宮崎駿と祖母と、マック。海辺の街から

しばらくぶりに正常な暑さだった。窓を全開にして緑の中を走り抜け、映画を見に行った。信号に止められるたびに蝉の声が車内に入り込んでくる。木々の向こうに見える公園で親子が遊んでいるのが見える。どの水準であれ正常さはあって、私が気づかないだけなのだ、と思う。触発がいつも複数形で、それを嫌いながら、私自身、いつも複数形の触発に助けられてきたのだ。

いっしょに過ごしていた祖母は10年前に死んだ。7月10日だった。メニエールに悩まされ、部活の帰りに電柱に寄りかかって倒れた夏だった。公立中学校は新しく建てられたばかりで、とても広い廊下と開放的な図書室を備えていた。いまでも時折夢にみる。

私の家族で、戦争時代を経験したのは祖母だけだったと思う。昭和10年生まれで、夏になるとよく私に海のことを話してくれた。小木という地名を有する海辺に(今でも)砂地がある。そこまで中学時代の友達と泳いでいったのだという。闊達な祖母で、バブル崩壊後にひとりで会社を操舵してきた。母家を離れ、紫陽花の植わった庭を横切り、紅葉の木と木苺の隣を通り抜ければ、祖母の会社があった。そこではおおよそ同じ町内の祖母の友人が集って仕事をしていた。小学校の授業が終われば、祖母の会社へ寄り、そこでおばちゃんたちと良く話をした。祖母はしばしば1階で経理の仕事をしたり、掃除をしたりしていた。今ではその1階は駐車場に代わってしまった。

嫌なことがあると、私は会社の4階——生地や着物や、仕事に使うのだろう細々とした品物がうずたかく積まれている——にのぼり、そこで泣き腫らしたりした。放課後になって、夕食の時間になっても帰ってこない私を心配した母が探しまわっても見つけられない場所だった。

ある日、確か夏休みも終わりに近づいていた頃だったと思う、祖母に事務室に呼ばれて、掃除を手伝った。生地の端切れが詰め込まれた70Lのゴミ袋の開口部を縛ってほしいのだという。なんとか固結びができるように懸命に生地を押し込んでいたところ、祖母が一緒に生地を押さえ込んでくれた。膝を使って全身でゴミを圧縮し、開口部を縛るその祖母の力強さに驚いたことを、いまでも覚えている。

それより少し遡って、保育所へ通っていたころ。自転車で約10分ほどのところにあるその保育所へ、たびたび祖母が送り迎えしてくれた。母もようやく仕事に復帰したころ——私は4歳ごろである。祖母は自転車のペダルに片足を乗せ、もう片方の足で地面をとん、とん、と2度蹴り、そして初速が付いたその瞬間にサドルへと跨るタイプの乗り方だった。そのころの夏はいまほどの異常な熱波は珍しく、細ま切れにされた竹で編まれたゴザのうえで扇風機を回しながら寝ていられるほどの気温がほとんどだった。かすかに汗ばむ祖母のリネンシャツを認めながら、保育所までの道のりを自転車のうえで軽やかに通り過ぎた。

祖母の葬式には斎場に入りきらないほどの人が押し寄せた。山あいに位置するその町唯一の斎場の帰り道は車が列をなし、渋滞を起こした、と人づてに聞いた。いつも水曜日か木曜日には……月曜日も……午後には祖母の友人が家に上がって麦茶を飲んでいたし(祖母の淹れる麦茶はおそろしく濃い。ほとんどコーヒーのようでさえある)、電話もそういえばひっきりなしに鳴って、祖母が受話口でよく長話をしていたと思う。毎年夏には祖母宛のお中元がどんどん届き、私はカルピスを濃いめに飲むことができた。その影響か、揖保乃糸はほとんど買わずに済んだと思う。家庭菜園で植えたトマト、勝手に生えてくる青紫蘇、あらぬ方向へ曲がった自家製のきゅうりを夕方に収穫して、そうめんをよく食べた。大きな柿の木が庭には植わっていて、その裏には小さなスミレが咲いていたのだ。これはきっと私しか知らない。

そんな祖母は最終的に脳へ転移したガンによって息を引き取った。とても力の強かった祖母が日ごとに衰弱していく様子、そしてその様子を町内に知られるのをよく思わなかった親族が、祖母を金沢の大きな病院へ転院させた。それまで入院していた病院は車で40分ほどだったので、金曜日の晩や土曜日の昼ごろに見舞いに行っていたのに、金沢に転院してしまってから、1度しか見舞いに行くことができなかった。

転院前の病室からは青々とした緑が見えて……確かあれば5月ごろで……、祖母が私に「どうや、まだまだ強いでしょう」と言いながら握手をしてきた。それまでの燃えるような体温の祖母の手を思い出しながら、病室を後にした。

