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ルーズプレイスが必要なのだ

(本文は、2022年7月11日に全国の書店やAmazonなどで出版された書籍『へそ ── 社会彫刻家基金による「社会」を彫刻する人のガイドブック』(MOTION GALLERY編)に書いた寄稿文「ルーズプレイスが必要なのだ」(pp188-193)より転載します。本書で取り上げらているケアとアートのスペース事例 ボーダレスアートスペースHAP(広島)に応答する形で書かれたものですが、文脈がなくても独立して読める内容として書きました。以下、どうぞ拝読願います。)

寄稿 「ルーズプレイス」が必要なのだ アサダワタル

 木村成代さんのインタビューを読んで、ボーダレスアートスペースHAPのような拠点が、全国津々浦々の中学校区くらいのエリア間隔で広がれば、めちゃくちゃ世の中がまともになるだろうなって思いました。木村さんたちの活動にリスペクトを現す意味でも、以下文章を綴ります。

 僕は、関東や関西にある主に都市部の障害福祉施設で、定期的に音楽のワークショップをしたり、コミュニティカフェの立ち上げに関わったり、ダンサーや美術家をコーディネートして、福祉サービス(地域活動支援センター)の運営をやってきました。とりわけ品川区の公立施設では、指定管理者の民間法人が僕をアートディレクター職として雇用し、アトリエ活動、写真サークル、DIY、園芸、ダンス、音楽、創作紙芝居などあらゆるアート・表現活動を通じて、利用者さん(主に18歳以上の知的障害のある人たち)と地域の人たちがつながる機会をつくってきました。

 では、何のために「アートで支援」をやってきたのかというと、簡潔に言えば、アートは支援の一つとして誰かをいたずらに評価せず、いろいろな個性を尊重できるからです。福祉現場で働くスタッフたちとこの数年一緒に仕事をしてきたなかで、感じてきたことがあります。それは、障害福祉の世界にはノウハウがないということ。支援の専門性が「これ!」と言った形で現れにくいと言ってもいいかもしれない。福祉の関係者からは「そんなことはない!」と怒られるかもしれない。でも、これは悪い意味で言っていません。もちろん、自閉症やダウン症の認知や行動特性を学ぶことは大切です。また、身体介助や医療的ケアなど、明らかに専門的な知識に裏打ちされるシチュエーションはあります。しかし、日々のやりとりにおいては、スタッフの経験値次第の部分が大いにある。考えれば当たり前のことですが、利用者さんは「障害者」である前にひとりひとりまったく異なる背景と個性を持った「人間」であり、「障害特性」として理解する以前の、あるいはそれも含めて「その人自身」に広くかつ深く関わろうとする態度が、支援職には必要なのかもしれない。そうなってくると、利用者さんと向き合うときのスタッフ側の佇まいは、福祉系の大学や専門学校で学んだことより、その人の様々なタイプの社会経験や今まで何を考えてどう生きてきたかに左右される。これって、すごく「試される」わけだけど、その分、自由さは半端ないですよね。だからこそ、スキルが構築できていないというよりは、むしろ可能性なんですよ。正解がないこと、相手との向き合い方が個別であること。これって、アートの性質そのものだと僕は思います。

 人の命に関わる危険なことは回避しないといけないけど、「これはいい」「これは駄目だ」という規範に縛られずに、人としてお互いを尊重しながら関わり合うことが重要だと分かること。それは、表現活動に関わってきた(広い意味での)アーティストが日常的に体感してきたことと同じだと思う。アーティストが「福祉の経験は何もない」と言いながらも、人として福祉の支援に関わっていく際、立ち振る舞いや佇まいがすでに「福祉に向いている」と思わされたことも一度や二度ではありません。

 さて、紙幅も少ないので、ちょっと突っ込んだ話をしますね。福祉サービスは、基本は「囲い込み」です。これは別にコロニーのような地域から隔離された大規模福祉施設に限らず、「地域福祉」が推進される現在でも変わりません。あくまで、「囲い」があってそこに地域の人に来てもらったり、地域に出て行ったりして交流をするということは、基本的には「分断」を前提としている制度設計であるということ。別に批判しているわけでなく、構造上そうなっているという話です。結局、施設もグループホームも、「あそこにいる人たちは障害のある人たち」ということになる。だって、名称だって「障害者〇〇施設〇〇」なのだから、周りからそういう場所だと見られるのは当然。これも良し悪しの問題ではありません。

