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ゆらり道

   今日はお休み。

  何も考えられなくて横になっている生活が続いて、どんどん頭が働かなくなっている不安や焦りはあるけれど、変わらないことに沈んで家で時間が過ぎるのを待つ毎日に変化をつけたいと思った。今後役に立つかどうか、家の仕事、義務的思考を取り払って、思いつくままに・直感的に行動してみよう、と。自由に物を思うこと、大道から離れることを自分に許せるように。

そうしたら、“外の空気を吸いたい”と思った。自然の中で一人きり、なんにも考えずに空っぽになりたい。自転車を走らせ、台風を控えて湿気を孕んだ冷たい風、実り始めた稲の一穂を盗む雀の子、その横で風を起こし抜ける鴉、車輪の廻る音……通り過ぎる生の風景、自分の起こす音を、感じようともせず感じながら、だんだん頭が空っぽになり、断片的に言葉が浮かんできた。


ずっと、“今の苦しみ”に向き合える環境になかった。小中学校で不登校をした時には「勉強についていけなくなって将来が困る」という理由でただ学校に行くようにと言われるばかりで、私の気持ちには耳を傾けられなかった。大学も就職もいわゆるホワイトカラー、人から「賢い」「立派だ」と思われるような選択肢しか許されていなかった。私もそうしたいと思っているのだと思っていたけど、優位性、優秀性で自分を認める態度がだんだん嫌になってきた。学業の優秀さ、社会的成功に価値観を置くと、いつも人と比べて上か下かを考えて自分が“下”になるのに怯えている。間違っている、できないことを認めるのは自分全体にダメージがあるから。言い負かされない、論理的で人に否定の隙を与えない人間でいなければならないというプレッシャーはずっとあった。でも大学名や知識を承認材料としている自分がだんだん嫌になった。そんな小さな価値観で勉強する自分が気持ち悪くて自己嫌悪が激しくなった。でも見栄を張るのがやめられなくて、いたずらに立派な目標を掲げては周囲の「賢いね」「偉いね」という言葉を引き出していた。そしてその目標がどんなに難易度が高いのか、どんなに真面目に勉強しているかをアピールしていた。そう、他人評価の目標になっていたのだ。勉強は偉いと言われるもので、何をやりたいかではなく、無意識に認められる仕事を選択していた。本当は純粋に学ぶこと、知ることを楽しんでいたかった。でも母に話すと「うちの子は優秀」とまた人と比べて誇られて、その枠の中に縮まっていく気がした。

今はそれよりも心の自由さが大事で、自分の気持ちに忠実でありたい。母は人に負けまいと奮起する人で、進学校であるか、高度に知的な仕事であるかどうか、質のいい服を身につけているかなど、知力・外見・持ち物が人より優れていることを価値基準としていた。私はそれを浅はかだと嫌っていた。でもそれから外れる強さもなかったし影響も受けていて、自分もそんな目で人を評価したり、評価されることに意味を感じて喜ぶようになっていった。今でははっきり低俗な価値観だと思う。ただ、それを上手く言葉にできない。言っても否定されるだけ。私の言葉は無意味だ。母じゃなくてもそう。人と話す時、意図通りに伝わらないことが多い。それを訂正していると空気が悪くなる。ああ、もうめんどくさい。どうせ伝わらない。私がズレているとしか捉えられない。そんな、ものを思わなくなった背景の経験をぽつぽつ思い出した。

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   人より優れるために“賢さ”を磨きたくない。平和主義というのではなくて、そこには自分がないから。人より優れることを目標にしたら、ずっとリラックスできない。競争心が刺激になる人ならそれもありかもしれない。本人の楽しみがあるなら。でも評価を糧にするのは駄目だ。それは他人のための人生。エリートじゃなくたっていいじゃないですか。馬鹿なことしたっていいじゃないですか。たまたま生まれてきただけで何億もいる人の中で抜きん出ようなんて肩肘張らなくていい、背負わなくていい。そう思いたい。自然体でマイペースに、直感的に生きられたら、きっと幸せ。


ただ植物や動物がそれぞれに自分の世界で生きている自然の中では、誰にも視られていなくて本当に落ち着ける。何も求めなくていいんだ。そのままでいていいんだと思える。ワサビが名産の奥まった里山から街に出ていくにつれ、賑やかさ、街の人のスピードにまた頭が働かなくなっていった。早く、清流の流れる山麓で何も望まないで静かに暮らしたい。

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↑こんな鄙びたところまで行きました。宮崎県は三股町の長田というところです。水が豊かで、とても静か。


帰り道、公園横の小さな稲荷神社にぶつかった。奥山と町の間、住宅地の奥に山を背景にして佇んでいた。苔むした雰囲気が気になって、自転車を止めて立ち入った。


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神社の空気はやっぱり違う。涼しくて清浄で、霊感はないけれど、そこにある木や葉の一つ一つ、虫まで守られているような感じがする。きっと神社はそういう癒しを与えるために、人工物が少なく生命に溢れた静かな場所を選んで建てられているんだろう。

創立は元亀2(1572)年。猿田彦命など、豊穣の神や家内安全の神を祀っている。境内の神木は当時からあったのか。かなり太く、虚にはきのこが生えていて、幹は苔にびっしりと覆われていた。

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虫の声はうるさいくらい響くのに、人気のない神社の静けさには全く影響しない。一定の調子で鳴いているからだろう。  自分以外には誰もいない。神木を見上げていると時間の感覚を忘れそうだった。

不意に落ちてきた木の葉の音に驚いて、なんだか怖くて、そっと後にした。

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