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高校で習う最悪のお札、免罪符。でもいいとこもあるよ。

「免罪符はクソだよ。」世界史の先生に、そんな風に教わった人も多いのではないだろうか。流通してから何世紀も経た後の教科書にクソな札だと書かれ、子供たちにもクソな札だとバカにされる可哀想なお札、それが免罪符である。

あぁ、なんて可哀想なお札なんだろうか。このnoteは、そんな悲劇の札の誤解を少しでも解くために書きます!

と言っても、「免罪符って何だっけ?」と思っている方も多いと思うので、ここでざっくりと紹介しておこう。一言で言ってしまえば、「教会にお金を払って買うことによって、死後の天国行きが約束されるお札」それが免罪符だ。今までどんな罪を犯していたとしても、免罪符を買うだけでそれらは許されて、絶対に天国へ行けるのである。教会の権威が天国行きを保証してくれる。
要するに免罪符とは、天国行きの切符みたいなものだ。

これが、一般的に世界史の教科書に書かれている内容。これだけ聞くと、免罪符は協会の腐敗を表したクソな札だと思ってしまうのも無理は無い。神父たちが自分たちのお金儲けのために、善良な市民達を騙しているようにも聞こえるからね。かく言う私も最近まで、免罪符に対しては強いマイナスのイメージを持っていた。

胡散臭い神父「ヒッヒッヒッ。これさえ買えば死後の天界行きは確定ですよ。今なら1枚10万円!月1万のサブスクもあります。」

善良な市民「ホンマですか神父様!じゃ、じゃあ、オラがこの必死に稼いだお金でお願いしますだ!」

ヨダレを垂らした神父「ヒッヒッヒッ。まいどあり。」

こんな感じの会話があったんだろうな~なんて想像していた。確かに、免罪符発行の裏に協会の腐敗があったのは事実かもしれないし、こんな神父さんもいたのかもしれない。それは確かにその通り。

でも、だからって免罪符自体には罪はないでしょう!!免罪符にも実はいい所があるんです!ここで僕は、免罪符のイメージを変えてみたい!

そのためにポイントになるのは、「人間の意志」というワード。そう、免罪符は「人間の意志」という観念から見ると、ものすごく革命的な、ありがたーい御札なのだ。

ここで、免罪符が生まれたよりもさらに昔、中世の初期まで遡って考えてみよう。当時のヨーロッパでは、キリスト教の元でバリバリの封建体制が浸透していて、王>>領主>>農民という関係がバチッと定まっていた。生まれた時からもう身分ははっきりと決まっていて、自分で職業を選ぶなんて考えられなかったのだ。現代みたいに個人主義が広まっていて、「俺は俺らしく生きていくぜ!」なんて考える人はいなかった。

強調したいのは個人主義的に考えることが出来なかったのではなくて、しなかったということ。

神様の下、与えられた役割を果たすことに尽力していた人々は、ある種の一体感を感じていたみたい。僕たちの日常でも、仕事がなくてウロウロしてる時より、自分がやるべきことがキッチリ決まってると安心することがあるけど、あの感じに近いかな。あの安心感が人生全体に及んでいるイメージ。なんてったって、神様が全て決めてくれてるんだから、当時の人々は「俺!」「私!」と強い自己意識をもつ必要性がなかったわけだ。

だからその分、「人間の意志」とかは尊重されていなかったともいえる。自己の尊厳とかもないし、全部神様に任せっきり。それが当時の当たり前であった。

とはいえ、そんな価値観も、時間が経てばやがては変わる。

ルネサンスとかスコラ哲学とか、新しい主義主張の台頭により、「俺たち人間にもっとスポットライトを当てようぜ!」という考え方が広まってきたのだ。今まではああ言えば神様と言う人達ばかりだったのが、段々と人間中心に物事を考える人が増えてくる。

その様、正に革命のごとし。

あれだけ絶対的だった考え方が徐々に崩壊していき、何百年とかけ、少しづつヨーロッパ世界に思想の変化が起こってくる。富裕層から中産階級へ、そして労働者たちへと。じんわり、じんわりとね。

その人間中心の思想がだいぶ広まっている最中。1人の革命的なヨーロッパ人がこんなことを言い出す。

「原罪のありなしも俺らで決めてよくね?」


原罪とはアダムが犯した罪で、全ての人類が背負うべき罪のこと。つまりキリスト教の大切な教え。
こんな大事なことを、人間が決めてもよくね?だと?おいおい、なんて革命的な発想なんだろう!

もうお分かりいただけただろうか。

そんな革命的な発想から生まれたのが今日の主役、免罪符なのだ!

なんてInovative!正にiPhoneみたい!

皆さんも思っていたように、免罪符のシステムって、それだけ聞くと意味が分からない。お金さえ払えば天国へ行けるってそれどうなのよ!それでいいの?お前たち?!と言いたくなっちゃう。

しかし、これを「人間意志の尊重の過程」として考えるとお話は変わってくる。キリスト教の超絶大切な教えである原罪を、人間ごときがお金で免除できると主張しているのだ。

この事実は、これ以上なく、「人間を尊重」していると捉えるべきであろう。神様絶対主義から段々と人間にスポットライトが当てられていく過程で、儚くも生まれてしまった悲しきモンスター。それが免罪符なのだ。
 
ということで、みんなもう免罪符をクソって言わないでね。



参考文献
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

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