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【毒親育ち】お前は○○だ、というレッテルの話。

息子と母が一泊二日の旅行から帰ってきた翌日。夕食の準備をしている私に、母は怒涛のように旅行の顛末を喋っていた。
割とよくあることである。下剋上イベントから後、私は母の話を聞く時間を取らないようにしているので、母はどうしても話したいことがある場合、このように私が台所にいる時間を狙って出現しては一方的に喋りまくるのだ。
まぁ、たまにのことだから仕方がない。肉とキャベツを中華鍋で炒めながら「ふーん」「そうなんだ」と半自動的に相槌を打っているうち、母の話は観光牧場に息子を連れて行ったシーンに差し掛かった。

「(息子)は、ワタリに似て変な所が頑固なのよねぇ」

ほぅ?

あえて返事をしないままチラリと母を見ると、母は「まずい」と思ったらしく、慌てたように「息子がいかに頑固だったか」を説明し始めた。
要するに、母が「あそこに○○があるよ」と言ったことに対して「そこには行かない」「それは嫌だ」という自己主張を息子がして、だからそれらに行けなかった。という話なようである。
まぁまぁ評価すべきは、そこで息子の主張を優先して、それを無理矢理実行したりせずに「良いお祖母ちゃん」モードを維持したまま旅行を終えた事だろう。母にしては偉い。当社比で、だが。
「それでも行ってこられて良かった」と母が無理矢理に総括したところで、ちょうど肉キャベツ炒めが出来上がり、母はそそくさと退散していった。何か気まずさを感じたのか、単に話したい所を話し終えて満足したのかは謎である。

母は我儘かつ傲慢な人間だが、非常に小心者だ。
肉とキャベツを炒めている私が一拍分の相槌を打たず、チラッと母を見やっただけで軌道修正をして、私に「頑固ってどこが?昔からよくその言葉使うよね」などと言われない内に話の印象を上書きして、そのまま立ち去ってしまうぐらいには。

下剋上イベントからこっち、母は私を怖がっているようにすら見える。
正確には、また私がキレて母を非難することが、物凄く嫌なのだろう。
その程度の胆力しかない癖に、幼少期の私に随分な振る舞いをしてきてくれたものだ、と溜息をつくしかない。

さて。私が引っかかった「変な所が頑固」というフレーズは、昔から母が私を評するときに頻出していたが、今一つ意味が分からない言葉でもあった。

私はずっと、母に対してイエスマンだったはずである。多少の意思表示が可能なシーンも存在はしたが、母の思惑と一致しない時に「頑固に」自分の主張を曲げなければ、母は私を引っ叩いてでも折れさせてきた。つまり私から見れば、「頑固」を発揮できた記憶などないのだ。
そして私の息子もまた、「頑固」と呼ばれるような性格をしているとは私には思えない。息子なりの基準で何かにこだわったりすることはあるが、買って欲しいと言い張るものを却下しても納得してくれるし、私が何かプレゼンすることで気が変わったり、興味が移ることもしばしばある。
なのに何故、母は「変な所が頑固」という表現を昔から好んで使い続け、しかも今、息子に対してまで使うのだろう?

――もしかして。
「頑固」という単語の示す意味が、母と私で違うのか?

頑固がんこ
[名・形動]
1 かたくなで、なかなか自分の態度や考えを改めようとしないこと。また、そのさま。「—な職人」「—おやじ」
2 取りついて容易に離れようとしないこと。また、そのさま。「—な汚れ」「—な水虫」

weblio辞書

ググった感じ、「頑固」という言葉の意味はこんな感じらしい。
大体私の中の定義もこうだ。強いて言えば、私はあまり「頑固」というフレーズにそこまでネガティブなイメージを持っていない。どちらかというと例文にもある「頑固な職人」のような、ポジティブ寄りのイメージを持っている。

私にこういう、自分でも理由の分からない認識の偏りがある場合、大抵は母の影響である。
そしてよくよく思い返すとやはり、「頑固」という言葉で怒られた記憶はなかった。「気が利かない」「グズ、のろま」「みっともない」「頭が悪い」などのフレーズでは毎回強く叱られてきて、それらはしっかりとネガティブなイメージが私にもある。
だが「頑固」は許容されるべき個性だ、と私は認識している。つまり、「母に許容されてきた個性」ということになる。

「頑固さ」は勿論、一般的には欠点だ。だが母に許容される欠点ということは、母から見ると……?

なるほど、分かった。
「変な所が頑固なんだから」と母が言う時、それはイコールで「仕方がないから我慢してあげる」という意味だったのだ。

そうかそうか、そういうことか。
私が頑固かどうか、息子が私に似て頑固かどうか、ここは実態はあってないようなもの。
母が言う「(息子)はワタリに似て変な所が頑固」というのは、あくまでも「(息子)が都合の悪い主張をしたけれど、仕方がないから我慢してあげたのよ」という母のドヤ話なのだ。

だから母は昔から繰り返し、「ワタリは変な所が頑固で」とへらへら笑いながら他人に話してきたし、私のことも叱らず、揶揄するような言い方で終わりにしてきたし、祖母の立場になっても「孫が頑固で」と言い続けていると。
納得である。

とすると、昔から母が私に対して色々と貼ってきたネガティブなレッテルも、「一般論としての」欠点ではなく、「母から見て」の私の不都合な要素に、母がそう名付けていただけ――と見ることが出来そうである。
一つずつ点検してみよう。

