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感覚の外部化・〈それでも〉・BTSのメンバーが互いに笑い合うということ

もう3月になる。2年前の今頃、イタリアでパンデミックが発生したことを思い出す。その頃、私はマルタ共和国とクロアチアへ行く予定を立て、サウジアラビア空港経由のルートを調べていた。その予定は泡と消え、すごすごと実家に戻ることになった。

春になると、窓を開け放す。金沢で4年ほど過ごしたときのことを思い出す。閑静な住宅地だったので、夜は窓を開けたまま寝ていた。大学進学も決まり、荷物を整理していた3年前の春。夜もすがら東京事変の「深夜枠」をずっと聴きながら朝を迎えた。朝日に染められた坂道を歩き、4月からの生活を想像していた。

悲劇と見做すならば、その後に続く接続詞は「しかし」なのだろう。しかし、新型コロナウイルスにより…。しかし、安直なドラマを書くつもりはない。

さて、最近のことである。論文を書きながら某芸術祭の引き継ぎを考え、父の通院の送り迎えをしている。そして、昨年12月ごろからBTSを見るようになった。K POPの良さがわからず、とりあえずBTSの曲でも聴いてみるか…と思い、YouTubeで見たのがきっかけである。タルバン(走れバンタン)という番組があり、そこでの77分間討論を見たところから、一気にタルバンの全エピソードを視聴した。(Youtubeだと英語字幕・韓国字幕しかない、もしくは日本のファンが色々と編集したダイジェスト版しかない気がするが、VLIVEでは全話見れるはずである。)日本語字幕もあるが、時折翻訳が不正確(理解しにくい)ことがあるので、英語字幕で視聴することもあった。こういうタイミングで英語の素養が役立つのか…と妙にリアルな実感を持った。

以前は、BTSをはじめ、韓国の男性アイドルグループの「良さ」が一向に解せなかった。全員同じ顔に見えるし、やたらとアイラインを引いたメイクで踊っているだけのグループがいくつも乱立している印象だった。私が小学生〜中学生の頃だろうか、東方神起や冬のソナタが人口に膾炙し、韓ドラブームがあったように思う。高校1年の時に、「ヨン様っぽい」といじられたことがあったのを思い出す。(なお、そんなことを言う人は一人しかいなかったので、その一人がこのnote記事を読んだ際には「そんなこと言ってない」とでもなんでも言ってください)

BTSを見ていて感じるのは、日本の男性アイドルグループとの微妙な差である。(ここで「微妙」と指すのは、表面的・記号的にはどちらも「アイドルグループ」であることに変わりないからである。内実はより複雑だろう)日本にも嵐やSMAPや…ジャニーズから輩出される国民的アイドルがいくつも存在する。彼らとBTSを比較したときに「BTSの方がリアルだ」と感じるのである。あくまでBTSと、私が知り得ている日本の男性アイドルグループとの比較では、である。(BTS以外のSF9やSEVENTEEN、JO1やTXTなどは全く知らないが、彼らはどうなのだろうか)

BTSを見ていると、メンバー同士の仲の良さや互いへの言及が良く見られる。デビュー当時から6年ほど(?)同じ部屋・宿舎で生活してきたことも相まってなのだろうか、もはや家族同士のやりとりに見える部分がある。そして、そこに偶像性があまり感じられないのだ(あくまで私にとっては)。それは私が韓国語を知らないからゆえに、表面的な理解しかできていないという可能性はある。だが、日本語圏の、日本語ネイティブとして日本のアイドルグループを眺めるときに感じる、あの偽り感・商業感・虚構感が、薄いのだ。単純に、日本語で観察することができないゆえに、そう感じる可能性はあるので、他語圏でのアイドルグループも見てみよう…と思ってはいるのだが。

