アサダワタル(文化活動家)

「表現(アート)」で社会をより緩く、面白く、生きやすくしたいと走りながら思索。近著に『住み開き増補版』(筑摩書房)、『ホカツと家族』(平凡社)、『想起の音楽』(水曜社)、CDに『福島ソングスケイプ』(GrannyRideto)等。博士(学術)。近畿大学文芸学部教員。

アサダワタル(文化活動家)

「表現(アート)」で社会をより緩く、面白く、生きやすくしたいと走りながら思索。近著に『住み開き増補版』(筑摩書房)、『ホカツと家族』(平凡社)、『想起の音楽』(水曜社)、CDに『福島ソングスケイプ』(GrannyRideto)等。博士(学術)。近畿大学文芸学部教員。

最近の記事

判決は終わりじゃない。これからどう変わる/変えるのか。

本日10/24の判決で東京地裁は、長年にわたって性加害行為があったことを認め、(社福)グロー前理事長 北岡賢剛氏に220万円、グローに440万円の賠償を命じました。判決内容は各種記事に任せるとし…… ↓ ▪️元職員への性加害認定 社会福祉法人グロー元理事長らに賠償命令(毎日新聞) https://mainichi.jp/articles/20241024/k00/00m/040/249000c ▪️グロー損賠訴訟 前元理事長らに660万円の支払い命じる 元職員に性暴力やセク

    • パレスチナ・イスラエル音楽文化研究会Vol.2(+3) レポート -レベルミュージック(REBEL MUSIC)、そしてパレスチナ、そして路上文庫-

      はじめに 前回から報告がおそくなってしまいましたが、「10月7日」を迎える中で少しでもこの研究会で紹介された内容を記録しておきたいと思い、ここに二回目のレポートをアップします。まず趣旨を以下に。 下地をつくるその1 ーレベルミュージック(REBEL MUSIC)ー 会の前半は、主催者のアサダワタル・杉本市大による独断と偏見で紹介する「レベルミュージック(REBEL MUSIC)」のコーナーです。主に取り上げたのは、フリージャズ、そしてスカ/レゲエ、ハウス/テクノ。クラシ

      • あれから8年

        津久井やまゆり園での殺傷事件から8年経った。 事件を知ったときの衝撃はいまでも忘れることはない。 「能力主義」「生産性」「できるか/できないか」(事件の場合は“喋れるか/喋れないか”)に徹底的にこだわった植松死刑囚の殺人の基準は、決して他人事ではなく、日常のあらゆる思考に深く根付いている。 「できるか/できないか」という基準は、スポーツでも、アートでも、なんでも「障害者なのにすごい」という感動ポルノ的な捉え方や、 「障害者だからすごい」という超人的な捉え方を生み、 それら

        • パレスチナ・イスラエル音楽文化研究会Vol.1レポート -音楽と社会の関係をイスラエルジャズから垣間見る-

          はじめに/この会の趣旨 ガザで起きている虐殺に対して何かできることはないか、と考えてきました。もちろん寄付をしたり、デモに行ったり、SNSで停戦を呼びかけるなどいろんな方法はあります。今年の4月から近大通り(近鉄長瀬駅)で運営している古本屋兼レコード屋である<とか>にレコードを卸してくれている杉本市大さんが「一緒にやろう」と声かけてくれたこともあり、小さいながらもアクションを起こすことにしました。私たち二人は、できるだけ“カジュアル”なアプローチでできる小さな社会運動につ

          「水辺」を求めて三千里

          時間の過ぎる速度が日に日に上がっている。ただただ目の前に来る仕事や子育てに追われる中で、じっくり考えて表現する時間にまで「効率化していかな!」というモードになっていることをどう考えるか。実際に、判断を早くしたり、判断するための思考の材料を日々整えたりすることは大事だと思う。でも、それをやりすぎると常に前のめりになって、他人に厳しくなったり、自分を追い込みすぎたりする。でも、それでもどこかで「まだやれる」と思っている。そう自覚しながらも、やはりそれでも「まだやれる」と思い続ける

          「水辺」を求めて三千里

          なかったんじゃなくて、あったかもしれないけど、潜ってこなかったんだ

          過去にあったことを対象化しながらも、そのことを「終わったこと」として扱うことと、その過去と関わり続けながらもうまく付き合えるようになることとは違う。うまく付き合うというのは、「回復し続ける」というプロセスであり、永遠に現在進行形なのかもしれない。だから、時に過去は目の前に忍び寄って、怒りや怖れの対象になる。他人から見ると、「なんでまだ怒っているの?もう昔のことじゃん」と思ったとしても、その対峙のリアリティは計り知れない。そこに対話の距離は生まれる。「私には君の気持ちがわからな

          なかったんじゃなくて、あったかもしれないけど、潜ってこなかったんだ

          それは「花の水やり」のようにそっと「やってくる」

          福島県いわき市でやってきた音楽プロジェクトが映画化された。県営の復興公営住宅である下神白(しもかじろ)団地の住民たちと、かつて住んでいたまち(富岡町や大熊町、浪江町や双葉町など)の記憶を当時の馴染み深い音楽を手かがりに語り合う「ラジオ番組」を創作してきた。「ラジオ 下神白 ーあのとき あのまちの音楽から いまここへ」というプロジェクトだ。一緒にプロジェクトメンバーとして活動してきた映像作家の小森はるかさんが、同名のタイトルで映画化した。いま各地を上映中だ。 自主上映会や映画

