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「らしさ」に絡む自己解釈の諸々

ここのところ、どうにも世界の解像度の低下が著しいので、自分に対しても嫌悪感を抱きつつも、その嫌悪感すら陳腐な感情のように思えるこの頃です。例えばTwitterに連綿と投稿される意思の数々を眺めていても感じ取るのは全く別の領域にあるように思われます。感覚や思慮の鈍化が、私を「私らしい」地平から剥ぎ取っていくようにも感じられます。

それはさておき、最近は解釈学と言説分析をメインに勉強をさせていただいております。2019年秋学期も無事に(?)終了しましたので秋学期を振り返りつつ、現在のこの無気力感・無味乾燥感・鈍化・陳腐な感情を自己分析するnote記事にしたく存じます。相変わらず論理の飛躍、冗長なレトリックが散見されるでしょうが、ご愛嬌ということで。

この感情の発端には、きっと明確なスタート地点はないのですが、様々に累積された情報の解釈によるものなのだろうと考えております。

2019年4月、大学生となって様々な場所で「私」を売り込むことも増えましたが、よく言われるのは次のようなことでした。

・真面目そう
・怖そう
・服装が個性的
・色々そつなくサッとこなしそう
・人間性が破綻してそう
・平気で人を殺しそう
・お金持ってそう
・御坊ちゃまって感じ
・インドア派っぽい

まあ当たらずとも遠からず(当社比)という感じなのですが、「お金持ってそう」という印象に関して、言語化できない齟齬感、共約不可能性を感じました。見た目どうこう、行動がどうこう、という部分に関してはどうでもいいのですが、生得的なものに関して指摘されるのは、言い返すこともできず、かといってスッと飲み込むのも難しいと思うばかりでした。

ある日、Twitterか何かでふっと見た画像が脳に焼き付いて離れません。

日本人の世帯年収(だったっけ?)の割合別円グラフだったのですが、500万以下が半分ほどを占めており、100万以下という割合が予想以上に多いことに驚くとともに強烈な罪悪感が胸を占めました。(同じ画像が見当たらなく、似たような画像を引っ張ってきました)(これって個人の年収っぽい…ですね)

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大学進学に伴い、東京方面に居を構え、生活をしてみて、100万円ではおおよそのことが不能であることに察しがつくことも、かつそれが「察し」「推測」「推察」でしかないことに自らの傲慢と呼ぶべきか、恥ずべき態度を感じました。学費や諸々の通学費用だけでも100万ほど掛かる状況に甘んじつつ、食事も満足に取っている私の状態は、平均以上なのだと。当然、データとしての日本の現状は知っていましたが、それは実感として迫るものではありませんでした。しかし、諸々の所用で上野駅や池袋、あるいは茨城、千葉、神奈川の累累の街々に訪れるにつれて、群像にそれぞれの生活を看取することも増え、実感として「生活の平均」を知るようになりました。

父親や母親は、私が帰省するときなど、折に触れて「食べ物だけはケチるな」「食事が何よりの基本だから」と言います。また、祖父母もよく「身体が何よりの資本」と言います。

しかし、SNSではよくこうした文言が目に付きます——「自炊はもはや贅沢」「野菜は贅品」「貧乏人ほど太る」。

私は生まれが田舎ということもあり、野菜中心の生活を送ってきました。米は余るほどあり、大根や白菜はその日に必要な分を畑から抜いて川の水で洗って摂取するような生活でした。今思えば、それは清貧ですらなく、「曰く付きの贅沢」だったのでしょうか。

そうした現状の解釈を伴えば、「金持ってそう」であることを否むにも否めないように思えてしまいます。仕送りでサツマイモや自家製の梅干しが送られてくるたびに、上野駅や新宿駅のホームレスを思い出します。新宿駅南口の改札を出た宝くじ売り場の陰や、有楽町の高架下や、二重橋前の均質化した空間にある一点の澱みや、御茶ノ水で待ち合わせした友人が一瞥もくれず足早に通り過ぎたホームレスの老人。彼らを解釈することは、私の傲慢な行為そのものです。彼らの幸福や価値観や行動基準を、私が解釈することは、彼らの意味体系を勝手に作り替えることです。彼らの、生活の目的は、私が解釈したとて、漸近することはあれど一致することはないのです。そもそも、我々は言語を通してしか分かり合えないが故に。

当然、これに対する対処方法は、世界に対する感受性を鈍化させることでしょう。美的判断を狭め、認識世界を狭め、知覚するのではなく、感覚し、足早に、事象から通り過ぎてしまうこと。横浜駅のJR改札口を通り過ぎるような速度で、意味を知覚する一瞬前で、捨象する。世界をシュナイデン(切断)する。