彼らの親密さは、ある意味で私たちが日々得ようとしている親密さであるように思えてならない。SNSによって、私たちはいつも誰かと繋がり続けている。テクストに込められた真の意味を探り合いながら、しかし完全な判読を避けるように、テクストしあう。(英語のtext動詞の感覚)匂わせ、空中リプ、トスツイ、ROM…。学校という場でも、インターネット上の振る舞いが持ち込まれ、複雑な圏を構成している。これを「多孔化」と呼ぶことがあるが、まさに私たちは多孔化した世界の中で、交感しあっている。例えば「Twitterで見てます」「Twitterの〇〇さん(ハンネ)ですよね」と話しかけられることもそうだし、「〇〇(SNSの種類)で見ました、大丈夫ですか」「投稿見ました、羨ましいです」とコミュニケートすることもそうだ。もはや現実とインターネットは断絶された圏ではなく、地続きである。一方で、地続きでありながら限りなく私たちは断絶されている。個々人の生活が生々しく反映される中で、私たちは幾たびも「私は私だ」ということを教え込まれる(実感する)。何もかも共有しているように見えて、実際には知れば知るほどおのれの孤独を知るのだ。「よそはよそ、うちはうち」が強まり、私たちは他者に対して(あまつさえ、自分自身に対してさえ)期待しなくなる。SNS上でいくらでも高みと低みとを観察できるいま、私たちは日々何かに対して諦めている。

一方で、BTSのメンバーたちが互いに笑い合い、知り合い、それぞれの生を互いに尊重しながら共に活動しているところを見ると、微笑ましく思うと同時に、私たちはそれを望んでいるのではないか、と思う。

彼らはデビュー当時は厳しくSNSを制限されたと聞くし、家族や親密な人意外とのやりとり・交流も制限されたと聞いている。そんななかで、互いに話し合い、認め合うことができるのは、メンバー同士しかいなかったのではないだろうか。アイドルとしての練習や本業以外も、家に帰ればメンバーがいる。そうやって育まれた関係性は、第二の家族になりうるのだろう。見せかけの親密さではなく、また、眉目秀麗な人を寄せ集めただけの集客装置としてだけでなく、彼らはBTSであることそれ自体の、要件になっている。すなわち、関係性こそがBTSを形成しているように見えるのだ。メンバーが入れ替わり、同じような活動をしたとして、それはBTSであると言えるのだろうか。言い換えれば、日本のアイドルグループは、継母と継父と養子とがぎこちない家族像を演じているように見えるが、彼らは異なるように見えるのだ。

そして、あらゆるものに対して諦め、冷めた私たちがが彼らの何気ない会話動画を食い入るように見つめ、ファンになるのは、彼らの親密さが私たちには無いからなのではないか。別方向から見るならば、現代の学生がTikTokで必死にダンス動画やバズ動画を撮るのは、彼らの身体的表象(としてのダンスや音楽)を真似て、その親密さを少しでも反映させようとしているからなのではないか。「こんなに仲が良くて、ネット上に自分たちの顔をあげる勇気もあって、楽しげなのだ」と主張することで、常に分断されている生を、少しでも繋げ直そうとしている。

SNSの普及・大衆化に従い、あらゆるものの関係性が(事物と意味のそれが)複数化する。ツイートは消えるかもしれないし、消えないかもしれない。アカウントもそうだ。生きているかもしれないし、生きていないかもしれない。世界がリゾーム化するというのは、こういうことかもしれない。ドゥルーズとガタリがリゾーム概念を提示したのは1990年代後半(と記憶しているが)だが、延伸し、交錯し、脱中心化・領土化・脱領土化した関係というのは、このことを指していたのかもしれないと思うと、脱帽する。少し脱線したが、あれであるかもしれないし、これであるかもしれない、こうした〈かもしれない〉が充溢するなかで、私たちは〈かもしれない〉けれども、〈それでも〉何かすることを望んでいるように思える。この〈それでも〉という抵抗、関係性の複数化に対する曖昧な抵抗が、一つの現代の表象の角度なのではないだろうか。