          それは「花の水やり」のようにそっと「やってくる」

          ブルシットなコミュニケーションの型

          人と付き合うことが年々苦手になってきている自分がいる。その一方で、人と程良く付き合うことが得意になってきている自分もいる。これは一体、両立している話なのか。 コミュニケーションのためのコミュニケーション、こういう風にふるまうととりあえずこの場は上手く進むだろうという語り方・モードみたいなものが発動しているときに、「自分はいま上手くやっているなぁ」という自覚があるのだけど、そういうときはどっちかと言うと「何をやってるんだろう?」という気持ちになる。決して、嘘を言ってるわけでも

          ブルシットなコミュニケーションの型

          変化の兆しのその瞬間/ずっと気になってきたこと

          誰かにとって生きやすく、暮らしやすくなることが、できるだけ多くの人にとっても生きやすく、暮らしやすくなることにつながればいいと思う。でも、現実はそうなっていないかもしれない。たとえば「昭和」という言葉に込められた憧れと嫌悪の落差。ある人は「昔は許されたのに!」と愚痴るし、別のある人は「あの習慣なくなってくれてほんと良かった。何が昭和やねん!」と。マジョリティに置かれている人にとっての当たり前が、マイノリティとされる人にとってはパーフェクトに差別であったり、ハラスメントであった

          変化の兆しのその瞬間/ずっと気になってきたこと

          言葉を半拍ずらす

          人に何かを伝えたい、知っていることを語りたいって気持ちがどうしても出たときの感覚。ドラムを長らくやってきている身体感覚で例えるとそれは、「走ってしまうリズム」とどこか似ている。そう、走ってしまうんだよなぁ。 僕は高校のときにドラムを始め、大学2年までキックペダルの「ダブル」に苦戦した。「ドドッ」と2回連続で打つんだけど、最初の一打がどうしても1/4拍ほど早くなって、つんのめりになってしまうのだ。この癖を治すのに随分苦労した。「気持ち半拍ずらして打とう」と思ってちょうどいい塩

          知るとか、言葉にするとか、伝わるとか。

          いまこうして世界各地で起きていることを知れるような気がして。でも、結局何を持って「知った」ことになるんだろうと途方に暮れるほど、情報が溢れかえっていて。そのように情報が「ある」とあたかも「知っている」ように思いこんでいること自体が間違いなのかもしれないと、ふと考える。 自分のささやかな日常の、ほんの目の前にある大切な人や出来事。一方でそれらを日々愛でながら、他方でそれらを囲い込みすぎずに誰かに対する配慮や想像力、つまり「別のあり方」をも認めることを大切にすべく自らの日常を相

          知るとか、言葉にするとか、伝わるとか。

          もっと「そもそも」の話を

          深く関わってきた人たちの間で重大なハラスメントがあったことが一昨年11月に報じられてから2年が経ちました。本件についての背景は、当時のメディア記事や、被害者を支える人たちが運営するウェブサイトなどを参照いただきたいですが、この間も、関係者に話を聞いたり、裁判を傍聴したりしながら、自分なりに近しい現場で見てきたこと、感じてきたことを、近々記事にまとめようと思います。 様々な職場での重大なハラスメント事案がニュースになり、声を上げた被害者たちの想像を超える、比喩ではなく文字通り

          もっと「そもそも」の話を

          音楽は〇〇でもありえる ー音大で授業して考えたことー

          例年、音楽大学で作曲や演奏を学ぶ学生さんたちにゲスト講師をしている。具体的には東京音楽大学と大阪音楽大学だ。京都精華大で非常勤講師をしていたときは所属学部がポピュラーカルチャー学部というところだったけど、そこでも音楽コースを専攻している学生さんが多く、「音楽表現×生活世界」みたいなことを、いろいろ話したり、時にワークショップしたりしてきた。 それで、ちょうど数日前に、東京音楽大学の「音楽文化教育の最前線」というゲストレクチャーシリーズに招待してもらって、「社会を知るのではな

          音楽は〇〇でもありえる ー音大で授業して考えたことー

          「懐かしさ」についての覚え書き/『共創のコラボレーション』(UTCP)より

          東京大学 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)が取り組んできた「デザイン×哲学対話」を集積をまとめた書籍『共創のためのコラボレーション』。アサダも主宰の梶谷真司先生と共に、2018年に駒場キャンパスにて「音楽×想起によりコミュニケーションデザイン」をテーマに語り合いました。その後、今回の書籍に「自由な内容で寄稿を!」と言われ、「懐かしさとメディア」の関係について軽めのエッセイ(同誌pp8-9)を書きましたので、以下ぜひ読んでみてください。 ↓↓ 「懐かしさ」につい

          「懐かしさ」についての覚え書き/『共創のコラボレーション』(UTCP)より

          それを君から教えてもらった

          自分の人生は変化過多の方かもしれないって思う反面、案外、変わっていないこともちゃんとあるんだなって思うことがある。過去を振り返ると、なんかいたたまれなくなることもあるし、でも、やっぱり大切なことも多くあったんだなって思うこともあって、うーん、結局何が言いたいのだろう・・・?! 先週、20年ほど前に、ライブで共演してきた京都在住のミュージシャンであり、謎の表現者 「マイアミ」こと、吉野正哲さんたちご家族やお仲間が暮らす壬生のシェアハウスに遊びに行った。20歳くらいの頃、本格的

          それを君から教えてもらった

          夏の終わり

          先週末まで約一ヶ月、新潟県妙高市で過ごした。単身生活(3年間東京、今年からは大阪)も四年目。妻と娘2人は実家があるこの妙高市に生活のベースを置き、僕が新幹線や特急を乗り継いで行き来してきた。今年から大学の専任教員になったこともあり、夏休みのタイミングで新潟にがっつり居られるかも? そう思って、イベント出演やワークショップなど現場仕事をがっと7月に詰め込みとんでもない移動の日々となったけど、その分、8月はずっと家族と一緒に過ごすことができた。 改めて妙高市の環境はとても良いと