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今混乱しているので、これまでの出来事や行動とその時々の本音(太字)をたどり、自分の今の気持ちを探ってみる

◆幼少期:母に反発→母から無条件に愛されている実感がほしい
〔私中間子×HSP×母と相性悪、貧困、母ワンオペ、父母は家父長的な価値観を内面化していたので、私が無条件に愛される実感はどうあがいても持てない条件下だった〕

◆思春期:親では満たされなかった愛情を恋人から得たい
〔親からもらいたかった愛情は親からもらうもので代替を求めても新たな依存関係を築くだけ。過去を整理して傷を癒して自愛を習慣化して自分で満たすもの。年の近い他の人間に求めることがそもそも無理。〕

◆高校:親から専門・短大へ行き結婚する生き方を求められ、悲しさ・怒り
〔経済的・精神的に自立しないと支配される自分の境遇に嘆く。私に自立ができるとは到底思えず無力感。〕

◆専門:応募する段階で「ちがうかも」って思っていたけど、でも後戻りできないって自分をごまかした。通ってみてすぐ「これじゃない。ちがう。」って思った。母のために、母の愛情を獲得したくて進学した専門。ちがうことがわかっていながら、修正できずにいた。日に日に「ちがう」ことが明確になっていった。
〔母に父でなく私を愛してほしくて「専門→早く稼ぐ→母を自由にする」人生を選択した。THE共依存。自由に自分の軸で生きている恋人と過ごして「私も自分の軸で生きたい」とNZ留学を決める。〕

◆NZ:幸福度の高い仕組みの中、人権意識高く、多様さがデフォルトの人達に囲まれて、HAPPY
〔日本で家族と暮らしてきてマイナスに傾いていたが、NZで暮らしていたら0→プラスになっていった。毒(親)から9346km物理的に距離をとり、自分の周りの人間を自分の理想の属性をもった人たちに総とっかえしたらすごく効いた。「次はどこの海外に行こうかな。カナダかな。(0→プラスの動機)大学で学びたいけど母国語で学びたい。現代社会の授業で受けた思考を促す授業は面白かったから学びたい。(0→プラス)また、教育と心理学を学んで自分が受けた毒をなんとかしたい。(マイナス→0)」と心が決まった。〕

◆大学進学費用を貯めるのに1年、おこもり受験勉強で1年:やりたい方向に向かうために、すごく頑張った2年間

◆大学進学:受験のために自分を律しすぎて、反動で不安定に。
安定させるために、とりあえず恋愛と思って付き合った(マイナス→0)らやべーやつで即妊娠させられて混乱。(マイナスに叩き落される)おぼれている時につかめるのは藁だけ。恐ろしい。〕

◆妊娠中:暗黒の時代
胎児には本能的に愛情が芽生え大切に育てたいと思った。(0→プラス)だから、性暴力だと認識しないように自分の感情を抑圧した。(ずっとこのマイナスに引っ張られてきた。ここの抑圧はカウンセリングで解消済み)当時、性暴力だという社会的な認識はあまりなかった。結果即鬱になった。出産について学ぶ講座も出られず大パニックで出産しトラウマ深まる。(マイナス→マイナスの連鎖)〕

◆出産後:暗黒の時代2
〔毒親育ち×傷の手当できていない×妊娠するまで子育てをしたいと思ったことが無い×妊娠後即鬱→子どもが泣くたびにフラッシュバック(マイナス→マイナスの連鎖、ここでカウンセリングが必要だった)が起こりへとへと。郊外で核家族の孤独育児、自分の親に頼れない、夫はワーカホリック→鬱深まる〕

◆大学復学の助け:実家のご近所の方、夫の母、友人が支えてくれて、徐々に復学のコースへ。(マイナス→0へ)エンパワーメントしてくれてありがとう。

◆大学復学:知識を貪欲に吸収。貧困・恋愛結婚したが暮らす相性が悪い夫婦・一馬力・ガラスの天井・核家族の子育て・追い詰められる母親・家庭内の弱者に落ちる暴力・家父長制・転勤族という人権侵害等、日本の歪みを経験しすぎて「学びたい。学んで整理したい」という欲求(マイナス→0)が膨らんでいた時。

なぜ性暴力が発生するのだろう→性教育・人権教育・アサーション・哲学・ジェンダー・家庭科(マイナス→0の動機だったが、0→プラスにも使える)