それまでにも何度か入院と退院を繰り返していたのだが、最初の頃の入院を経て、一気に祖母の認知症が進んでしまったのだった。エアコンのリモコンを指しながら、私に「テレビがつかない」と訊いてきた。A4のコピー用紙を小さくカットし、そこに油性マジックで「エアコンのリモコン」「テレビのリモコン」と書いた紙を貼って渡した。綽綽とした祖母の目つき、達筆に暑中見舞いの返事を出していた祖母の手はそのときもう薄く、私は幼いながらに認知症の(あるいはガンの脳転移のせいかもしれなかった)進行を目前で見ていた。周囲から向けられる憐みとも同情ともつかない視線を感じながらも、その当時私はメニエールに由来する重度のめまいと吐き気と、そして成績維持のプレッシャーに悩まされていた。塾はほとんど通わず、自力で定期テストの点数を500点満点中450点以上に保つのはそれなりの労苦がともなった。部活を終えて、水分不足も相まってか、家まであと数十メートルというところで恐ろしいほどの眩暈……浮遊性と回転性の入り混じった眼振を伴う……に襲われて、ほとんど地面を這いつくばるようにして家に入り込んだ。

その数日後だったと思う。祖母が亡くなったのは。最後に祖母にあったとき、月光が差し込む病室で、近しい家族の呼び声にも反応しなかった祖母が、唯一私の声にだけ、目を開けて、私の目を覗き込んだのだった。私の記憶では、祖母のいた病室のすぐ後ろに海が広がっていて、夜の闇に飲み込まれた紺碧の海が月光を受けて私に静寂を返していた。

祖母はほとんど戦争について教えてくれなかった。当時10歳だったことを考えれば……戦地から遠い石川県だったことも含めてか……、そう多くを語ることはなかったのかもしれない。それなりに名家の生まれだったこともあり、食べることにも困らなかったのかもしれない。高等学校まで進み、嫁入りした祖母の青春時代は、私にとっては唯一、海での泳ぎしか残されていない。

それ以降の目まぐるしい高度経済成長も、きっと私の母と父が経験しただろうバブル期も、私にはまったくと言っていいほどあずかり知らない時代である。母の実家に飾られたハワイの写真や、たびたび母が私に語ってくれる大学卒業後の家族旅行——イタリアでパスタを食べすぎて祖父がそれ以降パスタ嫌いになったことなど——、あるいは私とおそらく同じ歳ごろの母が当時の繁華街まで足を伸ばしてDiorのファンデーションを買いに行っていたこと。実家にある、母がワイキキで買ったというルイヴィトンのキーポルや、アメリカへの留学時代の写真、父の持っているスキー道具一式などから、当時の雰囲気をわずかながら窺い知ることはできるとはいえ。

ともかくも、私にとっての幼年期は——凄絶な言語訓練や、きっと私の性格形成に大きく関わっている大学病院の研究室の一室などを除いて——、海沿いの小さな町での生活である。

その後、高校進学に伴なって金沢へと移り、地方中枢都市で(とはいいながら文教地区に近い閑静な住宅地で)3年間を過ごすことになる。この22年間、私が経験してきた時空間は、ほとんど自然災害のない——こういってよければ穏やかな——ものだった。6歳になるとき、ほとんど唯一、大きな地震を経験したものの、割れた食器と私を抱き上げた父の腕のみしか、私の記憶には残っていない。東日本大震災のとき私は腹痛で(おそらく精神的な原因の)学校を休み、ベッドに横たわっていた。長く微かに続く不穏な揺れに異常さを感じ、2階の80インチのプラズマテレビをつけたとき、東北でとてつもない災害が起こったと知った。

その後、母と病院へ行き、生活用品を買い足したあと、17時ごろに家に戻るとあのACのニュースと、確か千葉あたりのガスタンクが爆発した映像が居間で流れていた。

それから、薄く引き伸ばされた——十分に酸素は残っているのに、どうも息苦しいような——日常を生きているような気がする。祖母の死後、より一層勉学に励むことになった私。私と祖母がそれまで手入れをしていた庭は荒れ、それまで咲いていたスミレも、紅葉の木の隣の薔薇もスイセンも、いなくなってしまった。かつて近所の同級生とよく遊んだあの庭は、いまや萎縮し、冬には大量の雪が春先まで憩う場所になった。ちょうどその時期は私が父からiPadを買い与えられ、大量のネットミームや掲示板、Twitterを知ることになる時期なのだった。

もちろん、それまでもインターネットを経由した情報には多く触れてきたし、小学校にあがる少し前、父は私にローマ字とキーボードの使い方を教えてくれた。2階のとても大きなプラズマテレビのとなりで、パソコンを起動して、父とブラウザゲームをしていた。

