象徴”以前”の三元論-中沢新一・河合俊雄著『ジオサイコロジー 聖地の層構造とこころの古層』を読む
中沢新一氏と河合俊雄氏による『ジオサイコロジー 聖地の層構造とこころの古層』を読む。特に「こころ(心)の古層」について考えてみたい。
これがこの本の冒頭に掲げられた問いである。
「こころ」のはじまるところ
中沢氏は「こころ」(心)ということを”全体が均質に働くひとつのもの”とは考えない。「こころ」(心)には、いくつかの異なった働き方があり、それらがつながりあい、もつれあい、重なり合っている。
この「こころ」の多様で複雑な複合性を記述するために、仮に「こころ」を地球の大地の地層になぞらえて、層状の構造として考えてみようというのが「ジオ」+「サイコロジー」である。
*
心の深層
それではまず、こころ(心)の一番深い「層」、そこが他の諸々の心のあり方を動かし支える基底になるような、心の深層とはどうなっているのだろうか?
中沢氏は次のように書かれている。
まず、心の深層がなにでは”ない”か。
心の深層には、象徴的構造が入り込んでこない。
心の深層には、言語の力が入り込んでいない。
心の深層には、主体と客体が作り上げる構造がない。
心の深層には、対象を生み出す意識がない。
心の深層には、主体を作り出すもの(トラウマ)がない。
象徴的構造、つまりあれこれの「意味」を固める傾向にある意味するモノたちの配列が、心の深層にはない。
*
通常、日常的に心といえば、私たちは「アレが無いとか、コレが欲しいとか、ソレは嫌いだとか、ドレをどうしよう・・」などなどと、アレコレの事柄に思いを巡らせ、それらを手に入れては喜び、失えば苦しみ、失う可能性を前にして未だ失っていないのに苦しくなったりする(執着)。そうしてその苦しみに言葉がまとわりついてくる。
このアレコレのひとつひとつが、この文脈でいえば「象徴」にあたる。
象徴は「意味するもの」と「意味されるもの」のペアを最小構成として成り立っている。象徴においては、ひとつひとつの意味されるものの意味が定まっており、しばしば強固に固着している。
意味するモノ =/(分けつつつなぐコト)/= 意味されるモノ
言葉もまた、この関係のなかで、意味するものの位置を占めたり、意味されるものの位置を占めたりする。そうした言葉の代表例が、主語の位置を占めることができる言葉たち(「主体」の名や属性や起源を説明する=言い換えることができるありとあらゆる言葉たち)であったり、目的語の位置を占めることができる言葉たち(「客体」「対象」の無や属性や由来を説明する=言い換えることができる言葉たち)である。
* *
そういう象徴がない、言葉がない、というのが、心の深層である。
心の深層には、言語構造が入り込んでいない。
心の深層には、イメージの固着も起こっていない。
心の深層には、執着がない。
心の深層にはなにがある?
心の深層には、およそ意味あるものとして固まったものがない。
心の深層には、固まった意味あるものはない。
では、心の深層には”まったくなんにもない”のかといえば、そうでもない。
心の深層には何かが”ある”。
何があるのか?
それについてははじめに引用した一文には次のようにある。
象徴構造をそこから発生させる「大元」となる「運動」が、心の深層で動いているという。それは「心」が、象徴の秩序ある静的な体系という”制限された””貧しい”形態に固まる「前の状態」である。
心の深層と、深層ではない領域(深層に対する表層と言おうか)との関係は、次のようになっている。
象徴”以前” / 象徴
||
動いているか / 固まってしまっているか
||
心の深層 / 心の表層
*
心の表層・象徴たちの関係が固まっていく世界
心の深層に対する表層は、象徴たちが固まってできた世界である。心の表層では、ある象徴の意味が定まり、あるイメージの意味が定まり、諸々の象徴たち、イメージたちが秩序立って配列されている。その配列の中心には、”それ”のために命を落とすことさえ惜しくないと思わせる、あらゆることに圧倒的に肯定的な意味と価値を与えるハイパー象徴が鎮座している。
心の表層の象徴たちの配列=体系は、次のような四者の関係を最小構成単位としている。
図宙、A、B、非A、非Bとある位置に、それぞれ違った象徴が入る。
ここでAと非Aは真逆に対立する価値をもち、Bと非Bも真逆に対立する価値を持つ。
例えば、下記のような具合である。
A神聖な事柄 / 非A 汚れた事柄
|| ||
B求めるべき事柄 / 非B 厭うべき事柄
それぞれの象徴は、言葉による名前をもち、言葉によりその由来や起源や価値を説明され、またビジュアルイメージを伴う。