孤独育児で頭が狂いそうだった→日本人の〝常識(母性神話・3歳児神話等)”を問い直す・日本の育児の歴史の変遷・世界の育児の多様性・生活時間・ジェンダー等を学び、日本の母親がおかれている状況が異常すぎることがわかった。その時代によって〝常識”は変わる。その時々の為政者にとって都合の良いことが〝常識”としてアナウンスされる。戦後の経済成長が一番の目的で、それを成り立たせる家族の形(性別役割分業)が良い家族であるとされ、資本主義社会で経済力がない=食べられない状態に置かれた母親たちがあらゆる面で犠牲になることを前提に家庭や職場が成り立つ仕組みがつくられていった。(マイナス→0)

母との共依存→近現代史、親が生きた時代、貧困、家父長制、戦争、親が子育て中にアナウンスされた〝常識(母性愛・3歳児神話)”、介護、虐待、虐待から子ども自身が身を守る(CAPプログラム)、生活時間、母親を犠牲にして成り立つ日本社会を学び、私と母が共依存状態になったことは自然だったことがわかった。(マイナス→0)

「負の連鎖から逃れられないと思っていたが、案外早く頭では理解してしまった。悲願達成(半分)。絶対無理だって思ってたのに、当時の人生の目的達成されちゃったよ。これからどうしたらいいんだろう。目的地がなくなってしまって結構本気でまごまご。学んだことを公教育の現場で生かす人生もありか(ここに強い動機があったわけじゃないんだよね)」→家庭科(生活を哲学・科学の両面からとらえなおし、自分の幸せを軸に生活を学ぶ)、いじめやカーストのないクラス・安心してチャレンジを応援しあえる集団育成(プロジェクトアドベンチャ―)(マイナス→0の動機だが、対象者や環境によっては0→プラスにもできる。公教育では限界がある。)

◆離婚:夫は「部活もっと頑張って大会に連れていきたい、授業ももっとうまくなりたい、仕事で忙しいから家庭の時間はとれない、でも子どももう一人と戸建て庭つきの家がほしい」、私は「これ以上譲れない。夫はtaker、私はgiverの関係性になっている。私は夫といても幸せになれない。私の母の不幸が私をゆがませたように、私が不幸だと私の子どももゆがむ。私は自分の軸で生きて子どもに自尊心をもたせたい。(マイナス→プラス)子どもはこれ以上ほしくない。働けなくなるし海外で生活するのが遠くなる。家は欲しくない。縛られてしまう。」と離婚した。
〔夫は「お前の人生俺のもの」を地でいく人なので、ここから先も子どもが大学進学するまで、私に対しての依存、「死にたい」と私に言う、養育費不払い、勝手に減額、減額交渉が果てしなく続いた。調停離婚にして調停証書を残しておいて本当によかった。20代半ば~後半の私を褒めてあげたい。自分が弱った時はとんでもないマイナスな人を引き寄せてしまい、負の連鎖が続いてしまうから気を付けないと。〕

◆児童家庭支援センターの相談員になる:学校の先生の大半は、日本のピラミッドの中で真ん中以上の家庭で学ぶ環境を保障してもらってきた人達。私の境遇なんて話せなかった。高校生だったころの私は、学校しかしらない先生に本音を話すことができないという実害があったので、教員になるなら別の仕事をしてからと漠然と考えた。家庭科は人生哲学・人生科学・人生社会学みたいな教科。日本の家族の現状を知っておくのは家庭科の授業を創るうえで強みだよなって思って(0→プラス)、家族・子育て・虐待関係の相談員になった。
〔仕事はとても面白くて向いていた。日本の家族のリアルな悩みに触れ、整理し、課題を見つけ、それぞれへの対応策を検討する作業はとても面白かった。病気、発達障がい、どこの機関がどんな内容の相談にのれるかなども学べて、とても勉強になった。ただ、相談内容の重たさをひきずってしまうのがネックだった。〕

◆教育現場:子どもの学費のために軍隊マインドで生徒の思考を停止させ、鬱教員を大量に排出している教育現場で働かなければならない(ここから十数年ずっとマイナス)と、自分に言い聞かせて働きだした。家庭・学校・社会の歪みが大きい場所にいる子どもほど、傷ついているしその傷ついた感情を怒りに変化させ、表出させる。1校目の生徒は傷ついていて鬱屈としている子が多く、これまで経験してきた学校や教員への恨みを目の前の私に試し行動として出してくる。即鬱になり、子どものためにと安定剤を飲みながら1年を終えた。授業創りが面白かった(プラス)から続けられた。授業づくりという麻薬があったから、即逃げるという決断をしなかったんだな。くそみたいな環境に居続ける決断をしてしまったから、それはそれでだめなんだよな。

