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「今日の仕事は、楽しみですか」で傷ついた人々を守ろうとするたび、貴方も誰かを傷つけている

この広告で憤怒している人って、実際にこの現場で広告を見た人というよりも、ネットで回ってきたツイートを見た人が騒いでいるだけなのかな、とか思ってしまう。ちゃんと背景まで知っているのでしょうか。この広告がどのように流れてきたのか、知っているのでしょうか。

この広告が流れる様子を動画に収めたものを見ると、「今日の仕事は、楽しみですか。」の文言が出たのはほんの一瞬だ。それからすぐに、この文言に込められた思いがサインネージに流れていく。この言葉の背景が、きちんと画面に映し出されている。

こういうことがあるたびに、物事の断面だけを切り取って非難する人が多すぎるのではないか、とか思ってしまうよ、こんな世界。

多様性だのインクルーシブだの、あらゆることを受け入れようという、柔軟さが浸透し始めている時代、そうなってきたはずの、この時代。

それゆえに「この広告は、つらい思いをしても一生懸命はたらいている人々を傷つける」とか「失礼だ」とか、みんなは言うけれど。それは確かに、わかるけれど。

でも、そうしてあなたが断面を切り取ることで、あなただって、また異なる層の人々を傷つけているかもしれない。あらゆる人々を尊重しようと声を上げた結果、それは、思いもよらない形である一定数の人間を排除してしまっているかもしれない。意図しないところで誰かを傷つける、なんて、何億光年も前からこの世界に存在していたことで、それはきっと、どれだけ多様性を受け入れようと頑張ったって、決して避けられないことだと思うのだ。

でも、こうして声を上げる人々がいることで、結局この資本主義は回り続けている。本当に多様性を受け入れるのなら、そっと黙って、人は人、と割り切るしかないと思うけれど、どうなんだろうな。

多様性が受け入れられる、というのは、みんなが仲良しこよしになるのと、絶対にイコールじゃない。本当はもっと、冷たいものなの。ドライで、誰かを一定の距離に突き放すものなの。だのに、こうして私たちは、怒って叫んで、誰かを守ろうとし、結局は誰かを排除してしまう。自分ではない誰かのために、必死になって怒ったりする、なんて、私にはそんな労力もエネルギーさえもないよ。みんなが必死になって多様性を認めようとしている、この世界を、私はただ傍観者として、遠い場所から眺めているような心地。自分とは異なる人間たちが、皆優しくて、そして皆、ひどく自分勝手なんじゃないかと、ぼんやり思う。

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