この”象徴の対立関係の対立関係(四項関係)”を固めつつ、心の表層の「識」のようなことが、ある固定的な形に織りなされていく。
* *
この心の表層の特徴として、中沢氏によれば、象徴が増殖するということがある。最小構成単位である四項関係が次から次へと接続していって、多次元の格子状に組み上がっていく。
象徴増殖の禁止
中沢氏によれば、この象徴体系をあるところで固定し、それ以上、新たな象徴たちが増殖していくことを禁じたところに「一神教」が始まるという。一神教的な意味の秩序は、他の全ての象徴をそこに置き換えることができる唯一無二の象徴を持っている。
これを心の表層の屋上部分とでも言おうか。
心の深層の運動
以上のような象徴の「固定(実体化といってもよいかもしれない)」を目指す心の表層に対して、心の深層は動いている。
* * *
分別一辺倒で世界に裂け目ばかり作っていくのではない動き。
そういう”動き”がどういう動きであるのかを説明するものとして、ちょうど下記のような図3がある。
この図は仏教でいえば、密教の胎蔵曼荼羅の中台八葉院の構造でもあるし、空海の『吽字義』に記された構造でもある。
この図についての詳しい話は下記の記事に書いていますので参考にどうぞ。
図3のA、非A、B、非Bは、先ほどの図1のA、非A、B、非Bと同じである。
図1では、A、非A、B、非Bという四つの項(いまの文脈でいえば象徴)が、予め端的にソレ自体としてあり、格子状に並べられているように見える。
これに対して心の深層では、A、非A、B、非Bという象徴たちが「ない」ところから発生して「ある」ようになり、それら象徴たちの関係が展開してくる運動が問題になる。
この運動を人間の言語でもってモデル化=記述する可能性のひとつとして、図3の四つ赤丸で示した四つの「不可得」が、たがいにどれがどれだか区別がつかなくなったり、またどれがどれか区別がつくようになったりする運動のプロセスを描くことがありうる。
図3で言えば、A、非A、B、非Bの四つの「象徴」と、A/非A不可得、非A /非B不可得、B/非B不可得、A/B不可得の四つの「象徴以前」。
象徴と、象徴以前の関係について、中沢氏は次のようにも書かれている。
現実世界は二元論、というのは、現実世界というものが、さまざまなA /非Aのような二項対立同士が複数(最小構成で二つ)重なり合ったところではじめて意味あるリアルな世界として生じるということだと解釈しうる。
これに対する「第三」とはどういうことだろうか。
「第三」は、二元論つまりA、非A、B、非Bの四つの「象徴」が格子を形成する”平面”にはない。「第三」はこの平面を「上か下へ」出ている。
上か下へ、というのがとてもおもしろい。
上であって下ではないとか、下であって上ではない、などとは言わない、上だか下だか、上でも下でも、「どちらか」を決定することは”不可得”である。「第三」は図3で言えば、赤丸で示した四つの「不可得」、Aか非Aか不可得、非Aか非Bか不可得、Bか非Bか不可得、AかBか不可得、という四つの不可得が1セットになったものにあたる。第三は一であると同時に四であり、一でもなくもなく四でなくもない。
二次元平面に図示する都合上、図3では、A、非A、B、非Bも、Aか非Aか不可得、非Aか非Bか不可得、Bか非Bか不可得、AかBか不可得も、同じxy平面上にあるように見えてしまうが、ここは後者、四つの赤丸は、xy平面の奥や手前の事柄だと見ていただければよい。
まとめ
以上を整理してみよう。
人間の心はどのように発生してくるのか。
いわゆる日常生活を経験していると感じられるリアルな心は、図4でいえば1)である。1)は二項対立関係の対立関係としての四項関係(象徴の四項関係)を最小構成単位として、この象徴の四項関係を増やしたり減らしたりしながら織りなされていく。ここで象徴たちが増殖することをよしとせず、ある一定の決定的な象徴群でもって世界を経験していこうとすると2)の一義的固定的象徴によって強く固定された意味の世界が再生産されつづけるようになる。そこで日常の経験的世界はより「節度ある」ものに安定する。
ところが、この1)や2)の心がそのような心として存在することができるようになるためには、0)の心、象徴以前、深層の心が動いている必要がある。
もしわたしたちが、言葉や、イメージや、その意味に「執着」してしまい、ある二項対立関係や四項関係を固定的で絶対不変のものだと思い苦しむことがあるとすれば、0)を、心の深層の動きを、自らの心の深層が如実に動く動きの痕跡を、象徴たちの向こう側に、意識の表層の直下に影絵のように浮かび上がらせるという形での「悟り」の可能性がある、と言えようか。