◆授業づくり:授業づくりはいつも楽しかった。アイディアはいくらでもわいてくる。試して修正してまた試す。ずっと授業研究していられる。(プラス)

◆新しい学校:教員の人間関係が村的で気持ち悪く、ADHD、ASD系の発達障がい傾向が強いのにサポートされてきていない生徒がクラスに数人いて、カオス。犯罪をも受けいれろと強要される、親のネグレクトのしわ寄せがくる、毎日変化する40人の治安を守って、1日に4~5時間プレゼンして、自転車操業で次の日のプレゼン資料つくって、テストでは320枚の丸つけしてんですけど?!なんかもうやってられなかった。「境界線が無さ過ぎるし、専門性が無さ過ぎる。先生ってなんでもできるすごい人達って思ってたけど、この人達プライドだけ高い張りぼてじゃん。発達障がいの知識ない。調べようとしない。聞かない。適切なサポート体制作れない。発達の課題がある子に反省文書かせたところで意味ないよ?境界線を侵してくる保護者に毅然とした態度がとれない管理職。なんでこんな思いしないといけないの?無理すぎる」

◆事実婚:乳がんかもよって検診で言われて、目の前が真っ暗になった。超不安定になり、恋愛をすることで安定を得ようとした。(再び負の連鎖へ…)きれい好きで話が面白くてとても純粋な愛を伝えてくれた人がいて、親から愛されなかったという渇望を抱えていた私は、子どもにとってベストではないと判断しながらも、私の飢えを満たしたい(マイナス→0)と、子どもを連れてその人と暮らすことにした。その時、「あー、これで大学院も行けなくなる、海外も遠くなる」と思った。間もなく、その人が豹変して、子どもを拒絶し、私に攻撃的な態度をとるようになっていった。(マイナス→マイナス)付き合っていた時にその人は自分のことをアスペと言っていて、私は冗談だと思っていたが、本物だということが同居してからわかった。

◆実家へ:実家へ戻り、メタメタに傷ついていて、パニック発作のような症状も出ていたけれど、薬は飲まずに過ごし、何とかなってしまった。多分、ここで倒れるわけにはいかなかったんだろうな。子どもを経済的に精神的に支えないととひん死の状態で踏ん張った。(マイナス→マイナス)ここで倒れていて、カウンセリングへ通えば、私の精神はもっと早く楽になったかもしれないが、息子に人生の選択肢を与えることはできなかったかもしれない。私の悲願が「子どもに自尊心をもたせる、子どもに選択肢をもたせる」だったから、踏ん張ったんだな。でも、これをきっかけに、子どもは私を信用しなくなったんだろうな。これだけ多大な迷惑をかけて、おおこけしたんだもん。

◆新しい学校へ:転勤し、すぐに担任をもった。とにかくトラブルの数が尋常じゃない学校で、変化球が四方八方から飛んできて、全て打ち返すのに精いっぱいだった。家に帰れば日本酒を飲んで酩酊し、この辺結構私ボロボロだったな…。色々やらかしてくれたけど、このあたりは私の親に感謝だわ。子どもと2人暮らしだったら、教員の働き方=ネグレクト、親が酒に溺れる=精神的な虐待って感じだったろうな。生死のかかった事件が起こり、学校の危機対応の甘さと保身、被害者の気持ちや人権が踏みにじられている様を目の当たりにして、心が疲れ切ってしまった。それ以降、担任をもつことはやめたというか、持てなくなった。教員の置かれている環境が守られていなさ過ぎて、次何かがあったら、私の心がもたないと思っていた。数年後、再び生死がかかった現場を目の当たりにし、「あぁ、もう無理だ」と、転勤した。

◆新しい学校へ:公立高校のどこかに自分に合うところがあると思って、転勤を重ねたが、そんなものはなかった。生徒が落ち着いたところに来ることができたが、先生たちのマインドが軍隊過ぎて、「あぁ、私はいつまで人のしりぬぐいばかりしなきゃいけないんだろう。業務の効率化・削減をしても、文科は延々と仕事をbuild&buildして、管理職はそれをすべてやらなければならないと思考停止し、村文化を内面化した教員は前例踏襲をし続ける。人権侵害し続ける変わらない人たちに組織。尊敬できる50代いない。若手がなぜかすごく保守的。毎年妊娠出産病気のサポートをさせられ続け疲労困憊している。私が好きなのは授業、集中したいのも授業づくり、今のまま、人のしりぬぐいに力を使っていていいの?ちょっと立ち止まりたい」と思い、そこから休職した。「心のベクトルと周りの環境が合わなくなった時、人は動けなくなる」ってカウンセラーさんが言っていて、「それだ」って思った。