例えば、「気が利かない」。
これは私が気が利かない人間であるかどうかではなく、「母が言っていないけれどやって欲しかった行動を、私がしなかった」という意味だろう。
こういうディスりは誰でもよくあることだと思うが、今の私が親目線でこの言葉を見ると、母の考えが甘すぎて呆れるレベルである。察してちゃんを、しかも子供に対してするなど無謀の極致だ。「雨が降ってきたら洗濯物を取り込んでね」という発言には意味があるが、「気が利かない」と罵倒するのは無意味過ぎるし、実態と合っていない度合いが甚だしい。

「何もできない」。
これは言葉として非常に強いディスりだが、母が言う場合には「頑固」と同様、大してネガティブな意味では使われていない。母の「だから私がいないと駄目なのよ」のような、自己肯定感を上げる発言の枕詞として使用されているものである。
にしてもよく考えると随分な言い草である。例えば「ワタリは何もできないから~」という代わりに「ほら私って天才だから!!」みたいな、もうちょっとマシに自分ageできる枕詞もこの世には存在するはずだ。まぁそれが出来るぐらいなら毒親とは呼ばれないわけだが。

「のろま、グズ」。
これは私の行動が他人より遅いことを指していて、多少はその側面もあったが、どちらかと言えばやはり、せっかちな母を「待たせた」ギルティに対しての非難ととらえるべきだろう。
何言ってんだ、子供が親を待たせるなんて日常茶飯事だろうに。待つのが苦手な自分の短気と我儘を治せ、と今の私としては物申したいところだ。

「頭が悪い」。
これも、母から見て効率的でない挙動を私がしていた、という事柄に対する非難と見るべきだろう。「段取りが悪い」あたりに相当する意味のはずだ。
「のろま、グズ」とセットで使われることが多かったので、私がモタモタと準備をしていて、早く出かけたい母を待たせていた、というような状況で罵倒されていたのだと思われる。
小学生の常套句、「バカって言う方がバカなんだからね!」という言葉を慎んで進呈すると共に、心の中で中指を立てておこう。

「みっともない」。
これは母にとって非常に重要で、強く叱られ続けた事なのだが、私はついぞ「何がどうみっともないか」が理解できなかった。
靴下が片方下がっていたとか、Tシャツの裾がスカートから出ていたとか、授業参観で猫背になっていたとかの「みっともない」に関する説教を、私は非常に多く食らっていたが、やっぱり今でもよく分からない。その程度の「みっともなさ」など、小学生にはありふれている。わざわざ叱られるほどの事ではないはずだ。

では、母にとっての「みっともない」とは何だったのか?
「母にとっての理想から外れている」、だろうか。

母は非常に他人の目を気にする人間で、しかしそれを自分でも隠そうとしている節がある。だが母は昔から、常に称賛を必要とする人だ。恐らく「我が子が他人から称賛されること」も求めていた。だから、「その辺のハナタレ小僧と同様にカッコ悪い私」では不満で「他人の称賛を受けられるぐらいカッコ良い娘」であることを要求し、それに達していない私を「みっともない」と呼んだ。きっと、そういうことだったのかもしれない。
「誰よりも一番カッコよく振舞いなさい」と、そう言いたい所を我慢した結果としての「みっともない」だったなら、あの使い方もうなずける。

分かるかそんなもん。っていうか無茶言うな。
大体育児なんて、カッコつけてやれるような代物ではないのだ。私の息子なんて、小1でBB弾を鼻の穴に詰めて耳鼻科に行く派目になり、行った先で医者に「お母さん、こういうのをやる子は何度でもやりますから。次は夜間でも何でも、すぐに!すぐに連れて来て下さいね!!」と念押しまでされたカッコ悪さである。息子も半泣きでしょげていたので、冷静な注意に留め、怒鳴りつけたりしなかった私を見習え。いやー、流石に恥ずかしかった。

――と。母のレッテル貼りについていちいち文句を書いていたら、モヤモヤしていた気持ちが大分スッキリした。

母は、世界の標準ではない。

本人がどれだけそう主張していようとも、どんなに正当化していようとも、母は母という一人の個人に過ぎず、私を上回るレベルの愛着障害を持ち、恐らくは自己愛性パーソナリティ障害も持っていそうな、ただの人間なのだ。

母が私に貼り付けた多種多様なレッテルは、「その時の母の不満」を言語化しただけのものであり、私の能力や性質を表したものではなかった。
これらのレッテルは、単に母の「その時はそう思った」の集合体に過ぎない。

当然のことだが、この当然を認識できるようになるのに、私はこの年までかかってしまった。それこそが「毒」であり、私に必要な解毒である。

あなたは○○だ、という言葉は、物凄く強い。
インパクトもあるし、それが親に言われたものであれば、自分の個性を定義するものとして認識してしまうのも自然だと思う。
だが。母に限らずだが、他人から与えられた「あなたは○○だ」というレッテルを、信頼してはいけないし、いけなかったのだ。

そして私もまた、これまでnoteに息子を評して「のんきで忘れっぽい」とよく書いてきた。本人を前には言っていないが、そういう風に決めつけることも、なるべく避けるべきだろう。

私から見た息子の「のんきで忘れっぽい」も、私が深刻だと感じたシーンで息子がのんきに振舞い、私が前に言った小言を忘れていることが多発する、ただそれだけの話である。
「星のカービィが好き」は本人が明言している所なので、今後はなるべくこの表現にとどめておこうと思う。

のんきかどうか、忘れっぽいかどうか、あるいは他の何かがあるか。
誉めたりけなしたり評価したりすることはあるだろうが、なるべく固定化しないように、うかつにレッテルを貼らないようにしたい。
息子にも――自分にも。


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