暮らすように旅したい

いろんなことが知りたくて、いろんなものが見たくて。その好奇心とようやく折り合いがついて…

暮らすように旅したい

いろんなことが知りたくて、いろんなものが見たくて。その好奇心とようやく折り合いがついてきたかも。

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旅の計画は心が踊る

初めての人たちと初めての場所へ行く計画をたてている。旅程作成は私にとっては楽しきこと&得意なことで、こんなことで…と思うほど喜んでもらえることが面映ゆくも嬉しいな。 #3行日記

    • 2022年はどんな年にしよう

      毎年、この頃には来年のテーマがふと浮かぶというのに 今年はまだやってこない。 「来年はピンクだな」と色で浮かぶこともあれば 「しなやかに」と単語だけのこともある。 で、今年はなんだったっけ?と手帳を眺めてみれば 「魅せる 吹かせる 手段を得る」と書いてある。 ほぇぇぇ~とびっくりした。 こんなこと書いてたんだ。あれ、なんで覚えてないのだ。 いったいどこからこんな言葉たちがでてきたのか。 さっぱりわからないけど、私も大きくでたものだ。 魅せるとか、すごいな。対象はなにを想定

      • 暮らすように旅をはじめた2021年

        住民票のある地に6か月、 ふと住み込んだ地に5か月、 帰省したりぶらぶらしたりした1か月と 暮らすように旅する感覚をようやく少し つかみはじめられた気がする。 都心部にある会社を2019年秋に退職したものの のんびりしているうちに県境を跨ぐのもはばかれるようになり あ~、自然の中で過ごすはずだったのに!と 閉じ込められたような感覚におちいった2020年。 これは一体いつまで閉じこもっていればいいのだ?と 悶々としているくらいならいっそ出てしまおう と思う間もなく出てしまって

        • 過去と未来をつなぐ今

          1年も放置していたnoteを書いてみようと思った このアドベントカレンダー企画に感謝です。 参加を受け入れてくれた池田さん、ありがとうございます。 12月という月はとても面白いなぁと感じている。 未来を見据えて手帳を買ったり大掃除をしたりしつつ 過去を振り返ったりみつめたりすることが多いから。 来年はどこで何をしていようかと思いに耽ってみたり 今年はこんな所にも行ったなぁとニヤニヤしてみたり。 だからこそ、なんとなく「今」をじっくり感じたくなった。 今の私は、久しぶりに

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        • 私の旅ー自伝的ななにか
          12本
        • 言の葉
          2本
        • 裁判員制度の裁判員を体験
          10本

        記事

          たった1社だけ応募した山小屋

          大学で入ったワンダーフォーゲル部の 初めての夏合宿は北アルプス。 九州からえっちらおっちら、今や懐かしき寝台列車はやぶさにて 向かったのでした。 山行記録が手元にないからあやふやな記憶だけど 中房温泉から合戦尾根を登り、燕岳から表銀座を歩いたものの たぶんチビッ子な私への配慮として大キレットを避け、横尾へ降り 涸沢を拠点に北穂、涸沢岳、奥穂と登った。 この時見た、あの風景の中にいたくて、標高2,400mにある山小屋に履歴書をぽんと送ったあとは、電話で面接(のようなもの)を

          たった1社だけ応募した山小屋

          就職活動というのも面映ゆい就職活動

          大学2年生のときに免許をとったら まったく興味がなかった運転が面白くなってしまい、 赤いHONDA CIVICを買ってしまった。 よく走る可愛い車で、運転することにドはまりしてしまい 四国一周2週間、北海道一周半からの日本縦断1か月超の旅をしたり バイト終わりに阿蘇まで走ったかと思えば、 その足で久留米までラーメンを食べに行ったりした。 あちこちに行き、あちこちの景色を見てきたなかで 私がそこに居たいと思った場所は、サークルの新人合宿で行った 北アルプスだった。 4年前にた

          就職活動というのも面映ゆい就職活動

          ここから私の人生は流れ出す、いや転がりだすのか

          大学4年生になった。 いや、休学していたので5年生か。 就職活動をしていた同期やまさに就職活動中の後輩たちを見ていたのに 「就職」と「私」がまったく結びつかなかった。 新しいことを学べる、これまでとは違う人たちと知り合えることができるから働くことは大好きで、大学生になってからバイトをしてなかったことはなかったのに。 一時期は、昼は大学内の購買で、夜は大学近くのレンタルビデオ屋で働くという、お客さんに「あれ、あそこにもいませんでした?」と覚えられるほどシフトにも入っていたのに

          ここから私の人生は流れ出す、いや転がりだすのか

          書くも書かぬも自由きまま

          1日、2日、3日と書き進めていくと 「今日も書けたね!」みたいな褒め?言葉をnoteにかけてもらえるけど (ひと月以上も書いていないから、その文言さえも思い出せず) 書かない日が1日、2日、3日と続いても叱られも注意喚起もされないから あっという間に書かないままひと月半。 こんなに書いてなかったのねと驚いちゃった。 8月はリゾートバイトをした後、そのまま旅に出て 20日ほど自宅をあけていた。 やっぱりPCがないと書く気になれないのだった。 とはいえ、PCのある自宅に帰ってき

