってどちらでもないことを延々と口と耳の間に響かせることが許される時空間が確保されている場合に限られることだろう。

言葉と言葉の区別と置き換えを試行し仮設するための特別なコミュニケーションの場を共同体の中に実装しておくことができるかどうか。そこでは詩のような象徴と比喩言葉のその先で、私たちの身体としての脳が他者たちが行っている象徴変換による「比喩」として形成される「私の意識」なるものの様式ももっと曖昧で中間的で複数的で動的な姿へと変容していくことだろう。

例えばインターネットのような最新の技術の上に、そうしたシンボルの結合を曖昧なままオープンに保ち続けるコミュニケーションの場を仮設できるかどうか。

これは人類史上、稀に見るおもしろい課題なのかもしれない。

それはもちろん、正解のない課題である。


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