私にとっての悲願、心のベクトルが向いている方向は「子どもに自尊心と選択肢を与えること」だった。18年19年間、それが私の全てだった。それを実現させるために、海外で生活したいという気持ち、私個人を愛されたい気持ち、人権を尊重された職場や国で働きたいという気持ち、価値観の合う人と交流したい気持ち、匿名性のある仕事をしたい気持ち、実家から離れたい気持ち、好きな街で暮らしたい気持ち、好きな恰好をして生活したい気持ち、元夫ときっぱり縁を切りたい気持ちを抑圧してきた。

私の大切にしている価値観「自由」を踏みつけ続けてきたから、その反動が大きかったんだろうな。半年動けなかった。毎週カウンセリングに通ってふらっと旅にでて、寝て食べてマンガを読んでをずっと繰り返していた。バリバリ仕事してきたので、自分がこういう状態になったことが嘘のようだった。

自分の根幹をごまかして思考だけでやってきちゃったから、本音を認識するのも一苦労。本格的に動けなくなるちょっと前まで、自分の脳がそんなに疲労していたとは気が付いていなくて、IELTSの勉強しまくった時期もあったけど、結局全然頭に入らなくてお金と時間を無駄にしたし、自信もなくなってしまった。

教育関係の友人と一緒に、オルタナティブスクールをいくつも見てきた。過去の私は鼻息荒くして興奮しただろうけど、今の私はそこで働きたいとはあまり思えなかった。海外のオルタナティブスクールは教員の収入と権利を保障しているけど、日本で有名なオルタナティブスクールA・Bは教師のやりがいを搾取する賃金体制、Cは社長を崇め奉っていたところがなんか無理だなって感じた。

半年沈没して、友人宅で読んだ本をきっかけに、ようやく睡眠障害に気が付き、睡眠改善をした。そしたらだんだんと活字が読めるようになってきて、武田友紀さんや中越裕史さんの本等を読んで、ブログに書けるようになってきた。

私は倒れる前まで、エンジンを2つ積んでいた。倒れたあたりでは0.5くらい。ひとつは完全に壊れ、もう一つも半分壊れていた。それからずーっと0.6~0.8くらいをさまよっていて、今は0.9くらいまで戻りつつあるような気がしている。うれしい。カウンセラーさんに「エンジン2がそもそもおかしかったんですよ」って言われて、はっとした。

今は、毎朝田んぼに散歩に出かけて、その時に「今日一日何がしたい?」「これからどうやって生きていきたい?」「朝何が食べたい?」「どっちのルートで散歩したい?」と自分の本音を確認する、自分の直観を取り戻すルーティーンを取り入れている。

毒親育ちは、こういうのほんと訓練しないとできるようにならないんだよな。

自宅でじっとしていたり、ふらっと旅にでてわかったこと。私は英語を使ったコミュニケーション、多様性が当たり前の場所、匿名性のある場所、合理的なシステム、価値観が近い人と話せる、美しい街並み、美しい雑貨、コスパの良さ、おいしい食べ物、美しい銭湯、カフェの選択肢がある、美しい自然へのアクセスがよい、寒すぎず暑すぎず、寝心地の良い寝具、寝る90分前にバスタブにつかる、基本的にひとりで過ごせる、適度な筋トレが生活の中にあると、整うしあがる。

日本でも海外でも、この条件を意識していれば、幸福に暮らせるんだろうな。この条件が満たせる仕事を、できるようになろう。



授業はずっと好きだった。様々なシステムを知って絶対的だと思い込んでいたものを相対化する、自分にフィットするものを探すという流れが好き。人が思考をしている姿を見るのも好き。たくさん情報を収集して授業を創るのが好き。話をきいて、整理してって作業も好き。

ここに特化した仕事が創れたらいいよね。

人権意識が低い同僚と働くのは嫌、人権意識が低い組織もダメ。

人権意識が高い国の教育現場がどうなっているのかを見てみるのは面白そうだと思う。カナダで教育アシスタントとして学校を見て回るのも面白そう。英語ができるようになれば、学校にカウンセラーとして入ることもできそうだし。ただ、永住するかとかは全然わからん。永住権が手に入れやすい流れに乗っていたら、その時の気分で選べるからいいか。

自分で稼ぐシステムと、英語ができれば、海外を転々とすることもできる。

そのために、株・投資・不動産投資、コーチング起業、英語を頑張る。

沢山あり過ぎて、結構大変。どう絞ろう…。


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