シューベルトの野薔薇という歌があります。

Knabe sprach: "Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!"
Röslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
少年は言った 「君を折るよ」
野ばらは言った 「ならば貴方を刺します
いつも私を思い出してくれるように
私は苦しんだりはしません」

少年は野バラを折った
野バラは抵抗して彼を刺した
傷みや嘆きも彼には効かず
野バラはただ耐えるばかり

私にとって、というより私が推察する「不能」な人たちにとって、私は少年のような存在でしょうか。野薔薇の痛みや、嘆きや、刺戟は私には解釈不可能で、テクストになる前の、言いかける瞬間のようなものになっているのでしょうか。私は、認識世界に対して鈍感な人を「愚鈍だ」「努力の欠如」「意味の放棄」として卑下してしまいますが、私自身が何よりも高慢で理解を放棄した、無責任かつ愚鈍な人間だったのではないかと思うことがあります。彼らに対して、私が理解しようとすることや、推測して胸を痛ませることや、自分を恥じることは、余計なお世話でしょうか。

カント的に言えば、この世界は「意味の王国」であり、ニーチェによればその世界を「解釈することは我々の欲求」であると言います。

そうした先人の言葉を齧って救われたような気分になっていますが、この感情すら、「上級国民のお遊び」になるのではないかと思われます。天皇陛下や研究者のニヒリズムが切に想像されます。税金によって生かされる彼らは、国民や納税者に対し、分析し解釈する行為を、慎ましく執り行わなければならないという義務感のようなものを感じているのではなかろうか、と。

しかし、分析や解釈に「恩赦」のようなものが介入することは、研究として非ざることです。

2019年の秋学期、脇田研究会で個人タスクとして#HATSUNEMELTDOWNについて解釈・作品制作を行なってきましたが、2020年1月13日、HATSUNEMELTDOWNを創始したアカウント内の人が自殺(とみられる)しました。私は、一介の観察者として彼女の動向やその影響を分析・解釈してきましたが、私は彼女の意図に関して何も知りえていないどころか、理解の範疇外だったのではないかと感じました。

彼女が死ぬことは、HATSUNEMELTDOWNに対してありえないほどの惨状をもたらし、意味体系を破壊したように解釈されましたが、その解釈はまさに、尊厳を土足で踏みにじり、意味を勝手に作り替え、上級国民のお遊びとして閲覧していたに過ぎないのではないかと思うようになりました。(詳細を知りたい方は論文をお渡しします)

当然、世界に対して向き合うことをやめることは、生きることを止めることと同義であり、我々は生きる以上、世界を解釈し、意味を構築していかねばなりません。ですが、私は、少なくとも現時点において解釈のより良い地平を目指すこともできないほどに感性が磨耗しているように思います。

目の前の出来事に悲しみ、喜び、楽しむことはできるとも、そこには常に生得的な美的判断が頭をもたげ、後天的な美的判断が邪魔をし、意味を狭め、何かを得る一歩前で「傲慢だ」という思考が全てを収斂させます。

もっとフラットに、意味を知覚することはできないのでしょうか。ここで最大の問題が発生します。

フラットで、乾燥した、偏見や傲慢を排除した意味看取能力で世界を見ることは、私が無機質なタンパク質に成り下がることを意味します。そこに主体性は微塵もなく、ただの生物として食事を取り、排泄をして生きるだけの虚な容器です。私らしさは捨象され、極めて脱中心化されたエグゾトピーに存在する細胞の塊だけが拍動するのみです。

私は、いかにして世界に現象し、解釈し、意味を構築するべきでしょうか。

無論、この思考さえも、おおよその人にとっては無意味な「上級国民のお遊び」ではあるのですが。あなたは、私の思考のどれほどを汲み取れますか?私の苦しみのどれほどを、あなたは共約可能でしょうか?感性を、あなたと私の間においてパルタージュすることは可能ですか?肉体的な交わりに感性のパルタージュを委ねろと言いますか?原初的な情動において、私の思考は確実に、伝導することが可能だと?

逆説的に、無残にも、皮肉にも、シニシズムに向かっていくのを感じながら止めることができないことを、憎らしく思います。

まあ、この思考から抜け出すためにカンタン・メイヤスーの「有限性の後で」「ラカン的思考」「ポストヒューマン:新しい人文学に向けて」などを買って読んでいる途中なのですが。

進展あったらnoteにて公開していきますので。コメントとかリプライで感想とか共感とかあったら嬉しいです。

では。非常に乱雑で粗野な文章になってしまい申し訳ないのですが。
bon appétit!

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