 むしろ問題なのは、身体的、発達的、知能的、心神的な個々人の「差異」をもとに、社会的な「能力」(「生産性」と言い換えてもよい)でゾーニングし、その能力を「この程度発揮してもらう」「できる限り、普通に能力を持っている人に近づいてもらう」というもとで展開される福祉サービスは、「社会の縮図」として展開されているという事実。「当たり前じゃん」って思うかもしれませんが、僕は前提として、この「生産性」ばかりが重視される日本の「社会」がまともだなんて思っちゃいない。どうまともじゃないかを書き出すと、それだけでものすごい文字数が……! となるので書かないけど、コロナ禍になって一層、弱者に厳しい社会が浮き彫りになり、自己責任モードが強化されたという認識は、多くの読者が持っているのではないでしょうか。「不要不急」というふわっとした呪文に行く手を阻まれ、仕事を失った多くの文化関係者・飲食関係者たちに対しても(僕の現場にも仕事がなくなって支援職についた人がいる)感じることはいっぱいあるし、一体誰にとって得なんだよと言いたくなるくらい「自粛警察」を内面化し、監視し合うこの「空気が支配する国 日本」で、伸び伸び言いたいことを言い、やりたいことをやるということが、どれほど巧妙に制限されていることか。

 そんな出鱈目で底の抜けた「社会」の縮図を、真に受けて目指す必要なんてありますか? と、僕は福祉サービスを運営する仲間達に問いたい。例えば、ペットボトルのキャップを利用者さんに色分けさせ、それぞれ別のケースに仕分けていく作業。「はい、今日はここまで」ってことで、ケースに入ったキャップをふたたびザザーっといっしょくたに戻して、また次の日それをやってもらうなんてこと、なんの意味があるのか。訓練? その先に就労につながると?でも、それ、自分がその人の立場だったらやりたいだろうか。そして、それを支援のメニューとしてやっているスタッフは、それがその人のためだという確信があるのだろうか。逆に言えば、確信がないのにも関わらず、「これが当たり前で、これしかやれることがない」と思ってやっているのであれば、そんなことはない。支援メニューの中身の自由度なんて実は相当に高く、究極「支援」という名で「何をやってもいい=どんな日中活動プログラムも、どんな就労メニューだって、どんなレクリエーションだって組んでいい!」のであれば、そこで「誰もが生きやすい、もうひとつの社会を仮設する」という意味での「社会実験」をすればいいのではないでしょうか。障害福祉という現場はその社会実験の足場としてぴったりだと思っているし、そこのスタッフと利用者さんの関係は「支援/被支援」の関係から、福祉サービスという名の「制度をハッキングする共犯者」として発展し、とにかく面白いことを試してゆく。そうなればよいと、僕は本気で思っているんですがどうでしょう。

 「誰もが生きやすい、もうひとつの社会を仮設する」と言いました。そう、これは福祉サービスの狭義の対象者のみの話ではない。僕が長らくいろんな立場で関わってきた障害福祉サービス事業所は、このことを心底踏まえて活動しています。kokoima(大阪堺)も、カプカプ(神奈川横浜)も、ハーモニー(東京世田谷)も、レッツ(静岡浜松)も……(それぞれ様々な記事が出てくるので検索してみてください)。そして、究極の特徴は、「何をやっているのかよくわからない場所」になっていること。福祉サービスという制度を立て付けにしながら、障害当事者も、独居の高齢者も、子育て中の親も、小学生も、アーティストも、なんとなく集まって何か変なことをしている。社会でなんとなしに生きづらさを抱えるけど、だからって「障害者」(手帳をもっているとか/そうでないとか)ってわけでもないような、いや、そもそも何が「障害」なんだろう? という問いに突き詰めれば行ってしまうような、いろんな背景と個性を持った人たちがゆるく連帯し、ご飯を食べたり、語ったり、絵を描いたり、音を奏でたり、植物に水を撒いたりするところ。障害者施設という看板が書かれた場所には来ない。「自分はそうではないから」。であるならば、制度を使いつつ、はたからみれば「ここ何やってるところ?」という謎の場所を、でも誰にでも開かれている場所という不思議な存在を目指せばよいのではないか。そのためには、喫茶店に「なりすます」。アートスペースに「なりすます」。そしてぐるっとひっくり返して障害者施設にすら「なりすます」。あわいの場所。一見、曖昧で、無目的で、余白だらけの。僕はこれを「ルーズプレイス」と呼ぶ。「福祉」という言葉をこの「社会」の出鱈目さを基盤に再定義し、社会に塗れ過ぎなくともよいちょっとした空隙目掛けて仮設的・多極的に展開する「ルーズプレイス」こそを目指すのだ。

 それを「社会彫刻」と言い換えてもよい。少なくとも、ボーダレスアートスペースHAPの活動からは、その要素を木村さんが発する言葉からだけでも十分に感じられる。冒頭に言った通り、中学校区にひとつHAPさんのような場所があれば、その地域は幸せだ。僕らはそんなに強くない。自分にとって日頃からルーズプレイスを持っておくことは自衛策であるとともに、違う背景を持ちつつも「仲間」だと思える人たちと連帯する機会を生み、その過程で人は利他的になり、不思議なことにそのようにして(のみ)自分が幸せになれる。木村さんが言うように、「私たちは何者なのか」。少なくとも、「私たち」は「ひとり」ではない。

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