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          息ができる場所を求めて

          3年次の春先だったのか、2年次の秋だったのか。 私は大学のある都市を離れ、高校時代の友人がいる都市にいた。 ひと月かひと月半か滞在し 友人の友人たちと遊び、あまつさえバイトまでもしていて 今思うと、これが「暮らすように旅した」最初だ。 このころに大学を休学したのか、この旅のあとに休学をしたのか ほんっとに覚えていない。 そんなに適当に生きていたつもりもないんだけどな。 あのときは、ここではないどこかに憧れていたような ただただここじゃなければどこでもよかったような。 た

          息ができる場所を求めて

          山に入ることまでは嫌いにならなかった

          サークルに入るためにその大学へ進学したようなものなのに けっきょく卒業まで在籍できなかった。 活動内容には違和感なく、楽しく過ごしていたのにな。 登山にはどうしても最初にそろえる装備にお金がかかるし 山にばかりいるからバイトもできないということで 経済的な理由で辞めていった子もいた。 古本屋に本を売って(さすがに教科書じゃない)なんとかしのいだり、 「教科書代が思ったよりかかって」という学生の3割は使ったことがあるような台詞で親から余計に仕送りしてもらったこと、私もある。

          山に入ることまでは嫌いにならなかった

          昭和のくされ大学生のような生活の日々

          大学入学式の日。 ワンダーフォーゲル部の勧誘にまったく出会えなくて 自分から探して早々に入部した。 仕送りもそこそこいただいていたのでバイトをすることもなく どっぷりとサークルに勤しむ日々だった。 筋トレや歩荷(荷物を背負って歩く)などの訓練はきつかったけど 特別なことをするわけでもないのに、山にいることは楽しくて 週に2つほどだされる山行計画のなかから毎週のように山に行っていた。 はじめての試みだったサイクリングに参加したのはよいものの ちびっ子の私には、サイクリング部か

          昭和のくされ大学生のような生活の日々

          ここが転機だなんて思いもしなかった

          高校3年生になった。 3年生になったときにはゆるーく楽しく高校生活を楽しんでいた。 そうそうに専門学校に進学することに決め(それも動物保護に関わる専門学校。まぁ自然とは結びついていたのか)、三者面談でもそう伝え、親にも担任も納得していたのに。 あぁ、それなのに。 友人の仲良しの先輩(とはいえ、私の中高の先輩にもあたるのだけど)に誘われて、その先輩の通う大学のワンダーフォーゲル部の登山イベントに行ったことが今の私の大部分を形成することになるとは考えもしなかった。 先輩の下宿

          ここが転機だなんて思いもしなかった

          いろいろあったはずなのに、今思い返すと平和だった

          転校してみるのはどうでしょうと担任に言われたりもしたけれど なんとなく学校に行かなくなったように なんとなく学校に通い始めるようになり、 「有給消化だから」ととぼけたことを言いつつ休みながらも 卒業まで居座ることができた。 学校に行くと言いつつ、病院の待合室で時間をつぶしているような そんな私に父はなんにも言わなかったなぁ、と今頃感じいったりする。 私が成人してから、あの時は悩んで友人に相談したりしていたと語ってくれたけれど、そんなふうにはまったく見えなかった。 2年次の

          いろいろあったはずなのに、今思い返すと平和だった

          あのときの感情はいまも言語化できない

          高校生のとき、私の知らないところで、私は「とんでる女」と呼ばれていたらしい。 卒業後、友人が教えてくれた。 飛んでる?跳んでる?とんでる??? と可笑しくて問い詰めたけど それほど私は異端だったんだろうか。 特に希望してはいなかったけど、入試時の成績によって特進クラスに入った。同じ高校に進学した彼とも同じクラスになったけど、楽しい高校生活の始まり♪ なんて高揚感を味わったのかどうか、今の私は覚えていない。 クラスメイトには国立大学や早慶に進学した人もいたから、九州の田舎の

          あのときの感情はいまも言語化できない

          このままの自分は嫌だ、そう思ったのははっきりと覚えてる

          中学生になった。 1年次は小学生の延長のように過ごしていたけど なぜだか2年次に、このままの自分は嫌だな。 そう思ったのだった。 とても天気のいい日に、教室で本を読んでいたら 仲のいい男子から「だからダメなんだよ」みたいなこと言われたことあったのは覚えてる。 教室の入り口でたたずんで、教室内を眺めつつ このままは嫌だ、そう思ったのもはっきりと覚えてる。 なんでそう思ったんだろう。自分のなにが嫌だったんだろう。 でもそのお陰で、初対面の恐怖をグッと握りしめながらも 自分に

          このままの自分は嫌だ、そう思ったのははっきりと覚えてる

          小学校の6年って長かったと思っていたけど、思い出してみればこんなもの

          小学校時代もあまり覚えていない。 ん、私ってバカなのかな。 外遊びにあまり興味がなく、 休み時間は教室で本を読んだり塗り絵をしたりするのが好きだった。 先生に、外で遊びなさい!と言われるのがほんと嫌でねぇ。 今でもそんなこと言われるんだろうか。 早生まれの私は今でも小さいけど、当時もほんとに小さくて あの頃はあまり体力がなかったようにも思う。 そのうち、外で本を読むという技を覚えたけど。 2・3年生の頃だったか、 先生が「はーい、席につきなさい」と言うと 同じクラスの関君

          小学校の6年って長かったと思っていたけど、思い出してみればこんなもの