受験勉強の合間にTwitter上の……むしろYouTubeの方が多かったかもしれない……じつに多種多様な生活に、音楽に、画像に、芸術に、言葉に、人々に、触れるようになった。レディ・ガガに出会い、それ以降私はずっとBorn This Wayを聴くことになる。そして、自称ゲイの大学生、その後おそらく自殺してしまった若い医者、おそらく京都在住だったネトウヨの高校生、親に隠れてTwitterをしていた女子中学生、とさまざまな人とインターネット上で話すことになる——彼らの亡霊はいまも私の遠くや近くにいて——。彼らとはもう今では話すこともない。あれだけ多くの夢や悩みを語り合ったにも関わらず、不思議と悲しさも惜別の情も悔恨も湧かないのだった。その当時のインターネットといえば、形容しがたい気恥ずかしさと優越感と、狭くかつ同時に限りなく広い洞窟で天井で、熱帯雨林で同時に北極圏だった。漠々とした凍てつき燃え盛り湿っぽく乾いた海で、大地で、空だった。私たちは望めばいつでも自由滑空をして、サン=テグジュペリさながら夜間飛行を何度も繰り返し、ときおり停留地、偶然にも隣に居合わせたユーザーととめどなく話をしたものだった。

宮﨑駿のみならず、私が触れてきた作品——たとえば、ヘミングウェイの『老人と海』、有島武郎、三島由紀夫の『午後の曳航』、そして何より江國香織——、それらの作者と私は遠く隔たって、私は彼らの言葉をまるで眠りにつく前のお伽噺のように受け取ったのだった。そのなかで江國香織のみが、私とともに生きる言葉で、よく私は江國香織の本を授業のあいまに読んだ。ほかにも『グラスホッパー』や『塩の街』、あるいは『宇治拾遺物語』『落窪物語』などもよく読んだのだが、私にとっては江國香織の『デューク』や、満たされた女たちが残していく些細な悲しみと喪失の物語のほうが、血管の隅々まで行き渡っていくのだった。

いつもどこかで何かを失いつつあるような……私と祖母の庭、柿の木の裏のスミレ、Twitter上で生まれ消えていった夜間飛行……そのときを生きてきた私と、宮﨑駿の最新作がいまここで確かに共有されることは、私には受け止めがたいことだった。片手にアールグレイのタピオカティーを、右側の空席にはユニクロで買い足したコットンのタンクトップがあるこの状況を。それでもなお、私の人生には相変わらずあの海辺の小さな街があって、その不思議な飛躍を、今でもまだ辿り直せずにいるというのに。もう今では、あの街は私にとって宮崎駿の描く物語のようなものだった。『崖の上のポニョ』よろしく、宗介によく似た同級生がいて、母の実家には『ナウシカ』の腐海のごとき森が広がり、初夏に採れる新じゃがいもときゅうりのみずみずしさと、だらだらと続く道、ぽつぽつと……30分にひとつ……通り過ぎるガソリンスタンドかコンビニ。相変わらずあの街に帰れば、コンビニは30分にひとつしかない。ほぐされた清潔なリネンシャツか、もう骨のない焼き魚のような街の時間。飛行機に乗り、あの街に帰ればいつでもそうなのだった。にもかかわらず、私のなかでその記憶と、いまのこの丹念に希釈された怠惰な圧迫感、半透明な災害の連続が繋がらない。

あの街と……夏になれば宮崎駿が金曜ロードショーで流れていた……、いま私が向き合っているフランス語の文献や法外な値段のつく現代アート、エアコンの効いた部屋が、いまなおここで、この日本の夏に、共存していたということに、今更ながら驚くのだった。

劇中で登場する老人が少年に残そうとした積み木。私ならばどうするだろうか、と思う。もしあらすじだけを教えられて、目の前に積み木を置かれたならば、きっと私は積み木を手に取って、構成を考えただろう。

けれどいま、宮崎駿の言葉を見たいまその積み木を手に取ることはできないような気がする。依然として私は戦争を知らず、バブルを知らず、したり顔の大人たちから「失われた30年間」と言われたいまを生きている。

私たちは何かを失い続けているようだけれど……Twitter上で何度も繰り返し目にする自民党政策の失敗、蒙昧な老人たち、コンビニに突っ込むプリウス、過去最大の税収に奨学金への課税、インボイス制度、孤独死、先細りしていく文化芸術……、私は失ったというより、失うことすらも失っている気がする。正確にいうならば、失い損ねているのだろう。