「いいね」されて喜ぶことと、BTSを好んで見ることは、奥深くのリズムとして同じものではないか、と思う。ネット上に対して、〈見られているかもしれないし・見られていないかもしれない〉が、〈それでも〉テクストを祈るように投稿する。その祈りに対する微かな応答、それが「いいね」である。私はあなたのことを見ているよ、という、しかし決して声に出されることのない、無声音以上有声音未満の、コミュニケーションである。私はあなたのことを気にかけているし、何かあれば話を聞くよ、という態度である。私たちはいつも、誰かに気にかけられたいと願っているし、一人を望みながら、しかし奥底では心底一人を怖がっているのだ。

《BTSのメンバーが、メンバーに対して笑いかけること、そこに身体的接触や確かに声に出された交歓があること、互いに気にかけあっていること》などを、デジタルメディアを通して認めること。それは、私たちが「いいね」されることで望んでいる感情の、外部(実現)化である。(先日のVLIVEで、ホビのことをシュガ・ナム・ジミンが「いいねマシーン」と呼んでいたことを思い出した。「ホビがメンバーの投稿に対して、投稿された瞬間にいいねがつくようにプログラムを書いたのではないか・コーディングの勉強したんじゃないの」と歓談していた)

コンビニやファミリーレストラン、コインランドリー、スーパーマーケット…資本主義の断片…が可能にしたものは、母親の労働の外部化であるが、同様に、私たちの承認欲求や好ましい生もまた、外部化されたのではないか。それが悪しきことかどうか、私にはわからない。けれど、BTSメンバーが画面越しに楽しげにしているところを見るにつけ、そう予感するのだ。私たちに残された感情は、まだあるのだろうか。恋愛ドラマもかなり溢れ、もはや真新しい恋愛もなくなってしまったように思える。デジタルメディアを通して、私たちは恋愛のなんたるかを分かった気になり、そのトレースとして日々「恋をしたい」「彼氏が/彼女が欲しい」と呟くのだ。もし本当に、恋愛が外部化・再現・上演されていなかったならば、私たちは「"恋愛"をしたい」とは言わないはずだ。これが恋愛であると定義されたフィクションがいくつも上演され、私たちは「かくかくしかじかのシチュエーションが生じるならば、これが恋愛だ」と思うのだろう。記号が先行し、内実が伴わない感情を、空虚な目をして追い続けるのだ。とはいえ、本質的な恋愛や感情などあるのか、と問われれば窮してしまう。平安時代の人だって、「こんな恋愛したのよ」とよもやま話が飛び交い、そこから記号的な恋愛を追い求めたこともあっただろう。私たちがアプリオリ的に快を感ずるものは何か、という問いはかなり根深いので、ここでは立ち入らないことにするが、要は私たちの「アプリオリ」感も、すでに私たちの権利でない可能性を考えねばならないということだ。直感は、もはや信じられない。再三繰り返すが、BTSがこの事態を招いたというわけではないし、それが悪しきこととも思わない。ただ、そう感じるのだ。

逆にいえば、BTSの表象するいくつもの親密さを見ながら、私たちが感情を外部化しているようにさえ見えるのだとすれば、BTSの示している仲の良さというのは、”すごいこと”なのだ。安直な表現になってしまうが、素直にそう思う。見せかけの親密さであったならば、世界的にこうも売れることはなかっただろう。Pinterestで、グクミン(ジョングクとジミン)が見つめあっている写真に、コメントがついていた。「自分はストレートなのでこういう系の写真に特に何も思ったことはないけれど、でも、最近はそういうのもわかるようになってきた」(うろ覚え&勝手な英訳だが)彼らの親密さが波紋を広げ、私たちが失ってしまったある種の関係性を再上演しているのだとすれば、BTSが売れていることがこのように理解できるかもしれない。BTSを見ることで、私たちは平凡で退屈で、しかしいつも何かに気を配り、何かに怯え、何かを失いはしないかと心配している日常から、救われているのだと思う。彼らは世界から必要とされているのだ。



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