見出し画像

たまたま手に入れたこの世の持ち時間

もはや、ここまでくると生死もそんなに大切でなくなってくる。
「生きてることは尊い!奇跡だよ!」よりも「たまたま産まれてここにいるよな」がしっくりくる。人生に対する惰性だろうか。

深夜、寝床に入る前に歯磨きをしながら考える、"今"の私にとって大切なことを。
考え絞り出さないと無いという事実が既に虚しい。

強いて言うなら、なるべくなるべく口から出てくる言葉には気をつけている。
気をつけすぎて"言えない"こともあるし、自分を取り巻く環境や現状が蛇行しすぎてて羨んでしまい酷いことを言ってしまうこともある。ある…これは本当に気をつけたい。
極論、犯罪者にだってバックグラウンドがあって。
そこに至らなければいけない何かがあったはずだ。
責められる事実を犯したとしても果たしてその人だけが悪いのか?と私は考えてしまう。もちろん擁護できない現実もある。

わざわざ言わなくていいことをわざわざ言う人っているよ。
私もきっと無意識に相手にとっては言わなくていいことを言ってたりするんだろうな。
だいたい、本当にずけずけ言わなくていいことを言う人って分かってて言ってると思う。
マウントを取りたかったりそうゆうそんな理由。なんてしょうもない…と思うけど、その人はそうしてないと自分を保てないような癖がついちゃってて。でも私にそれを取り除く術も権利もないからそっと距離を取っていくだけ。

人間関係なんてそんなもんで、関わりたい人と関わり、距離とりたい人とは距離を置く。

ちなみに私は昔、死ぬという事実が恐ろしかった。
身体が動かなくなり無になることは何となくわかる。葬儀に参列する度に見た。
しかし、ピンと来ないのが魂や自意識の行方。
それらが無になることがよくわからない。
そして、死んだらもう大好きなラーメンも羊羹も焼肉だって食べれないし見てるだけでなんだかんだちょっと幸福になれる桜を見ることも出来ない。大好きな推しのライブにも行けない。それらはちょっと悲しい。

私にとっての絶望をいくつか見てきて思うのは、もう、生きるも死ぬもただの二択でたまたまであるということ。
どちらにもそんな立派な理由なんかないんじゃないかな。
どうせ100年後には私もあいつもあの子もあなたもこの世には多分居ないし。
私の仕事での些細なミス(私にとっては大問題)だって目に見えなくなる。存在しなくなる。
そんな1世紀満たない持ち時間に何をしようか?何が出来る?何をすべき?

自由になりたいなんてもう、数え切れないぐらい思って私は実際に自由っぽい方にいつも流れた。
でも、自由はいつもなんだかちゅうぶらりんだし社会の中でみたらいつも何にも属せてない感覚がまあまあ辛かったり。
じゃあ、また周りの目を気にして枠にハマって生きるのかと問われるとそれも結局辛い。
私はどこで、どう生きてもそこそこに幸せだがそこそこに辛い。
そんなことの繰り返しをあと何億回も繰り返してたまたま生き延びてたまたま死んでくんだろうな。

この世をこの持ち時間を遊び尽くして終えたい。

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,435件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?