得たこともないのに失う私たちの心境と、物心がついた頃にきっと多くのものを失い、戦後日本のアニメーション文化を牽引し、数多くの金字塔を打ち立ててきた宮﨑駿氏の心境と。それは私にとって、あの海辺の夏とこのコンクリートジャングルの温室の取り合わせのようである。まるでお中元の箱にうやうやしく詰められた羊羹とゼリーのようなものだ。羊羹とゼリーは互いに緊張しながら、それぞれの自己紹介をしている。私は小豆と砂糖でできていて……ぼくはゼラチンとフルーツでできています……。

自分達で自分達の海辺を作り出してしまえればいいのだけれど、どうにもこの夏は暑い。それに私はクリスマスがとても好きだし、父の子供心に触れ、家族団欒をその取り合わせの歪さのなかで過ごすあの特別な2日間を、私はずっとずっと大事にしたいと思っている。サンタさんは私の中でずっと生き続けている。

映画を見終わって、いくつかの買い物を済ませてから駐車場へ向かい、部屋へと車を走らせる。かつての海辺の街では、一番近い映画館まで2時間かかった。そのとき運転していた父や母や、たまに母方の祖父や祖母や、そして道中のマックやガソリンスタンドを思い出す。懐かしくなって、不意に泣きそうになる。

マックは県庁通りにココスやゲームセンターと同じようにして並んでいた。たしか150円ほどでハンバーガーとドリンクを頼めた気がする。すぐ近くにスーパー銭湯もあって、そこで父とお風呂に入り、コーラを分けてもらいながら助手席で星を眺めた。帰り道の高速道路は後続車も先発車もなく、ただ暗い夜の中で私たちの車のみが発するオレンジ味のかかったランプだけが中央分離帯を照らすのだった。

車の後部座席にあるスピーカーから、父がよく聞くラジオが流れていて、出演者たちは本当に他愛のない話を続けていた。ときおり生じる笑い声の意味もわからず、私はただただ寝転びながら上下逆になった空を眺めて、私がゆく道はきっと正しいのだと信じていた。

今私が走り抜ける湘南地区の道は、あのとき信じた道なのだろうか。どうやらシティポップが再び流行り出しているらしいこの時代と、私が目指している生き方と、私の周りにいてくれる友人たちの顔と。相変わらずTwitterやインスタグラムなどの通知は助手席で点滅し、その折々にどうでもよいメールが飛び込んでくる。一度登録したきり使うこともないサービスの通知。名前も顔も知らぬ担当者からのご連絡。映画館まで2時間かかった頃の記憶と、仕事の合間にそうして私を連れていってくれた両親の体温と。

何かを得ようとするたびに何かを失うのだとしたら、私はもう失うことに、鈍感になりすぎたのかもしれない。

いまTwitter上の複数の若者たちが(私よりうんと若い)、ジブリ映画のある場面から切り抜かれた画像をアイコンとして使っている。例えば天沢聖司の真剣な顔や、月島雫の勉強中の姿を。信号で車をとめたとき、横断歩道を何人かの小学生が走り抜けていった。時刻は21時半である。信号のすぐ隣に塾があることを知る。そのとき彼らが……私より若い彼ら、その親族には戦争経験者はいないかもしれない……ジブリ映画から受け取るファンタジー性や物語は、どんな色をしていて、どんな温度で、どんな匂いなのだろう。そこにあの遠いマックやガソリンスタンドはあるのだろうか。少なくとも、今横断歩道を渡った彼らのすぐ近くに、自動販売機はあり、大型ショッピングモールはあるのだ。

いつの間にか誰かによって失われていたこの30年間と、怠惰な政治と、もう何の面白みもないテレビ番組と、あちらこちらで沸き起こる感染症のような薄笑い、30秒ほどで次へ流れる縦長の動画。今私が向き合っている文献の著者も若くに戦時を経験し、そしてつい最近亡くなった。手を伸ばせばすぐそこにあった歴史が、きれいに整備された道路のうえで砂となりゆく。もういま私の走る道に砂利はない。

道を掻き分け、声にならない声をすくい、自分で自分の居場所を作ろうとしている私の研究の試みが、よしんば砂利道のようだとしても、その砂利は宮崎駿の踏んだ砂利と似ても似つかないような気がする。創作の苦しみを、詩学の絶滅を、ほんの僅かであれ共有しているとしても。

家に戻って、成城石井で買ったナシゴレンを温める。いつもならば10分ほどで手早く完食してしまうのだが、今日は妙に食べるのに時間がかかる。スパイシーに味付けされたジャスミンライスを丁寧に咀嚼しながら、noteを書こうか、と思う。

小学生だった私に祖母がよく作ってくれたラーメンを思い出す。あるいは、夕食の時間に、魚の切り身を丁寧にほぐしてくれたこと。祖母はもう私に何も語らない。あの虚ろな、生死の狭間で私に投げかけた目線と、もう荒れ果てた庭と。

そこから少し書こうと思う。










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